男はつらいよ 寅次郎恋歌
★★

松竹/113分/1971年(昭46)12月29日公開 <第8作>    
原作    山田洋次    脚本    山田洋次 朝間義隆    監督    山田洋次
撮影    高羽哲夫    音楽    山本直純    美術    佐藤公信
共演-倍賞千恵子・森川信・三崎千恵子・前田吟・太宰久雄・笠智衆
ゲスト-池内淳子・志村喬・吉田義夫
 

併映『春だドリフだ 全員集合!!』監督:渡辺祐介 出演:ザ・ドリフターズ
動員数148万1000人/ロケ地・岡山県高梁市
第26回毎日映画コンクール・監督賞/山田洋次
 

★「男はつらいよ」シリーズ第8作目。

この作品の観客動員数は148万人。前作が92万、前々作が85万人なので一気に倍弱の動員数増加だ。これ以降松竹のドル箱シリーズとしての位置を確立していく。

そしてまたこの回あたりからお馴染みのパターンの繰り返しが始まる。その一つはタイトルバックで、久し振りに柴又に帰って来た寅が、江戸川の土手でのんびりしている人々を悪意無き悪戯でグチャグチャにしてしまうバターン。

そしてとらやの人々が、久し振りに姿を見せた寅をどのように迎えようかと四苦八苦するパターン。偉大なる「マンネリ」の始まりであり、年二回の盆・正月に封切られる「男はつらいよ」は、当時の観客・市井の人達の、日常生活の中の季節風物詩の一つとして入り込んで行った。

今回もそのようなパターンが描かれた後、さくらの夫、博の母親が危篤だとの電報が来る。さくらと博は岡山県高梁市へと駆けつけるが、母親は既に亡き人となっていた。博の父親は志村喬である。
翌日のお葬式に寅がひよっこり現れる。柴又に電話して急逝の事実を知ったとのこと。
およそお葬式という荘厳な慶事に相応しくない寅が織りなすギャグは誠におかしい。焼き場で寅が退屈そうに待っているシーン、コップを弄んでいた寅が「・・・ようござんすか?ようござんすね」と博打の真似事をし始める渥美清の演技は爆笑物である。

その日の夜、父親を上座にして兄弟達が母親の思い出話を始める。末っ子である博は母親が本当に幸せだったかどうか兄たちの意見に異を唱える。ここのシーンは同じ松竹大船で撮られた小津安二郎の「東京物語」を思い出させる。さすがに山田洋次はこのシークエンスには笑いを誘う役である寅を登場させない。本筋とは外れたシークエンスだが、末っ子として母親想いだった博の心情が吐露された良いシーンとなっている。

「男はつらいよ」が何故48作も続いたのか、日本人が持っている独特の感情、懐かしさを憶える風景や人生のわびさびに呼応するシークエンスが常に挿入されていたのも理由の一つだろうと思う。つまりは作る側の志の高さだと思える。

やがて柴又に戻ったさくらは、お礼も兼ねて志村喬に電話するのだが出たのは寅である。先生を1人にさせておけないよとばかりに勝手に居候しているのだ。そして志村宅を旅立つ最後の夜、志村喬はある思い出話を寅に聞かせる。昔一人旅をしているときに信州で田舎道を1人歩いていると家族の団らんの情景に出くわした。志村は言う。茶の間で家族一緒に賑やかに食事をする。それが本当の人間の生活じゃないかと・・・。
「人間は人間の運命に逆らっちゃいけない。・・・分かるね寅次郎君」。志村喬は絶品の演技をする。寅は「・・・へい、良く分かります」と身に沁みたように答えるのだった。

そして舞台は再び柴又へ。
とらやへ和服美人が訪れる。近所の喫茶店の開業挨拶に来た池内淳子だ。去った後おいちゃんは言う。「寅が居なくてホント良かった」。しかしそのすぐ後に悟りを開いた寅が帰って来る。寅は「人間としての運命」つまり結婚して家庭を持つと言う目標を持って帰ってきたのだ。

案の定、寅は池内に惚れてしまいやがては振られるのだが、この作品、寅の失恋の流れが非常に分かりにくい。夜、寅は池内を訪ねて縁側で話を始める。寅は志村喬に聞かされた話をそのまましゃべり出す。しかし池内は一家団欒の話には興味を示さず「いいわねぇー、私もそんな旅をしてみたいわ」と、その情景を見た旅人の方に興味を示すのである。

寅としては身を固めたいと考えている自分の心情を伝えたいと思いこの話をしたのだが、池内は放浪の旅の方に憧れを示す。考えようによっては風来坊の寅と一緒に旅をしたいと願っているとも思えるのだが・・・・。結局寅はこれで自分は「振られた」と思ってしまうのである。生きる世界が違うという事なのだろうか。池内に恋人が居るとか死んだ旦那が忘れられないとか、明確な理由が提示されないので非常に分かりにくい。

また途中で志村喬が1人上京してくるのだがこのシークエンスも良く分からない。寅との絡みも少ない。ラストに寅と再会する伏線かとも思ったのだが、ラストはタイトル前に登場した旅公演の一座と再会するのみである。

この回がおいちゃん森川信の最後の作品となっている。
公開の翌年1972年3月26日、かねてから患っていた肝硬変が悪化し、満60歳で死去している。その事実を知って映画を見ると少しやつれて生気が無いように見える。また偶然だろうが「死ぬ」というセリフがたくさん出てくる・・・。臨終の床には三崎千恵子、倍賞千恵子ら共演者がかけつけ「死なないで!」と号泣したということ・・・、合掌。

この年1971年「男はつらいよ」は1月、4月、12月と年3本も公開されている。山田洋次は脚本を書いては撮影、書いては撮影の日々だった事だろう。構成が上手く行ってない回もあって当然だろうと思う。翌年1972年からは盆正月の年2回の公開となっていく。

 

以下Wikiより転載

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森川 信(もりかわ しん、1912年(明治45年)2月14日 - 1972年(昭和47年)3月26日)は、日本の俳優およびコメディアン。本名は森川 義信。神奈川県横浜市南区出身。横浜市立商業学校卒業。元妻は水戸光子。

商業学校卒業後、銀行に勤める傍ら、役者になるために演劇学校へ通う。
1931年、遠戚にあたる俳優・静香八郎と共に俳優の道へ進み、1932年に静香主演の『肉弾三勇士』での死体役でデビュー。
その後、一座を組んで浅草で芝居を試みるが、浅草演劇界ではエノケンとロッパが君臨していたため、競合を余儀なくされた。

その後、大阪、名古屋、京都、博多など各地を転々とし、この頃に清水金一、田崎潤、淀橋太郎などを知った。
結局大阪を活動の拠点とすることで東京の浅草に対抗した。1934年、「森川信一座」を結成して座長となる(戦中期は大陸へ赴き、各地で慰問も行った)。この頃、坂口安吾から絶賛された。

1943年に松竹と契約し、山茶花究らを知る。
1948年より数年間、岸井明と「のらくらコンビ」を組み、コミカルな演技で人気を得た。
1953年にフリーとなる。

テレビ生誕とともに、テレビ出演も増えていく。1960年代以降、新宿コマ劇場での喜劇も評判となり、『サザエさん』に磯野波平役として出演し、森川の代表作となった。


そして、『男はつらいよ』での初代おいちゃん(車竜造)役が当たり、広く知られることになる(テレビドラマ版から続投し、「バカだねぇ…」の名セリフで日本映画史に残る活躍を見せた)。おいちゃん役は3人の交代があったが、監督の山田洋次からは「寅さんとの絡みの中で『バカだねぇ…』と吐きながらコミカルに立ち回れたのは森川のみ」と語られている。

映画シリーズの人気が定着してきた矢先、かねてから患っていた肝硬変が悪化し、1972年に死去。60歳だった。
墓所は横浜市西区の久保山墓地にある。

若い頃はかなりモテ、「遊郭で遊ぶよりも、こちらから女性が何人も寄ってくる」ほどだった。喜劇俳優仲間に対し、「女に金を使うんじゃなく、女が金を使ってくれる方が一流だ」と言って気にも留めていなかったという。