男はつらいよ 寅次郎忘れな草
★★★★★

松竹/99分/1973年(昭48)8月4日公開 <第11作>    
原作    山田洋次    脚本    山田洋次  朝間義隆    監督    山田洋次
撮影    高羽哲夫    音楽    山本直純    美術    佐藤公信
共演-倍賞千恵子・松村達雄・三崎千恵子・前田吟・太宰久雄・笠智衆
ゲスト-浅丘ルリ子・毒蝮三太夫


併映『チョットだけヨ 全員集合!!』監督:渡辺祐介 出演:ザ・ドリフターズ
動員数239万5000人/ロケ地・北海道網走

キネマ旬報BEST10第10位
第28回毎日映画コンクール・監督賞/山田洋次、同・脚本賞/山田洋次、朝間義隆
第17回日本映画テレビ技術協会・録音の部/中村寛、松本隆司

 

★「男はつらいよ」シリーズ第11作目。

シリーズで4度のマドンナ役を務めたリリーの初登場作。そして名作の誉れ高い作品。
 

相変わらずの夢のシーンから始まるがそれまで敵役だった吉田義夫は父親役に扮し、敵役にはタコ社長の太宰久雄、その子分に源ちゃんの佐藤蛾次郎が演じている。ますます楽屋落ちの雰囲気となっている。

今回寅が柴又に戻ってくるとちょうど父親の法事の最中。おいちゃんが死んだのかと勘違いしての一騒動。このシーンでは以後定番となっていくおばちゃんのセリフ「・・さくらちゃん怒っちゃったよ、私しらないよ」が初登場。

そしてピアノ騒動へと話は流れていく。さくらがピアノが欲しいと聞いて寅はおもちゃのピアノだと勘違いしてプレゼントする。何とかその場は取り繕うがタコ社長の一言でおジャン。寅は「お前たちのような労働者がピアノが買えるわけ無いだろ。そもそもあのアパートにでかいピアノが入るのか」と罵る。そして博の、これまた定番セリフ「・・・お兄さん、非道いこと言うな」おいちゃんの「出て行け!」でプイと柴又を去る寅。

所変わって北海道の網走。キャバレー歌唄いのリリーと出会う。
中学出たら家を飛び出してフーテンみたいな生活をしていたと話すリリーに寅は「ちょいとした俺だね」と同志的心情を持っていく。

この時浅丘ルリ子は33才、渥美清は45才。

網走の港で佇む二人の2ショットはこのシリーズでも屈指の名シーンだろう。根無し草の二人が寂しさや家族への憧憬を語り合い、アブクみたいな人生と例えて笑うこのシーンは「男はつらいよ」がただの喜劇映画の範疇を超えて、人々の琴線に触れ続けた、息の長い映画となった理由が垣間見える。

寅はその後、いつもの通り改心して「労働」をしようと酪農農家で働き出すが、すぐに倒れてさくらが迎えに行って再び柴又へと戻ってくる。そしてリリーとの再会。とらやの歓待を受けるリリーが庭先においてある鉢植えを見て「これが忘れな草かぁ・・」と呟く。忘れな草と同じ紫色の柄の服を着たリリーが鉢を持ち上げる。何気ないカットだが副題とも相まって強く印象に残るカットだ。

本筋とは離れるが印刷会社の工員と近所のお店の女の子のシークエンスが有る。
寅は二人を恋人同士だと思って冷やかすのだがなぜか女の子が泣きだしてしまう。博は「デリカシーが無い」と寅を叱責するのだがここは寅に対して過剰に反応している違和感がある。その後、博と工員たちは川べりで輪となって二人の男女に対して「あんな一言で壊れる友情なら最初から無いほうが良い。そうだろみんな」「意義なーし」となって工員が告白してメデタシメデタシとなる訳だが、少し`労働集会`的なニオイがする。

その後の団欒のシーンで寅のこれまでの恋愛相手を懐かしむシーンがある。黙って聞いていたリリーが「・・・何百万回も惚れて、何百万回も振られてみたいわ」と呟く。「何人もの男たちと付き合ってきたわよ。でも心から惚れたことなんか一回もないのよ。・・・一生に一度だけでいい、一人の男に惚れて惚れて惚れ抜いてみたいわ。振られたっていいの、振られて首吊って死んだって、私それでも満足よ・・」
それまでのマドンナとは異質なこのセリフ、リリーのほとばしる激情を浅丘ルリ子は見事に体現して演じている。

その後ある深夜、リリーがとらやを訪ねてくる。泥酔して一緒に旅に出ようと誘うリリー。大声で歌うリリーを持て余す寅。喧嘩別れとなって寅も旅に出る。上野駅の地下のレストランにカバンを持ったさくらが来る。畳んだお札を広げて寅の財布に入れてやるシーンが泣ける。

結局リリーは結婚して寿司屋の女将さんになっている。

リリーがさくらに言う。「あたしホントは寅さんのほうが好きだったの」・・・。

ラストは再び北海道の酪農家に立ち寄る寅次郎で「終」となる。

ドサ回りのキャバレー歌手という設定のマドンナの登場によって「男はつらいよ」シリーズはさらに深みを増した映画となっていく。

 

以下Wikiより転載

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浅丘 ルリ子(1940年7月2日 - )本名:浅井 信子。血液型はA型。前夫は石坂浩二。
 

満州国新京市(現・長春)に、4人姉妹の次女として生まれる。

父・浅井源治郎は満洲国経済部大臣秘書官を経て1943年にタイのバンコクへ軍属として転居。終戦後に一家はチャオプラヤー川の岸辺にあったバンバートン抑留所へ強制収容されるが翌1946年には引き揚げが始まる。しかし軍属を最優先として先に出港したその船は沈没してしまい一家は命拾いした。

やがて大洗港の近くに住む親戚を頼り、まもなく館山の引き揚げ寮へ入寮。信子が小学校3年生の時に父が代議士秘書の職を得て一家で東京神田鍛冶町の借家に落ち着く。実妹のクラスメートに星由里子がいた。家庭は大変貧しかった。しかしながら、母が毛布を裁断し染めることに依ってコートに仕立ててくれたりと創意工夫に満ちた生活を送っていた。

読売新聞に連載されていた北条誠の小説『緑はるかに』(挿絵は中原淳一)を水の江瀧子プロデュース・井上梅次監督で映画化するに当たって、ヒロインのルリコ役を募集しているのを千代田区立今川中学校在学中の1954年(昭和29年)夏に知り、両親賛成のもと応募、11月23日に面接が行われ約3,000人の中から中原淳一が浅丘のメイクを見て「この子だ」と言い、強力な推薦によって選ばれ銀幕デビュー、「ルリコカット」が当時の女性たちの間で大流行し、瞳の大きな美少女として脚光を浴びる。

しかし学校を長期欠席しての撮影だったため、PTAと生徒会が奉祝の花輪を出したことで一時物議を醸した。多忙のため、高校(旧・菊華高等学校、現・杉並学院高等学校)は中退している。

私生活では、1960年頃に一時小林旭と事実婚の関係にあったが、1961年8月に別離。この頃より生活が荒むものの石原裕次郎に励まされ持ち前の根性で再起する。また1964年には「夕陽の丘」でレコードデビューした。日活の看板女優として数多くの映画に出演し、人気を博した。現在までの映画出演本数は150本以上。
日本映画全盛期の日活アクション映画における代表的なヒロインであり、小林旭の『渡り鳥』『流れ者』『銀座旋風児』の三大アクション・シリーズや、石原裕次郎のムード・アクション・シリーズ(『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)等)など多数の作品でヒロイン役を演じた。

仲の良い佐久間良子の初主演映画、1963年の東映『五番町夕霧楼』を観て大きなショックを受ける。「正直いって女性映画の主人公がやれる佐久間さんがうらやましい。何も知らないまま、ただ夢中で10年間を過ごしてきたけど、100本も映画に出て代表作がないのは恥ずかしいワ。私は男性映画のサシミのツマのようなもの。もっと自分の仕事を大切にしたい。作品を選んでそろそろ賞の対象になるような仕事をしたい」などとマスメディアに訴え、今まで何一つ文句もいわず、会社のいいなりになってきたが、1964年1月の会社との契約更改で、他社出演を認めて欲しいと直談判した。

浅丘は東映の女優が毛嫌いするような緑魔子主演『ひも』のような"不良性感度映画"に「ああいう役ならぶつかって悔いはない」と発言するなど、会社の準備した『肉体の門』『悲恋十年』『人生劇場』などを蹴り、初めて女優として自己主張した。自身で企画を持ち込むようになり[、1964年から1966年にかけて出演ペースが落ちた。他社出演の希望は『日本一の男の中の男』(東宝)まで3年かかった。

蔵原惟繕監督の『銀座の恋の物語』(1962年)や、『憎いあンちくしょう』(1962年)、『何か面白いことないか』(1963年)、『夜明けのうた』(1965年)の典子三部作により男性スターの彩り的存在から脱皮、100本出演記念映画となった蔵原惟繕監督の『執炎』では、愛する夫を戦争に奪われた女性の姿を演じ、同じ蔵原監督の映画『愛の渇き』(1967年)でも熱演を魅せた。映画『戦争と人間』にも出演した。

1966年には日活との専属契約を解消し、石原プロへ入社。1972年、石原プロが劇場用映画製作から撤退したことにより石原プロ退社。また、映画の主題歌などを中心に歌手としても多くの曲を発表、1969年のシングル『愛の化石』はヒットした。

その他にも、『太平洋ひとりぼっち』、『水で書かれた物語』、『私が棄てた女』、『栄光への5000キロ』、『戦争と人間・第一部〜第三部』、『告白的女優論』、『鹿鳴館』、『博士の愛した数式』などの映画の話題作に出演した。

特に、映画『男はつらいよシリーズ』で演じたクラブ歌手の「リリー」の役は大好評で、マドンナとしてシリーズ最多の4回の出演を数えた。渥美清の最後の作品となった『男はつらいよ 寅次郎紅の花』でもマドンナ役を務めた。

この撮影現場で具合の悪そうな主演の渥美清の姿を見て、「もしかしたらこれが最後の作品になるかもしれない」と思ったという。そのため、監督の山田洋次に「最後の作品になるかもしれないから、寅さんとリリーを結婚させてほしい」と何度も懇願する。一方で山田は50作までの製作を想定しており、既に49作の制作が決定していたために浅丘の願いは叶えられなかった。

渥美は映画公開の9か月後にこの世を去り、『紅の花』が遺作になってしまった。

1996年8月13日に松竹大船撮影所で開かれた【渥美清(寅)さんを送る会】ではリリーとして渥美に向けて弔辞を読んでいる。

1980年代以降は活動の中心を舞台に移し、泉鏡花の作品などに出演している。
2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優4位となっている。
1961年、世界一周早回りと国際親善をかねた「美しい東洋親善使節団」日本代表。

1971年、日本テレビのドラマ『2丁目3番地』での共演をきっかけに石坂浩二と結婚。石坂は当時の世の男性の羨望を一身に集める事となったが、程なくして別居。2000年に離婚後は大衆演劇俳優で「劇団誠」座長、松井誠との交際を公にしていたが、2013年3月には金児憲史との交際が報じられて話題になった。

2008年11月、山形県東根市で開催されたひがしね湯けむり映画祭にゲストで招かれトークショーを行う。これは、長い女優人生で初のことだったが、それからは解禁している。大女優でありながら、気さくで面倒見が良く、東根が縁で親しくなった山形市在住のラジオパーソナリティ・荒井幸博のラジオ番組にも何度か出演。2013年6月5日には天童市民会館でのきらやか銀行経営者セミナーにおいて二人でトークショーを行い、荒井のリクエストに応え、故渥美清を送る会で読んだ弔辞を17年ぶりに涙ながらに読んだ。更に、「港が見える丘」「愛の化石」と得意の歌も披露している。

2011年5月21日、60年来の旧友だった長門裕之逝去直後には津川雅彦と一緒に長門の自宅へすぐに駆けつけて、津川と2人でマスコミ対応などを行った。
性格は姉御肌で、青春映画全盛期だった当時の日活において後輩の男優と女優に対する躾が厳しいことでも有名だった。特に高橋英樹はデビュー当時より教育係であった浅丘に散々世話をかけ、そして弟分のように可愛がられていた経緯から「ヒデキ」と呼ばれている。
 

また、大原麗子を実妹のように可愛がっていた。松原智恵子も新人時代から数多くもの洋服などをプレゼントされたり、浅丘の自宅に招かれて手料理を振舞ってもらうなど現在まで大変可愛がられていると語っており、「ルリちゃんが今でも大好き」だと『徹子の部屋』へ出演時に語っている。

佐久間良子とはデビュー当時から親友の間柄。後輩で妹分の加賀まりこも旧友で普段から飲食や映画、舞台を観劇に行くなど行動を共にしている仲良しの間柄で「まりことは昔から良くケンカはするが仲が良い(笑)」と『徹子の部屋』2017年4月に近藤正臣と一緒にゲスト出演時に語っている。
 

のちに「歌謡界の女王」と呼ばれた美空ひばりとは裕次郎のホームパーティーで知り合って意気投合し、プライベートでも親交が深く、ひばりからは『信ちゃん』と呼ばれていて大親友だった。趣味はスワロフスキービーズ細工。自身が身につける物はもちろん、舞台の際は販売もしている。
 

『私の履歴書』によれば、瞬く間にスターとなり、それまで神田の下宿住まいから、多忙のため日活撮影所近くの家を借り、遂にはその家を買って隣の空き地まで増築するほどだった。 その家は、前述のように高橋英樹ら若手俳優らが、毎日夕食をご馳走になりに来るほどであり、「私の収入のいくらが、彼らの胃袋に消えていったか」と、自嘲している。

撮影現場に大御所や先輩と呼ばれる立場の俳優が、約束の時間よりも遅く入ってくることが当たり前の風潮を良しとせず、先輩・後輩問わず厳しい態度で接している。実際に、1時間遅刻をした高橋英樹を楽屋に呼び、「ヒデキ、分かっているわね?」と問いただしたところ、高橋は顔面蒼白で「ルリ子さん、すみませんでした!」と、平身低頭で謝罪した。

また、『座頭市』で勝新太郎と共演した際も、2時間以上も遅刻してきた勝を演技中でも許さず、勝が謝罪したところでようやく許した。