図1

 

図1は文献や地名などから推測した北九州筑豊地域の古代豪族の支配地域です。
緑は秦氏に関係があると思われるもの、赤は熊鰐に関係があると思われるもの、青は物部氏に関係があると思われるものです。
これを見ると豊前秦氏は洞海湾を拠点にしている熊鰐の南に居住しています。
朝鮮半島出身と思われる渡来系の豊前秦氏がなぜ朝鮮半島から離れている洞海湾に来たのか、それは謎です。
古代の中国の文献を見ても大陸から日本への経路に洞海湾は出てきません。
奈良時代の豊前の戸籍を見ると、豊前には数多くの渡来系の人々が住んでいたようです。
これほどの人数の移住となると現地の熊鰐の協力なしには移住は不可能です。
日本書紀の仲哀天皇の記述の中で、熊鰐は船に乗って天皇を迎えに行っています。
熊鰐は海の民です。
もしかすると海の民である熊鰐は、古来より朝鮮半島の氏族と交流があり、豊前秦氏は熊鰐と交渉して日本の洞海湾地域へやって来たのかもしれません。
あるいは豊前秦氏と熊鰐は氏族的に近い間柄なのかもしれません。
しかしながら実際の関係性はよくは分かりません。
全く手掛かりががないかと言えば実はそうではありません、ヒントらしきものはあります。
熊鰐が拠点にしている地域は八幡(やはた)という地名の地域です。
北九州市八幡東区のサイトに八幡の地名の由来が載っています。
それによると、明治22年の市町村制施行の時に、三つの村が合併して八幡村が誕生したとあり、「やはた」と名付けられた由来は、この三つの村とも産土神様(うぶすなかみさま)八幡神社を祭っていたので、新村の名を「八幡」にしたといわれているとあります。
この八幡という地名は八幡神由来です。
豊前秦氏の氏族辛嶋氏は、八幡神を祭る宇佐神宮の宮司でした。
もしかすると熊鰐と豊前秦氏は八幡神を通じて繋がりがあったのかも知れません。