こんにちは
今日は、ずっと前から色々と思っていて、
これを発信したら、きっと【キレイごとだ】と
思われるかもしれないけれど、
思いきって私の感じてることを書いてみようと思います
☆.。.:*・゜☆.:*・゜☆.。.:*・゜☆.:*・゜☆.。.:*
私は、7年前から、ずっと看病や介護ばかりしている
その中で病院や施設などでいつも思うことがある。
それぞれの思い(想い)がぶつかる場所だなと。
私は、家族がお世話になって、本当にありがたいし
たくさんたくさんサポートしていただいてとても感謝している。
介護4、5クラスになると
介護する側が肉体的にとてもキツイ。
これは在宅ケアをしているので体験済み。
だから、この大変さを毎日体験する仕事を選んでしてくださっている
人達には頭が下がる。
(施設では、分担があって大人数との関わり。
在宅では分担がなく1人のケアをすべて家族が担うことになる。
排泄処理、着替え、車椅子への移乗、食事など、
1日1日があっという間に過ぎていくので
大変さが身に染みる。
だからこそ、こういう施設などがあることに感謝しかない。)
そんな普通なら立ち入ることがない世界を
7年ほど、体感させてもらっている。
そんな中で、いつも思うのは、【安心安全】ということが
介護していただく側、介護する側にとって、
キツイ状況を作り上げていることもあるのではないかということ。
介護の現場では、第1に安全が優先される。
それは、正しい判断だとも思う。
施設に入所させていただく人というのは、
歳を重なられている方が多いのも事実で、
歳を重ねるということは、出来なくなることも増えてくる、
そしてそれを1つ1つ受け止めていかなくてはならない、
そんな年齢だということ。
施設は一方から見るととても手厚い。
けれど、そうした年齢の人たちにとって、
安全だからと、出来ることを取り上げる(言葉がキツくてすみません)ということが
どれほど心に負担がかかっているのかと思うと切なくなる。
私たちは、風邪をひいたとして何日か寝込んだとしても
それなりに動けたり、普通に食べ物を食べることもできる。
(だからこそ、出来なくなることを受け入れることがどれだけ
心に負担のかかることか分からないことも多いし、
そんなこと考えもしないのが現実ではないかと思う。)
けれど、高齢になってくるとそう言う訳にもいかないことも多いのも事実。
率直にいうと、1週間2週間、もっと短いスパンで
少し前まで出来ていたことが出来なくなることもある。
自宅にいたら徐々に徐々に出来なくなることが、あっという間に。
徐々に徐々に出来なくなることを少しずつ少しずつ受け止めていく、
そういう時の流れ方もあるはずで。
出来なくなることを受け止める。
それだけでも心の負担が大きい。
そのスパンが短くなればなるほど
心がそれを受け止めきれず崩壊するのは
明らかなのではないかと思ったりもする。
あなたならどうですか?
受け止められますか?
私なら、きっと受け止められないと思います。
立ち直れないとも思います。
(高齢になってきたら出来なくなることが増える、
そう頭では分かっていても、心では受け止めきれない。)
そしてきっと生きる氣力も低下するのではないかと思います。
人によっては受け止めきれず、
暴言を吐いたりする人もいるのではないかとも思います。
(病気とは別に。そして子供のようにだだをこねることもあると思います。)
安心安全はとても大切。
それは重々分かっているんです。
けど、私の心が切なくてどうしようもなくなる。
そして、あっという間に出来なくなることが多くなるということは
施設などで介護してくださる人にとっても、
デメリットで肉体的な負担が大きくなる。
介護してもらう側は、出来なくなる事があっという間に増えて
それを受け止めきれず心の負担が大きくなる。
介護してくださる側は、肉体的・精神的な負担が増える。
正しいことをしているのに、なぜこんなに矛盾がうまれるのか?
この切ないスパイラルをいつもなんとかしたいなぁ。。。と感じてしまう。
それが当たり前の世界なんて、とてつもなく悲しいと思う。
その施設が出来たのはなぜか?
そこに立ち返れば見えてくるものがたくさんあるのではないかとも思う。
切ないスパイラルを起こすためにつくった場所ではないはずなので。
介護される側、介護してくださる側、
どちらもwinwinな状態に少しでもなればといつも思っていて。
今は施設には西洋的なことしか取り入れられていないのは事実。
そこに東洋的視点もとりいれてはどうだろうか
さらに、心のケアに薬ではなくフラワー○ッセンスのようなものに
サポートしてもらえたら、どんな変化があるだろうetc...
(私が言いたいのは、西洋医学がどうとか、東洋医学がどうとか、
理学療法士さんたちがどうとか整体師さんがどうとか
薬がどうとか言いたいわけではないです。
今はたくさんのケアが生み出されているのも事実。
組み合わせて得れるものは大きいと、そう思わずにはいられなくて。
1視点から見ていたものが2視点になり、それが3視点になり、
という風に広がっていけば、意外な有を生み出せるとも思うんです。)
私はこの世に生まれてきたものは、人であれ、モノであれ、
意味があると思っている。
そこに優劣はなく必要だから存在しているし、
個々に役割があるのだとも思っている。
この世に生まれてきてくれたものを、そこに存在してくれているものを、
ただ在る状態から、プラスに使うもマイナスに使うも人だと思っている。
視点はそれぞれ違ってイイ。
その違いこそが宝であると私は思っている。
その宝が本氣で交われば、
凸凹がしっくりくるやり方も見つかるのではないかと。
そして、ステキな和になり輪になって広がっていけば、
より過ごしやすい、生きやすい、そんな世界に近づくことも可能だろうと思うのです。
そんなもん夢物語だと言われるかもしれない。
お金がかかってしょうがないじゃないか
と言われるかもしれない。
でも、昔からいえば、施設なんてなかったのだから、
無から有を生み出しているのは事実なんです。
昔、なかったものが、現在数えきれないくらい存在している。
それに支えられている人達は数多くいるのも事実です。
なので、あり得ないなんて、
夢物語なんていうのは
私は、本当はないと思っている。
たくさんの先人たちが無から有を生み出してきているのは明らかだから。
例えば、介護の現場では、食べ物も開発され、車イスも日々改良され、
ベッドも改良されたりしている世界。
それは、色んな人の想いが集まって形になっていく優しい世界でもある。
想いが形になり、形が笑顔を生む世界。
そういう世界がもっと広がればいいなと思う。
今は、よく子どもに関してクローズアップされている。
それもとても大切なことだなと思うし、考えていかなくてはならないことの1つだと思う。
ただ、人はみんな日々、死に向かっていかされている。
生きている人が必ず通る世界でもある。
その先のこと、自分自身が、そして子供が、孫が、いつかは
足を踏み入れる世界。
そういう世界もより良くしていくことも大切だと私は感じている。
私には、現実的に物事を動かせるような力はないのかもしれない。
けど、より良くするような案なら少しは出せるかもしれない。
私は自分の感性を信頼している。
私の想いがすべてではないが、物事を動かせるような人の耳に、1つの案として届くといいなと思い、
今日は思いきって、今まで思ってきた胸の内を書いてみることにしました
人が最期まで人として尊重されるような世界で、
穏やかに折り合いをつけながら生きていくことが出来たらと、私は想うのです。
そして、すべての人がそうであったらイイナとも思うのです。
☆.。.:*・゜☆.:*・゜☆.。.:*・゜☆.:*・゜☆.。.:*
今日もこうして目を通してくださった皆さん、
ありがとうございます