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NEUTRALに生きる

NEUTRALで行こう から NEUTRALに生きる に変更。
これまでの視点や生き方を大切にしながら、日本や世界のこと、宗教や思想、人間という存在について──気づいたことをNEUTRALなまなざしで綴っていきます。

勉強ってやらされているうちは身に付かない。


もともと感覚派の私は、好きな事しかやってこなかった。逆に好きなことには恐ろしい集中力を発揮するタイプで、私はヨガもヨガ哲学も楽しくて楽しくて、どんどんのめり込んでいった。



身体の仕組みを学んでいくと切っても切れないのが、ストレスなど心の問題、そして巷にあふれる不健康な食事たち。



特に食に関しては特に、意識的に学び、身体に良いものを自分で選んで取り入れていかなくてはならないと強く感じる。



戦後日本は凄まじい復興を遂げた。食糧難の状況下でアメリカから大量の小麦粉が支援され、それと同時に食の欧米化が進み、肉類や乳類の消費が増加し、年々たんぱく質と脂質の摂取量が増えている。



これが何を意味するのか?



女性も働くようになり、冷凍食品や加工食品、時短で便利なものがどんどんと増えていった。



さらに世界で最も食料輸入依存度が高い国の一つである日本は、主に米国・カナダ・豪州・ブラジルからの輸入に頼っている状況。



特にアメリカと日本は切っても切れない関係。



そのアメリカを知ることは、我々日本人にとって非常に重要なことだと思うので、少しここで触れていこうと思う。



つづく


ヨガ哲学には心も体も整える、宇宙の真理のようなものを感じ、父の病気をきっかけに、人の身体や心、魂にも興味が湧き、人間ってなんだろう、自然の秩序ってすごいな、、と思ったのを覚えている。



我が家は田舎でワイルドな育てられ方をしたので、子供は風の子野生の子、怪我はあっても病気という病気はほとんどしたことがなかった。



なので自然と薬を飲む習慣もなく、風邪なんて引いてもたくさん寝れば治ると思っていたし、熱は体に入った菌を殺す為に身体が戦っているんだから止めてはダメだと教えられ、ギリギリまで薬は飲まないようにしている。



むしろ熱が出て汗をたくさんかくとお肌もツルッツルになるので定期的に発熱したいくらいだけど、歳をとると熱を出すにもエネルギーがいるからか、なかなか高熱が出ない。



歳をとると免疫力が下がるって言うのは、そう言うことだ。



そんな訳で薬を飲むことへの抵抗感は今でもあるし、改めて考えたことはないけれど、細胞レベルで神様が与えてくれた自然治癒力というものを私は信じているんだと思う。



そんな私の父は、決まった時間に起き決まった時間に出社し、決まった時間に寝るような絵に描いたような真面目人間だったので、



病気になって初めて、昼ごはん食べられなかったけど、案外平気なもんなんだね、って言うのを聞いて大爆笑!!一食抜いただけで死ぬと思ってたのか?!


それだけに見た目も歳の割に若々しく髪も黒黒顔の皺も少ない自慢の父だった。



だからこそ、そんな父が癌になるなんて考えられなかったし、がんの治療法が化学療法しか無いなんて、そんなわけがない!!と、現代の医学ってものに初めて疑問を持ち、伝統医療や様々な民間療法を手当たり次第に調べた。



西洋医学は痛みを和らげてくれたり早く治してくれて、必要不可欠ではある。しかしどこか盲目になってはいないかと、思うんです。



癌ってこれだけ多くの人がかかる病気なのに、がんセンターが認める治療法って20年以上変わってないどころか、癌でなくなる方は増える一方。


手術して取るか、放射線で散らすか、抗がん剤を使用するかの三大療法で、免疫療法っていうのも最近ではよく聞くようになったけど、未だに自由診療。



私が父の検査データを持って相談に行った医師は、さまざまな治療法を組み合わせて多くの末期がんの患者様に希望を与えていたが、



その方が特に強く勧められていたのが高濃度ビタミンC点滴。



副作用がなく多くのエビデンスが認められているから、10年以内には必ず保険医療に認められる、認めざるえなくなると仰っていた。



しかしあれから15年、今だに自由診療のまま。



当時からここには複雑な事情というか、大きな声では言えない理由があるんだと言うことは、その先生も仰られていたけど、まさかここまで変わらないとは思っていなかったのではないかと思う。



つづく

結果的に父は1年の闘病の末亡くなったのだが


親の死って、自分の人生においてかなり上位の衝撃的な出来事。


しかし誰もが必ず経験する事。


こんな天地がひっくり返るような事が起こっているのに、周りはいつもと変わらない毎日を過ごしてて、何事もなかったようにまた朝がくるんだな、なんてドラマみたいなことを思ったし、毎日どこかで誰かの親が人生を終えている。


人は大切な人の死をめぐり究極的な精神状態を経験することで愛を知り、誰かのために必死になるという尊い体験や感情を味わい、これこそ生きるという事なんだと感じた。


人は誰かのためになら強くなれる。


自分のためには出来なくても、大切な人の為になら頑張れて、何の見返りもいらなくて、自分の中にこんな深い愛があったんだと言うことに驚き、


そして、死というものをリアルに意識したあの瞬間から、同時に私の中で『生きる』という事がくっきりと浮き彫りになった。


なぜ人は生きるのか?死ぬことがわかっているのに何のために生まれて来るのか?


先祖から命を紡いで、その先に何があるのか?


こんな答えのない疑問を今もずーっとずっと、考え続けているような気がする。


何のために生きるかは人それぞれだし、どれだけ考えても、答えは分からないままだけど、ただ一つはっきりしていることがあって、


どう生きるかは自分で決められるという事。


どんな人生を送りたいか?

どうであれば幸せだったと言って死ねるのか?


父が余命を宣告されてからの一年は、家族みんなで必死になって治療法を探して、泣いて泣いて慰め合って、辛いけど誰かのために必死になった。


あの日々は自分の中の宝物だったなと感じる。


あんな日々のように1日1日を必死で大切に生きられたら幸せだな、と思ったのと同時に、


この事がきっかけで、後悔せずに生きるためには正しい知識を得ることが大切で、“正しく選択”する為に、健康や食事、ヨガに興味を持ち、この世のしくみや人間という生き物を探究する旅が始まった。


つづく

私が能動的に何かを学びたいと思った1番最初が以前のブログにもある父の病気がきっかけだった。


父が『悪性腫瘍』らしい、と母からの電話で聞いた、あの瞬間は今でもはっきりと覚えている。


そしてすぐ横で、それを聞いていた上司のいたたまれない表情、そして強くあれよと私に訴えかけるような眼差しを、私は今でもはっきりと思い出せる。


その時はまだ、悪性腫瘍がガンで、母の発した『カナリワルイミタイ』の言葉の本当の意味を私も母もまだ分かっていなかった。


え、手術で治るんだよね?何とかなるよね?


主治医や家族と話すほど、人に話せば話すほど、多くの情報が集まり、これはとんでも無い事が起きたのだと悟った。


お金で解決できるなら、借金背負ってでも助けたいと思った。身代わりになれるものなら、ないたいと思った。


でもそれができないのが人であり、この世のならわし。


何とかして助かる方法はないのか?父には一分一秒でも長生きしてほしいと思うけど、そのための延命治療や抗がん剤が、どれだけ父を苦しめるのか?


様々な苦悩に家族全員が真剣に向き合った
愛する人の死について考えた
そして自分だったらどう生きたいかを考えた


『人は必ずいつか死ぬ。
それが早いか遅いかだけ。』


上司が慰めにかけてくれた言葉が、その時の私にはとても残酷だったけど、長い時間をかけてじわじわと、そして時を追うごとに優しく馴染んでいった。

つづく

朝目覚めて、まだ夢うつつのまどろみの中でふと、昔綴っていたアメブロを開いてみたくなり、過去の私にふれてみた。



最後に記したブログから10年8か月。



様々な出来事があり世の中も私も、随分と変わってしまった様に感じていたけれど、ブログの中の私は当然私自身で(今よりテンション高めだけど)、何も変わらないおかしさと、安堵感に包まれた。



そう、心の中は何も変わっていなかった。



興味の矛先、大切にしたいこと。



そのボリュームははるかに今の方が膨大だけれど、芯にあるものは変わらず、さらに思いは強くなり、10年前より知識が増した私は、何も『知らない私』をより強く知ることになってしまった。



知れば知るほど、私はこんな事も知らなかったのか?と驚き、貪る様に学ぶ。



この世の成り立ちを、自然の摂理を、人体の不思議を、心の仕組みを、世界の構造を、神の世界を、



知りたくて知りたくて。



2025年心新たに、また改めてここに綴ってみようと思う。取り留めもなく溢れるこの想いと、学びと、私なりの考察を。



間違うことも知らないこともたくさんあるけど、間違ってたら教えて欲しい。知ってる事あったら教えて欲しい。


感想だけでももちろんOK。コメント欄で交流し、ともに学び楽しく歩める仲間募集中です◡̈⃝