千葉県松戸市で生まれました。
それからどんな生活をして育ってきたのか
についてこちらで包み隠さず公開したいと思います。

■中流家庭 貧しい思いは一切しなかったが。。
生きてからこれまで
特に貧しいと思う経験をせずに育ってきました。
逆に思春期にロックミュージックや文学に
傾倒するようになって
貧しさへ憧れるというなんとも罰当たりな
考えを持つようになります。
そのせいか大学時代は
家賃25,000円の風呂なし・ぼろアパートに
1人暮らししていました。
風呂は主に大学のシャワーを使用していました。
ちなみに僕はホームレスに
憧れているところがあります。
お金という価値観に縛られずに生きる。
本人たちはそうしたいと思ってしていない人が
ほとんどだと思いますが、勝手ながら
憧れを持っています。
■小学中学時代 頭は良かったが運動は出来なかった
勉強の飲み込みは比較的早く授業が退屈でした。
そのかわり運動はずっとだめで
マラソン大会などは最下位から数えて何位
というような結果でした。
しかし、中学に入り漫画「スラムダンク」の影響で
バスケットボールをやるようになり
みるみるうちに身体能力が上がりました。
バスケではスタメンになり
マラソン大会では10位以内に入る等成長しました。
1つのことに打ち込んで成長し結果を出す
という価値観が生まれたのは
この経験が初めてかなと思います。
■中学高校時代 タバコ、ピアス、喧嘩、金髪
漫画「湘南純愛組」の影響で不良に憧れていました。
煙草からはじまり中2でピアスを空けたときは
朝まで無言説教という無口な親父ならではの
説教タイムがあったことをいまでも覚えています。
親父からのプレッシャーもなんのその
不良グループとつるむようになり
町のゲームセンターのトイレで
ついに他校生との喧嘩をします。
結果惨敗。
そして親にめちゃくちゃ迷惑かけました。
すみません。。
それでも頭はまあまあ良く界隈で2番目くらいに
頭のいい私立高校に入学します。
そこでも髪の毛を金髪に染めたりとやんちゃでした。
特にグレる要素なんてなにもなかったのに
なんでそんなことをしていたのか今思うと、
すべて自分に負けたと思われたくない
という気持ちだったんじゃないかなと思います。
煙草を吸う度胸がない、
ピアスをあける度胸がない、
喧嘩をする度胸がない、
金髪にする度胸がない、
勉強をおざなりにする、
すべて他人からそう思われるのが嫌だった
という負けず嫌いな性格が根底にある気がします。
■中学高校時代 初めての成功体験
母親はピアノの先生、
父親はドラマー&オーディオマニアと
音楽に囲まれて育ちました。
中学生の時に父親に呼ばれて
おもしろいビデオがあるから
一緒にみようと誘われ
ミスチルとかスピッツをきいていた当時に
見せられたのが「ウッドストック」でした。
鳴っている音楽には全く興味わきませんでしたが
おっぱい丸出しで踊るヒッピー姉ちゃんには
ビビっときました。w
そんな父親の影響があったかどうかは
わかりませんが高校になって
ベースを始めることになります。
さらに、当時インディーズロックが流行りだし
「ハイスタンダード」に出会います。
僕はその頃エイフェックスツイン、
スクエアプッシャー、アンダーワールド、
プロディジーなどに出会っていて
そこまでメロコアには興味なかったのですが
演奏してみるとこれが面白かったのです。
めちゃくちゃにはまって
バンド人生がここでスタートします。
柏ALIVEというインディー界では
若干有名な千葉のライブハウスで
ライブをやるようになります。
友達をがんがん誘って集客には困りませんでした。
3年になるころには校内で一番人気のバンドになり、
文化祭では1枠しか出演権利のない
体育館の大舞台で演奏することができました。
この経験は僕に自信を与えました。
好きなことを続けていただけなのに
周りから求められ、認められる存在に
なれるということ。
また、多くの人の前で披露するという経験は
なかなかできるものではないので良い経験でした。
人前で話すとき緊張はしますが
頭が真っ白になるというようなことはないのは
バンド経験があるからかもしれません。
■勉強の成績はがた落ち 目指す方向を定める
ただ勉強の成績は悪くなる一方でした。
このころ既に学校の勉強が
社会の役に立たないことがわかっていました。
学歴社会も崩壊するってこともささやかれていたし
(実際はそんなことはないことは現在痛感しますがw)
大学は意味のある4年間にしたい
という思いが強くなっていました。
また、クリエイティブなことに興味があったので
美術大学を志望することになります。
特に音楽と映像とインタラクティブ性という
クリエイティブの集合体である
ゲームの業界に行きたいと
ひそかに思うようになり
就職先にゲーム業界のあった
武蔵野美術大学デザイン情報学科に入学しました。
実際にはゲーム系の勉強は
一切やらないのですが
美術大学の中では名のある大学に合格できました。
ちなみに実技試験もあるのですが
ほとんど学科試験で
受かったようなものだと思います。
というのも予備校で学科の模擬試験があるのですが
内容が学校でやっていることの数倍簡単で
全く勉強していないのに予備校内で
1位を取っていたりしたからです。
ある程度絵はうまくなりましたが
まわりほどはうまくなかったと思います。
この経験から一番を目指さなくても
自分の特徴とやりたいことと求められていることを
マッチさせることが大事なんだと
本能的に感じるようになります。
■大学時代 クリエイティブとビジネスについて
大学ではバンド、学業、バイト、VJ、
展覧会、PV作成、CG作成、ショートムービー制作
などなど目の前に転がっていた
面白そうなものすべてに手を出しました。
特に印象深いのはクラブVJをやっていたとき
ラッキィ池田さんに出会い
彼のPVを仕事として引き受けたことです。
ラッキィ池田さんにとっては
学生で撮影も編集もできて
グラフィカルなこともできる存在が
予算的にもちょうど良かったのだと思います。
仲の良かった3人でチームになって
学校の課題と同時に徹夜して制作をしました。
結果ラッキィ池田が特攻服を着た
ストーリー仕立てのシュールなPVが出来、
クライアントも満足したようでした。
自分の創るものがお金になるという経験は
非常に有意義でした。
特に中学時代の友人がギャル男になっていて
そこから派生した仕事が一番お金を生みました。
僕は自分の中でこの事象を「橋渡し」
と定義していました。
美大生は作品を創れるが金にできない。
ギャル男は作品を創れないが
集客してイベントを開催して金を作れる。
具体的にはイベサーと呼ばれる
ちゃらい(すみませんw)サークルは
定期的にクラブでイベントを開催します。
これは一番大きいもので
3000人以上集客するものもあり
1晩で100万を超える利益を
生み出したりしていました。
サークルの幹部はその利益で
沖縄旅行にいったりと豪遊できるほどでした。
その活動資金の中からイベント中に使う
映像制作にももちろん予算が割かれます。
そこで僕の出番というわけです。
一週間拘束で30万なんていう
学生からしたら破格のバイトでした。
むしろもうちょい本格的にやれば
事業化できたんじゃないかと思います。
■バンド時代 無謀ではなく計算
そんな感じでおいしい仕事もやりつつ
クラブで定期的にお金をもらいながら
VJしていると今度はまたまたイベサーつながりで
ファッション雑誌に特集されることになりました。
→BOYS RUSH
ただこの頃、VJや映像を仕事にしていくことよりも
自分が1番興奮できたバンドで
一旗あげてやろうと思うようになりました。
周りからは無謀と思われていましたが
とても打算的に考えた結果でした。
バンドを仕事にすることを
タレント業と割り切っていた
→若いうちにしか挑戦することができない
人気を得ることができれば一気に稼ぐことができる
→ローリスクハイリターン(金銭的に)
一旦有名になれば他のクリエイティブに移行できる
→INUの町田康が小説書いたり、
電気グルーブがゲーム創ったりという事例
そんなわけで僕は音楽活動を
就職活動と思ってやりはじめました。
音楽をつくり演奏することでお金を稼ぐ。
ただ30歳になっても貧しいバンドマン生活は
格好悪いなと思っていました。
それに各種オーディションでは
25歳までという制限があったため
25歳まで、つまり3年間で結果が出せなかったら
才能がないとしてあきらめよう
という気持ちで始めました。
デモ音源作成、小さなライブハウスへの出演、
知り合ったバンドとの共同イベント、
オーディションへの応募、小さな事務所への所属
などなどできることから少しずつ始めていきました。
はじめのうちは観客を数人しか呼べず
ライブハウスに払うノルマを達成できなかったため
自腹を切って出演していました。
それでもライブを続けていれば
少しずつ増えるだろうと頑張っていたのですが
一向に増えませんでした。
ライブでの反応の薄さというものは
計り知れない情けなさがあります。
場違い、勘違い、ナルシストなどなど、
ステージ上でものすごい葛藤がありました。
あるときこれではだめだと
ライブハウスで回数を重ねて集客する
という方法自体を疑うようにしました。
そして、その方法論はライブハウスが
盛り上がっていた頃の古い慣習だと気づいたのです。
そこで目をつけたのがmixiです。
mixiを使って自分の音楽に興味のありそうな人を
検索してライブに誘うという手法に切り替えたところ
最終的にはワンマンライブでチケットが
ソールドアウトするほどに集客できました。
具体的にはこんな導線です。
1-A)
自分の音楽と関連のありそうなライブイベントの
帰り際のお客さんに印象的なプロフィールと
メンバーの写真と無料で音源が手に入るサイトの
URLの入ったフライヤーを渡す
1-B)
mixiで自分の音楽と関連のありそうな
バンドのコミュニティに入っている人に
片っ端からこんな音楽やってます
よかったら聞いてくださいというメールを送る
2)
1曲ダウンロードのための
メルマガ登録を用意しておきメルマガ会員を増やす
3)
メルマガで近況やコラムライブレポートなど
とともにライブ告知を流す
その際ライブ限定の音源や、
イベントごとの無料CDRなどを用意して
ライブに来てもらいやすくする
そんな集客方法の介もありワンマンライブも成功し
徐々にライブハウス界隈では
名を轟かすほどに成長していきました。
しかしそれでも一向にバンドで飯を食える気配は
ありませんでした。
そして2006年についに25歳を迎えてしまいます。
はじめの計画通り何のためらいもなく
方向転換を考えました。
ちょうどその頃ソニーミュージックが
A&R職(アーティストをプロモーションする職業)の
公募があったので早速提案書を書いて
送ってみたところ、なんと応募数3000人の中から
2名に選出されてしまいました。
これでソニーで働くことができて万事OK
のはずが人生は面白いもので
なんとバンドの方にも吉報が届きます。
なんとMrChildren等を輩出したプロダクション
烏龍舎でレミオロメンを担当していたマネージャーが
たまたまライブを見てくれていて衝撃を受け
一緒にやりたいと声をかけてくれたのです。
ただし、ソニーの方はバンドを続けるなら
ここでは働けないと言われていました。
人生の究極の2択を迫られましたが
あっさりバンドに決めました。
仕事についてはそれまで勤めていた会社をやめ
時間に制約のないフリーランスとなり
1ヶ月で30曲を書き上げるなど精力的に活動しました。
インディーズでは有名な大阪のフェスに出演したり
個性的なレーベルとして有名なスピードスターの
オーディションで最終選考まで残ったり
スペースシャワーTVに出演したり
マネージャーによる大手レコードメーカーへの
プレゼンなどなど活動は一段階上になりましたが
フルスイングの空振り三振
結果はついてきませんでした。
ここまでやってダメなら悔いなし、
作曲、バンド活動で食う道はあきらめ
ライフワークとすることにしました。
とにかく常にバンド活動というものを中心に
考え突き詰めた22歳~26歳の4年間でした。
いろいろな要因があるとは思いますが
設定した目標に届かなかったのは事実です。
ただしここで得たものは大きかったと思っています。
特に見込み客の集客という
ビジネスの基本を実体験で学べたこと。
クリエイターとして自分のつくる物、表現することが
どんどんレベルアップして鋭角になっていき
それがお客さんにいい反応を与え広がっていく感覚。
そして、好きなものに100%集中するという
人生でも思い切りがなければ
なかなかできない経験が出来たことが
とてもプラスの経験だったように思います。
■フリーランス時代 バンド以外の道を模索
とはいえバンド活動をやりながらも
友達の紹介で勤務時間に自由がきいて
どんどん新規事業を任される会社の正社員として
働いていました。
デザインができてホームページが
ある程度つくれるということから
全く無名の高級カナダアイスワインのWEB SHOP店長
携帯でナビする沖縄の地元民しか知らない
お得な情報サイト「マチナビ沖縄」ディレクター
LEDディスプレイ用映像コンテンツ制作
および配信ディレクター
と制作を中心とした多種な案件を任されていました。
それからネットサーフィンをしていたときに
その後僕の人生に大きな影響を与えることになる
世界を旅する年収1億スーパーアフィリエイター
「川島和正」という人物を知りました。
まず初めにホームページを見たときは
怪しい人と商売だなという印象を受けました。
ただサイト自体はしっかりデザインされていて
他の情報商材のサイトとなにが違うのだろうと
デザインの視点から気になっていました。
2度目に出会うのが青山ブックセンターで
「働かないで年収5160万円稼ぐ方法」という
ふざけたタイトルの本を見つけ著者を見てみると
いつかネットで見た「川島和正」氏。
すぐに立ち読みを始めると
ぐんぐん引き込まれてしまいます。
実際にインターネットを使って稼ぐ方法を
ステップバイステップで素人にもわかりやすく
説明をしていて、知識を蓄える本というよりも
説明書に近いものでした。
これは今ちょうどフリーランスだし
役に立ちそうだということで
すぐに購入しメルマガにも登録しました。
本の中でも即金性の高そうな
PPCアフィリというものを実行したところ
2日くらいで2万円売り上げました。
ただPPCアフィリは資金が必要だし
本代の元がとれたからOKという気持ちもあり
その2万円でやめてしまいました。
ちょうどそれくらいの時期に
メルマガで川島氏がデザイナーを募集している
ということを知り即応募しました。
なんとすぐにメールが返ってきて
仕事を任されることになりました。
仕事を任されて1週間くらいで
CSSがあまりわかってないことがばれクビに。
ただそこで縁は切れずおもしろそうな奴という理由で
アルバイトスタッフとしてSEOやSEM、
コピーライティングなどの補助作業を
メインに任されるようになり
だんだん信頼関係を築き最終的には
破格の報酬で仕事を依頼されていました。
川島氏の仕事を請け負いながら前の会社で
つながりのあったワイン輸入会社のウェブ戦略を
2年ほど手伝いました。
川島氏の元で学んだノウハウを
小さい会社にあてはめながら
ワインのウェブ事業をはじめから立ち上げて
売上/顧客増大に貢献しました。
また、A&R職オーディションのつながりから
ソニーと委託契約し
「下北沢と秋葉原の文化を掛け合わせる」
という今までにない新しいコンセプトの
ライブイベントを企画する仕事なども
受けていました。
ということでこの時期は
朝から夜19時まで川島オフィス
19時~眠りにつくまでをソニー
たまにワインの日があるみたいな感じでした。
もちろん土日も稼動していました。
バンドをやめてからここまでのフェーズでは
とにかく仕事として引っかかるものは
時間の許す限りこなしていたという感じでした。
半年で同世代の平均年収以上は稼いでいました。
■WEBクリエイター修行時代 WEBを極める
ということでカオスな時期が1-2年続いたのですが
ぱたぱたとプロジェクトが終了していきました。
まだ契約を続けて欲しいというところもあったので
フリーランスを極めて生きることも考えたのですが
1本の道で1からプロフェッショナルを
目指したいとも考え始めていました。
いままでの経験を活かせ、且つ社会の需要があり
未来の明るい仕事はWEB業界だと確信していました。
すぐに転職活動を開始して
20社程受けて3社に合格しました。
1つはメーカーのWEBマーケッター
1つは紙メディアを持ってる会社のWEBデザイナー
1つはWEB制作会社のWEBディレクター。
けっこう悩みましたが
まずはWEB制作会社で創ること、
お客さんと対面して問題を解決する
という仕事をしたいという思いから
WEB制作会社でWEBディレクターの道を
極めることを選びました。
WEBでの経験も少なからずあるし、
フリーでお客さんの問題を解決してきた
という自負からすぐ使える戦力になると
思っていたがそれは大間違いでした。
代理店や直クライアントへの細かいマナーの話から
より丁寧な電話やメールの対応等々
WEBディレクション以前の
ビジネスの基礎への詰めの甘さが目立ち
上司の信用を失いました。
しかしそこはすぐに本とネットと先輩たちから
盗んで回復し現在はディレクションも任されてきて
自分がどんなディレクターになれるか、
会社にどんな形で貢献できるかを
日々模索する修行の日々が続いています。
この会社は社員一人一人のモチベーションが高く、
努力しないとすぐに置いていかれるような環境です。
その分結果をだすことができた社員には
しっかりと還元できる仕組みも整っていて
やりがいが半端ないです。
現在私はWEBのプロフェッショナルとなるべく
自身を研鑽する毎日を送っています。