リーダーと真摯さについて(続き)人間は何によって変化するのか(再) | いつでも5年間のLast Run

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何人かの先輩諸氏が「最後の60歳までの5年間はあっというまだぞ」と言っていた。「ならば、今こそなのだろう」後進のために、伝えるべきものを伝え、残すべきものを残してゆこう。と思ったのです。
それが「5年間のラスト・ラン」を思いい立ったきっかけでした。


おはようございます。 一人のヴィアトールです。

「 マネジメントとは、事業に命を与えるダイナミックな存在である。彼らのリーダーシップなくしては、生産資源は資源にとどまり、生産されない。彼らの能力と仕事ぶりが、事業の成功、さらには事業の存続さえ決する。マネジメントこそ、企業がもちうる唯一の意味ある優位性である。」

                                P・F・ドラッカー


このドラッカーの主張を前提に、前回と前々回でご紹介したかつてのブログでは、「真摯さ」について、組織人によるマネジメントの切り口から捉えてみました。


その内容をドラッカーの言葉によってふり返ると、

厳しいプロは、高い目標を掲げ、それを実現することを求める。誰が正しいかではなく、何が正しいかを考える。頭の良さではなく、真摯さを大切にする。つまるところ、この真摯さなる資質に欠ける者は、いかに人好きで、人助けがうまく、人づきあいが良く、有能で頭が良くとも、組織にとっては危険であり、上司および紳士として不適格である。

リーダーたる者にとって最も基本的な資質は、「真摯さ」である。信頼するということは、リーダーを好きになることではない。常に同意できることでもない。リーダーが言うことが真意であると確信を持てることである。それは、真摯さという誠に古くさいものに対する確信である。

真摯さを絶対視して、初めてまともな組織といえる。真摯さは、とってつけるわけにはいかない。すでに身につけていなければならない。ごまかしがきかない。


そして、「真摯さの定義は難しい、しかしマネジャーとして失格とすべき真摯さの欠如を定義することは難しくない」として、真摯さが欠如するリーダーの価値観や行動を具体的に5つあげ、もしリーダーがそのように真摯さに欠如する者であれば、その組織では、やがてマネジメントと仕事に対するあなどりを生み、組織の精神を低下させ、そして組織全体を堕落させて行く。

としています。


今回は、さらにかつてのブログでのこの続きを、以下ご紹介いたします。


そのあなどりや精神の低下、堕落は、目的的な本来の成果、ないしはそれぞれの責任に応じた貢献課題から目をそらすことによって先ず現れ、他にも様々な判断や決定において、企業がもちうる唯一の意味ある優位性であるべき「マネジメント」の機能に自らブレーキをかけることによって進行し、そして諦め感の漂う中で多くの人が目先の仕事に忙殺され、ある人はその事にしらけ、ある人は自らの生存に意味を見出し、そしてそれが常態化し、その惰性と共に深耕して行きます。

冒頭のドラッカーの主張の中の、「彼らの能力と仕事ぶり」の「仕事ぶり」が組織を堕落させるということです。

では、もう一方の「能力」とは何か。ドラッカーは次のように語っています。

成果をあげる人のタイプなどというものは存在しない。成果をあげる人に共通するものは、成果をあげる能力だけである。仕事や成果を大幅に改善するための唯一の方法は、成果をあげるための能力を向上させることである。そしてそれは習得できるものである。成果をあげることはひとつの習慣である。習慣的能力の集積である。習慣的能力は常に習得に努めることが必要である。習慣的能力は単純である。習慣になるまで反復しなければならない。

以上が前回と前々回の要約です。


ここでは、人間のもつ「真摯さ」を組織のマネジメントの切口から捉えていますが、実際の組織にあっては、成果をあげる能力を身につけた上で真摯さを備えた人もおり、欠如した人もおり、一方、真摯な人の中には、成果をあげる能力を身につけた人も、そうでない人もいるというのが現実であり、そして、それがあるがままで自然なことといえるのでしょう。


そこで繰り返せば、

リーダーたる者にとって最も基本的な資質は、「真摯さ」である。

信頼するということは、リーダーを好きになることではない。常に同意できることでもない。リーダーが言うことが真意であると確信を持てることである。それは、真摯さという誠に古くさいものに対する確信である。


「真摯さなくして組織なし」

真摯さを絶対視して、初めてまともな組織といえる。それはまず、人事に関わる決定にいおて象徴的に表れる。真摯さは、とってつけるわけにはいかない。すでに身につけていなければならない。ごまかしがきかない。ともに働く者、特に部下に対しては、真摯であるかどうかは二、三週間でわかる。


となるのです。


なお、「真摯さ」とは、その人を信頼に足ると確信できる人格的な特性であり、それは、虚構性のない誠実な心のことであり、そして事に向かうに当たっては、そのひたむきな誠実さを、常にその思いと行動の起点とするような精神であるといえるでしょう。


ところで、折に触れて私が使う言葉 「分かるの扉が開く」 とは、何かを学び、自分に照らして何かに気づき、そしてそれがいつも心に残る具体的関心事となり、時に応じてそれを何度も実践して行く中で、ある時、「ああ、そういうことなんだなあ・・・」としみじみと実感してその真意を会得するようなものだと、私は決めています。

つまり、「分かるの扉」とは大なり小なりに「悟る扉」であり、したがって「変化」の関所的扉なのです。


学ぶことと人間の変化について

ここで、今までに何度か記事にしてきましたが、「学ぶこと」と、「変化」について改めて考えてみます。


学問は人間を変える

学問は人間を変える。人間を変えるような学問でなければ学問ではない。その人間とは他人のことではなくて自分のことである。他人を変えようと思ったらならば、先ず自分を変えることである。

                                   安岡正篤


佳書と出会う

不幸にして佳人には会わず、佳山佳水に会わずとも、佳書にだけは会いたいものであります。佳書によって、我々はしみじみと自分自身に話すことができるのであります。天地が壊れる時も、ああ天地が壊れると語れるのであります。これこそ天地の外に立つのであります。

                                   安岡正篤

我々の日常生活の中に宿る意味の深さは、主として読書の光に照らして初めてこれを見出すことができるのであって、もし読書をしなかったら、いかに切実な人生経験といえども、真の深さは容易に気づき難いといえる。

                                    森信三


ここで決定的に重要な事は、何かを学んで「知識」や「意識」が変化しても、実際には、その段階では何も変化はしていないということです。

変化とは、「具体的な何か」を変えようとする行動でしか起こらないのです。意識の中の「変わるの希望状態」や、「良き意図」ほど当てにならないものはないのであり、「目から落ちたウロコ」でさえ、何もしなければたいがいは三日で戻るのです。


加えて認識すべきは、人間は自分を変えることは可能であっても、他者を自分の思うように変えることは、およそ不可能であるということです。そもそも、人は自らの動機や中心欲求によって物事を聞き、読み、知覚するのであり、極端にいえば、それ以外のことは自分とは無関係な雑音として聞き流すか、そうでなくとも直に記憶から消え失せてしまうのです。


人は、何か具体的な事柄に出会い、それによって「未見の吾」を求めてより良く生きようとする自らの起爆エンジンに自ら点火をすることによってこそ、変化に立ち向かい始めるのです。


今回はここまでです。

最後までお読み頂きましてありがとうございました。


なお、次回も更にこの続きのかつてのブログをご紹介したいと思います。


今日が大事、今日が大切。

だから、

今日もいい日でありますように。




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