男はつらいよ 柴又慕情
★★★★

松竹/107分/1972年(昭47)8月5日公開 <第9作>    
原作    山田洋次    脚本    山田洋次 朝間義隆    監督    山田洋次
撮影    高羽哲夫    音楽    山本直純    美術    佐藤公信
共演-倍賞千恵子・松村達雄・三崎千恵子・前田吟・太宰久雄・笠智衆
ゲスト-吉永小百合・宮口精二・津島匠章

併映『祭りだお化けだ 全員集合!!』監督:渡辺祐介 出演:ザ・ドリフターズ
動員数188万9000人/ロケ地・石川県金沢市、福井県東尋坊
 

キネマ旬報BEST10第6位、同・読者の日本映画BEST10第6位
 

★「男はつらいよ」シリーズ第9作目。

この回からおいちゃん役が森川信から松村達雄に交代となっている。
また本作からトップシーンが以降お決まりとなった寅の夢から始まる。
今回は貧しい漁村のさくらと博夫婦が吉田義男演ずる高利貸しに借金の催促をされている所に寅が登場。寅は似合わぬ札束を振りかざして借金返済して万々歳という寸劇。

タイトル後いつもの通り寅は柴又に帰ってくる訳だが、今回とらやの入り口には、さくら達が家を建てるのでその足しになればと二階を貸すことにした「貸間あり」の表札が出ている。帰ってきた寅はその表札を見て拗ねてとらやを後にする。そして自分で部屋を借りようと不動産屋巡りをした寅、結局最後の不動産屋に案内されたのはとらやの二階の自分の部屋だった。その日の夜、団欒の席で博の持ち家願望に暴言を吐いてしまった寅は、いたたまれなくなって再び旅へと出て行く。

所変わって石川県金沢。
今回のマドンナである吉永小百合含めてのOL三人組と寅のすれ違いと偶然の出会いがテンポ良く描かれる。少し吉永の笑う演技がわざとらしく気にはなったが・・・。

やがて柴又で寅と吉永は再会する。
勘違いしてまた恋煩いとなった寅と、吉永の父親である宮口精二の渋い演技が対照的で面白い。
山田洋次は博の父親、志村喬と同じく寡黙な男が好みのようだ。喋りすぎの寅の反動なのかもしれないが。

ちなみに吉永は当時27歳。翌年に15歳年上のテレビディレクターと結婚して世間を驚かした。映画内の吉永の悩みは私生活の実際の悩みと距離は近かったのではないだろうか。

この回くらいから、とらやの一家団欒シーンが、ひとつの家族像として美化され始めている印象を受けた。吉永に対する家族愛的なアプローチや、寅に対する気の使いようは、見ている観客と同目線の立ち位置になるように構成されている。とらやの人々と寅との距離感が、見る側と同一になりつつある。

ラストのエピローグでは宮口精二が再び登場する。
娘が世話になったからと、とらやに挨拶に来てすぐに去って行く。構成上あまり意味はないと思うのだが、寡黙な宮口が登場すると画面が引き締まるのは確かである。

 

以下Wikiより転載

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宮口 精二(みやぐち せいじ、1913年11月15日 - 1985年4月12日)は、日本の俳優。

本名は宮口 精次。身長159cm。

築地座を経て文学座に参加し、同座の中心として多くの舞台に立ち、文学座退団後は東宝演劇部に所属して商業演劇に出演。戦後から映画にも多く出演、巨匠監督の作品に立て続けに起用され脇役として活躍した。個人雑誌『俳優館』の刊行もしていた。主な出演映画に『七人の侍』『張込み』『日本のいちばん長い日』など。

1913年(大正2年)11月15日、東京府東京市本所区緑町(現在の墨田区緑)に、大工の父・周市と母・もとの6人兄弟の次男として生まれる。幼時に本所区内の林町に移住する。
中和尋常小学校を経て東京市立第二中学校に入学するが、家庭の経済的事情から同校の夜学である上野夜間中学に転じ、同時に校長の紹介で福徳生命(現在のマニュライフ生命保険)東京支店に給仕として入社する。
1931年(昭和6年)の卒業後も同社に勤務していたが、芝居好きの会社の同僚の誘いで歌舞伎や新劇を観るようになり、本人曰く「同じ貧乏をするなら、自分の好きな道で」とのことで役者を志す。

1933年(昭和8年)9月、友田恭助・田村秋子夫妻らが設立した築地座の研究生募集に応じて入団し、同年『アルトハイデルベルヒ』の通行人の学生役で初舞台を踏む。
1935年(昭和10年)、久保田万太郎作『釣堀にて』に先輩の中村伸郎の代役として、一言だが初めて台詞のある役で出演する。
築地座解散後は、1937年(昭和12年)の文学座結成に杉村春子らと共に参加、1944年(昭和19年)に森本薫作『怒涛』での演技で注目される。
同年、黒澤明監督の『續姿三四郎』に同じ文学座の森雅之とともに出演して映画デビューする。

1945年(昭和20年)5月、石川県小松市に劇団疎開、移動演劇隊に加わって北陸地方を巡演し、旅先で終戦を迎える。

戦後も文学座の主力として舞台に立ち、1949年(昭和24年)には『女の一生』『あきくさばなし』『雲の涯』の演技で第1回毎日演劇賞を受賞する。
主に下町ものの作品で頑固だが人情深い職人役などを得意とした。

1965年(昭和40年)2月8日に文学座を退団すると、同年5月に東宝演劇部と1年ごとの契約で入り、『霊界様と人間さま』『放浪記』などの東宝現代劇に出演し、堅実な脇役として活躍する。

戦後の映画出演は、1946年(昭和21年)の『浦島太郎の後裔』に出たあとしばらく出演がなかった。1948年に立川富美子と結婚。
1951年(昭和26年)に木下惠介監督の『善魔』に出演したのを皮切りに、小津安二郎の『麦秋』、黒澤明監督の『生きる』『七人の侍』、木下監督の『楢山節考』、稲垣浩監督の『無法松の一生』、野村芳太郎監督の『張込み』、中村登監督の『古都』、篠田正浩監督の『乾いた花』、山田洋次監督の『男はつらいよ 柴又慕情』など、日本映画を代表する監督の作品に次々と起用される。
なかでも、『七人の侍』では痩身で寡黙だが凄腕の剣客・久蔵、『張込み』では執念深い老刑事を演じて好演技を見せた。

1970年(昭和45年)から個人の季刊雑誌『俳優館』を主宰。アマチュア野球の審判としても知られ、後楽園球場や大阪スタヂアムで球審を務めたこともある。

1985年(昭和60年)4月12日23時30分、肺癌のため国立東京第二病院で死去。71歳没。

1984年(昭和59年)の帝国劇場『桜の園』が最後の舞台となった。

なお、テレンス・マリック監督作品『シン・レッド・ライン』で、渡会伸とともに日本語アドバイザーを務めた宮口トモオ(Tomo Miyaguchi)は実子。