気を遣う≠気を付ける | 馬耳東風(豆腐【ページ固定更新停止】

馬耳東風(豆腐【ページ固定更新停止】

センシティブなポエムです。モラハラ屋本舗。

【気を遣う≠気を付ける】

 

はい。これ分からない人が多くて、注意を向ける事に配慮が伴うから人の声掛けが煙たく感じられる人と、咳払いまでして人に気を遣って貰いたい弱者が居る。知的レベルは色々だけど。コモンの語彙力がないことがほぼ共通する。

 

音は聞こえるけど話が分からないというラインが共通するのか、自分のジャンルで会話して貰いたい願望に気が付かないか、自分のジャンルでないと話が分からないという事。

 

つまり、医師や弁護士の【専門のニュアンスの】話が分からないのは万民に共通するとしても、後天的な知恵を付けてまでいて、オノレの感情を選択できない事があたるのが痛々しい。

 

これはホスピタリティの気付きがあってもそれを個々人のスタンスと勘違いするとどうしようもないので、赤の他人に嘲笑を向けるヤンキーから、自称書生、耳が遠いと言われれば遠いようなオバちゃんまで色々居るが、拗らせると面倒くさい。日常の風景では、店員に絡む人に散見される。レジでやりとりに好悪の両面での長時間をかける人の内でこういう拗らせをしている人は多い。

 

一般的に会話では、自分の話のターンになったら前の話の続きでも、感情の蹲踞(そんきょ)で話せないことを自分の欠点だと分からないと駄目。

 

気を付けるというのは、他人への失礼を回避するためにもあるが多用する必要もなく、場面場面の人の入れ替わりの時に注意すれば良いだけである。気を遣うというのは特殊な状況が継続するので頻発しない。つまり、気を遣う方が意味が重いが、両者の場面が違うことを認識できないと、人間性が狭いままである。

 

女性との限られた状況の会話が得意になっても、何かしらでメッキが剥がれること。つまり、異常者とバレる場面が出ることは、人が職から解雇された後に発生する場合もあるし、よく訓練されたASDでも似た状況が出ることがある。いやいや、幼児期にある程度の大人と接していないと、大抵は底が知れるんだろうが、つまり、内面的に閉鎖的な無能とかは大人になってから普通にテンパる。

 

認めたくないんだろうが、切り分けは【気を付ける≠気を遣う】であって、より問題の根の深い【気を付ける≒気を遣う】というタイプは恵まれた生育歴を伴う。望んでそうなる、望まずにそうなるであっても、その恵まれた生育歴を代替できないなら幼児の時に人生の巧者である老人と接するしかない。

 

【悪意を向ける≒気を付ける】≠【好意を向ける≒気を遣う】である事をほじくり返される鬱陶しさは日常にない方が良いからである。

 

注意が無属性である事が前提であるから、気を遣って貰いたがる人の態度は、人に悪意を向けられたと日常で喚き散らす異常者のそれと同義で鬱陶しいのだ。

【注意する≒気を付ける】≒【好意を向ける≒気を遣う】であるべきなので、【接客に対して性悪説を持つ】属人的な変人は願い下げる。

 

店員への態度が悪い人は(気を遣って貰えない)知らない店に行けない。ということ。

 

常連の積もりでコンビニに入って「お前誰?」とホストに言われるのに近い。

 

年を取ると個性なんてなくなる。し、日常で何度もナンパされる美人は常識人。