こんにちは
今日は、
【父が今に至る経緯】や
【父が倒れた当初に感じた色んな存在のサポート】
【当時の父の様子】
などをシリーズにして
書いてみようと思います
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忘れもしません。
その日は、祖父の命日で、
朝からお寺さんがお家に来てくださっていました。
昼から父は、祖父のお墓を建立するための話をしに
業者さんのところに伺う予定になっていました。
朝から、家族で祖父の命日のお参りを済ませ、
父を『行ってらっしゃい気をつけてね
』と送り出し、
お昼過ぎくらいだったか、家の電話がなりました
急性期の病院からで、
父が倒れたこと、
一刻も早い手術が必要なので
電話で承諾くださいとのことでした。
そんな感じで慌ただしい1日が過ぎていきました。
無事に手術は成功しましたが、
とても大変な状況に変わりありませんでした。
手術が成功したことも一つの奇跡ですが、
そこに辿り着くまでにホントにたくさんの奇跡が
折り重なっていました
○業者さんとの打ち合わせに行く前に倒れたこと
(業者さんに行く道中、高速にのらなくてはならないのですが、
病気が発症したときに高速にのっていたら今の父はいないし、
本当に少し時間がズレていたら大事故になっていたと思います。)
○父がいつも営業回りしていたときに使っていた
顔見知りの喫茶店で遅めのお昼ご飯をしていたこと。
こちらの喫茶店は、急性期の病院と目と鼻の先なのです
そして、すぐ近くにはご縁を頂いている神社がありました
更に、こちらの喫茶店の娘さんがたまたまお休みの日に
お家の手伝いにこられていて、その娘さんが
その急性期の病院で働いておられる栄養士さんで、
ご飯を食べていた時から具合のワルそうな父を気にかけてくださり
少し離れた駐車場まで追いかけてきてくださって、
倒れたところを目撃し、即救急車を呼んでくださった
という事実がありました)
父が倒れた日が、たまたま手術日の曜日で
お医者さんがたくさんおられる日だったこと
○そして、いつもお参りしているお寺さんに、
母がすぐに連絡してご祈祷をお願いしたら、
『今から祈祷にはいりますね』とすぐに
お祈りしてくださったこと
○祖父の命日だったこと
(その日は、祖父の命日だったこともあり、
祖父が父を三途の川から追い返してくれたような気がしています。
祖父は祖母の時もいつもサポートしてくれてるように感じていて。
祖母は幸せ者だなぁっとずっと思っていました。
故人に付けられた名前が不思議とサポートするような感じの漢字が
使われていて、こんな戒名あまり見ないかもっと思った記憶があり、
お爺ちゃんは、そうなんだなぁっと漠然と思っていたのですが
どうもいつもサポートしてくれてるように感じています)
私は、この一瞬の出来事に、一連に連なった奇跡を見た気がしました。
本当にたくさんの奇跡の連続があふれていて
感謝の気持ちでいっぱいになりました。
(これは手術が終わってから、父の世界におこった色んな出来事を
繋ぎ合わせて後々知った事実もあります。)
私も母も、突然のことにオロオロしていましたが、
私は、父は絶対助かるなーと信じて疑いませんでした。
(まだ寿命があるから助かるなーという感覚。)
病院に着くと、ドクターから説明があり、
最善はつくしますが、とても危険な状態ですとのこと。
色々説明は受けますが、
絶対助かるという感覚は消えることはありませんでした。
父の手術も無事に済み、
ICUで見た父の姿と言ったら。。。
身体中、管だらけで、顔もすごく腫れていました。
もちろん、父にも声をかけました。
声は必ず聞こえてるので。
(祖母の時も手術室から戻ってきたとき声をかけたら、
本人は眠っていたし、後々本人に聞いても記憶はなかったけど、
私が声をかけた時、ツーと涙が流れてきたので、
安心してるのだと思った記憶があります。)
(父をお見舞いに来てくださった人たちの話を、
後々聞くと、どうやら絶望的。。。と思われていたようです。
私にしてみれば、なぜにという感覚ですが)
確かに、あの状態を視覚的に見たら絶望的に見えるのは間違いないです。
今の父の状態は本当に奇跡的なので、
私たちの家族の中では、
【奇跡の男】と呼ばれています。
父は急性期病院入院時は、鼻から管も入れていましたし、
尿管にも管を入れていました。
勿論、点滴もしていました。
身体中管だらけでした。
私たち家族が出来ることといったら、
傍にいること
声をかけること
体を撫でてあげること
それくらいでした。
父が病室に移ってからは、私は父に少し意地悪をしました。
それは、足の裏を刺激すること
気持ち良いところも押しますが、
痛いところを探して押していました。
なぜなら、父はその痛みにきっちり反応してくれるから。
スッゴク怖い顔して、睨み付けてくれました
本当にごく稀ですが、『痛い』と教えてもくれました。
私が父に申し訳ない。。。と思いながらも
こんな状態の時に意地悪かなと思いながらも
この方法を選んでいたのは、
人は危機意識に一番敏感だから
サバイバルの部分に働きかけたら、脳に刺激もいきやすいと感じたからです。
このやり方がイイのかワルいのかは分かりません。
(一応、お医者さんにも念のため了承を得ました。)
けど、気持ちいいことをしてるときより
明らかに反応は良かった。(怒られましたが)
勿論、ずっと痛いことばかりをしているわけではありません。
体を撫でたりもしていました。
そんな感じの毎日を過ごしながら、
急性期病院での日々は過ぎていきました。
ご飯を口から食べることもなく、
おトイレに行くこともなく
終始ベッドの上での生活。
リハビリだけは、かろうじてベッドを離れ、
装具を付け歩かせてもらう日々。
歩かせてもらうといっても、
頭を真正面に向けるのが出来ないようで
かなりしんどそうだったし、
リハビリの先生も大変そうでした。
そんな中でしたが、父は父なりに折り合いを付け
頑張ってくれていました。
リハビリ病院に移るときには、点滴は外れていましたが、
他の管はついたままでした。
話が長くなりそうなので、次に続きます
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今日もブログにお付き合いくださった皆さん、
ありがとうございます