今日は




新撰組局長、近藤勇の命日にあたる日です。


(旧暦だと約一か月後だけど…あせる




板橋で行われた供養祭に行ってきました。




埼京線板橋駅の東口を出てすぐ。






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慶応4年(1868)4月25日、幕軍は戊辰戦争で追い詰められ、新選組も甲陽鎮撫隊として、甲府城占拠しようとしましたが、甲府城の手前で勝沼の柏尾山大善寺前の一戦で官軍に破れた後、下総流山まで落ち延び、近藤勇は遂に官軍に投降しました。






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慶応4年(1868)4月25日に板橋平尾宿にあった一里塚で斬首の刑を受け、首は京都三条河原にさらされ、


胴は…異説あり。



墓碑は近藤勇、土方歳三のほか殉死した隊士の供養のため、 新選組二番隊長、永倉新八が発起人となり、松本良順の協力を得て明治9年に建てられたものだそうです。










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新しい供養塔。








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新撰組二番隊長、永倉新八の墓。


1915年(大正4年)1月5日、小樽にて死去。享年77。永倉さんの遺言により、墓はこの滝野川の寿徳寺境外墓地、札幌市清田区里塚霊園、小樽市中央墓地などに分骨されました。










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寿徳寺住職・新井京誉師の挨拶。




沢山のご子孫の方々も参加されました。代表として、近藤勇生家子孫・宮川豊治氏、佐藤彦五郎子孫・佐藤福子氏、横倉喜三次子孫・森しげる氏がご挨拶、色んなお話をしてくださいました。


横倉喜三次は近藤さんの首を切り落とした、岡田家の武術指南役。板橋宿に移送された近藤さんの監視を命じられていました。監視が緩められるにつれ近藤の方の傷を労り、近藤と理解を深めるようになっていたそうで、横倉喜三次自身、自らが太刀取りを務めた勇を供養し続け、横倉家には今も、処刑に使われた刀が残っているそうです。


近藤勇、新撰組の御子孫と一緒に、近藤勇を斬首した方の御子孫。


とても変な感じだけど、こんな記事を見つけました。






「2004年4月5日付・中日新聞夕刊より、




 近藤勇斬首の刀 ひっそり



岐阜・揖斐川 介錯人の子孫宅


 新選組局長、近藤勇(1834-68年)が板橋で処刑された際に使われた刀や当時の資料が、処刑を務めた美濃岡田家の武術指南役、横倉喜三次のひ孫に当たる岐阜県揖斐川町三輪、無職横倉脩嗣さん(72)方に保管されている。


大河ドラマの影響もあり、激動の時代を生きた近藤勇の最期を“看(み)取った”刀をぜひ見せて、と各地から依頼が寄せられている。


 処刑に使われた刀は長さ約1メートル、幅約5センチ。「二王」の名が付いており、室町時代に山口県の刀鍛冶、二王三郎清綱が打ったとされる。

明治天皇が名古屋訪問の際に閲覧したという当時の新聞記事の記録はあるが、一般向けに展示された記録は残されていないという。


 横倉さんの家には「横倉日記」と呼ばれる喜三次が記した日記や「大和守法会覚帳」と題した法要帳など、近藤について記した資料も15点ほど残っている。


 喜三次は、仕えていた岡田家から近藤の斬(ざん)首を命じられ、1868年に近藤の命を絶ったが、横倉日記の中には「近藤の生き方に感じるものがあった」と、喜三次の複雑な心中をうかがわせる記述がある。


 横倉さんが刀を所蔵しているとの話を聞きつけた東京など各地の新選組ファンから「刀や資料を見せてほしい」と求められるが、横倉さんは「近藤の生き様に共感した曽祖父、さらには近藤のためにも刀を見せ物にはしたくない。大切に保管したい」と話している。」




感動的なお話じゃないですかぁ~ラブラブ


今でも、会津の人は薩摩への怨みを、


幾世代を越えて伝えられているという話を聞いたけど、
もう今は平成ですよ。


毎年供養して頂いて、とても新撰組ファンとしては嬉しい話です。




次は…来月、土方さんの法要です。