東陲ネンゴロ庵 -2ページ目

東陲ネンゴロ庵

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029 東陲ネンゴロ庵 「寝屋川鉢かづき伝説」上

 

1 はじめに

・ ネンゴロ庵、庵主後聞です。連休も明け、世の中も普通モードに切り替わったところ。ネンゴロ庵もそろそ ろ始動しなくてはと考えております。高速道路など渋滞が起こり、混雑している時、庵主は人里離れたところをひたすら歩き回っておりました。おかげさまで、 随分と日に焼けてしまいました。夏に向けて、麦わら帽子を手に入れなくてはと思案しているところです。さて、今回は大阪府寝屋川市に伝わる鉢かづき伝説に ついて考察したいと思います。

 

2 寝屋とは

・ まずは、寝屋という言葉から。普通に考えると、寝るための屋敷、小屋などの施設ということが挙げられま す。現在でいうと、旅館、ホテルなどの宿泊・食事等を供給する場所と言えるでしょうか。古代にこうした職種が存在するとすれば、加えて、日常生活に必要な 品物や嗜好品を準備したり、舟運等交通の便宜を図ったり等々、総合的に執り行ったことが想像されます。寝屋川市立図書館が発行した「寝屋川の民話」(昭和 56年)によると、室町時代の話として語られています。

・ 大阪の地名由来辞典によると、寝屋はかつての河内国交野郡(かたのぐん)に属すとあります。寝屋川市、交野市、枚方市が境を接する地域がこの物語の舞台となります。地名の由来については、交野市星田に存在した牧(まき、馬等を放牧し飼育した)の従事者の宿泊所が存在した ことからという説。あるいは、街道の旅人に食料等を供給する施設が存在したことによるという説。この両説があるようですが、根拠となる資料がなく不明であ るとされています。いずれにせよ、何らかの建造物や組織があった事は間違いないように考えられます。

・ さて、もう一つヒントになる話があります。交野市から枚方市を流れ淀川に注ぐ天野川(あまのがわ)についての逸話です。

・ 「平安時代には、交野台地が狩場として知られ、数多くの詩歌が詠まれました。」

・「狩りぐらし七夕つめに宿からん 天の川原にわれはきにけり」在原業平(伊勢物語)

・ このように下の写真の看板に説明があります。
29-1



29-2 この看板のある場所は、京阪本線枚方市駅のすぐ北、天野川にかかる鵲(かささぎ)橋

たもとにあります。都から船で狩猟場である天野川流域にやってきたときの感慨が述べられています。しかし、狩猟を終えた後、日帰りというわけにはいきませんので、どこかに宿泊しなくてはなりません。七夕つめの住居に泊めてもらっても良いでしょうが、そればかりでは何かと不自由でしょう。もちろん、天野川(天の川)ですから、七夕と記したのでしょうが。つまりは、需要があるところに供給がある ものです。それも、都の貴族がお客さんならば、それ相応の施設が必要でしょう。それを運営・維持するための組織・人員も必要になります。そして、それを統 括する人物が出現し、権力構造が築成されるわけです。ここに、富が蓄積されていく必然性が出てきます。そして、寝屋長者と呼ばれる物語の舞台が成立します。その財力を元に、やがて地位、名誉を手に入れていくという、いつの世も変わらぬ筋書ができあがっていくわけです。寝屋備中守(ねやびっちゅうのかみ)藤原実高(ふじわらのさねたか)というのがその名前です。鉢かづき姫は、この長者の娘なのです。

・ その財産は、次のように記されています。(寝屋川の民話より)

 「屋敷は東西十二町、南北四町(1町は約109mですから、だいたい1300m×440mくらいの広さになります。)」

 「田畑は、一千二百余町(面積の単位では1町が約1ha(1ヘクタ  ール、一辺が100mの正方形))」

・ 他にも、小山があり、池があり、使用人を住まわせる長屋があり、屋根は檜皮葺(ひわだぶき ヒノキの皮で屋根が葺いてある)とあります。贅を尽くしたあつらえであることが、事細かく説明されています。その財産がどれほどのものであったかよく分かります。

 

3 ネコってなんだろう?

・ さて、突然話が変わります。下の写真は、奈良県奈良市にある第九代開化天皇(かいかてんのう)春日率川坂上陵(かすがのいさかわ、



29-3  いざかわさかのえのみささぎ)の宮内庁による説明板です。この場所は、JR奈良駅から三条通を東に向 かったところにあります。ゆるやかな坂道を上がっていきます。昔は随分急な坂だったかもしれません。道のずっと先には、興福寺や猿沢の池があります。両側 には、お店が並んでいて、観光客も多くにぎわっています。坂を上がりきると、左手に小道が見えます。それを進むと、ビルに囲まれた一角に御陵が見えてきま す。向こう側の小山がみささぎです。小さく、白い鳥居が見えます。中には入れませんが、外側から参拝できます。

・ 開化天皇のお名前は、ワカヤマトネコヒコオオビミミノミコトです。



29-4 ここにネコという単語があります。いままでこれが何を表すのかということについての説明を見たことがありません。で も、ただ単に付けられたとは到底考えられません。昔だからそういう名前もあったのではないかという事を言う人もいます。しかし、何らかの意味があって名前 としたので はないかという事は当然考えられることです。

・ これを考えるヒントがあります。

 「第七代孝霊天皇(こうれいてんのう)オオヤマトネコヒコフトニノミコト」

 「第八代孝元天皇(こうげんてんのう)オオヤマトネコヒコクニクルノミコト」



29-5 ・ つまり、7~9代の天皇は、ネコという名前を持っているので  す。開化天皇だけワカヤマトと呼ばれるのは、長兄、次兄に継ぐ3 番目であることからだと思われます。

・ だからどうだというのという声が聞こえてきそうです。

・ 寝屋ネコは、同じ職種を指すのではないかというのが私の考え です。寝屋はこれまでに説明したとおりです。

・ ネコについては、根小屋から来たのではない かと考えました。根小屋はこれまで、その土地の有力者が根拠地とした屋敷等であったということが言われていたようです。ただ、全国的に使用された言葉では ありません。根拠地とするよりは、宿泊・休息するための施設であったのではないかという指摘もあります。

・ ネコという地名は各地にあります。私も何回か遭遇し、そのたびに何でネコなのと不思議に思ったものでした。もちろん、すべてのネコ地名が寝るための所という意味であるとは思いません。その由来を解釈するための一つの考え方ではあると思います。

 

4 おわりに

・ 寝屋長者から天皇の名前にあるネコという謎の言葉について考えてみました。ネコについての説明は、今後予定している「古代に於ける近畿大戦」のシリーズで詳しく行いたいと思います。今回は、ここまでで留めておきます。次回は、何故、鉢を頭にかぶっていたのかという謎に迫りたいと思います。

・ お詫びと訂正

前回の福島横穴シリーズの最終回で、国道2号線と書きましたが、国道4号線の間違いです。お詫びして訂正します。すみませんでした。

 何を勘違いしたものでしょうか。今後気をつけます。お許しください。



29-6

やれやれ、吾輩は旅館の仕事などまっぴらだ。

早々に退散させてもらうよ。

熊本市上通りのネコより

 

028 東陲ネンゴロ庵 「福島横穴見聞録」6


1 はじめに

・  ネンゴロ庵、庵主後聞です。これまで数回にわたり福島横穴見聞録と題し記して参りました。今回は、横穴 について他の県の例も交えながら説明して、このシリーズを終了したいと思います。なお、被災状況の写真を一部掲載しましたが、不快に思われた方もおられる かもしれません。お詫びいたします。ただ、福島について私の知り得たことを書くことによって、何らかのお役に立てればという思いであったということはご理解いただけたらと思います。


2 清戸廹装飾横穴(きよどさくそうしょくよこあな)

・ 福島県は、3つの地域に分けられます。これは以前にもご説明したとおりです。太平洋岸の浜通り、東北自動車道、新幹線、国道2号線などの物流の大動脈が走る中通り、そして会津です。

・ 清戸廹横穴は、浜通りの中央北寄りに位置する双28-1 葉町に所在します。

53 基に及ぶ横穴が確認されているそうです。しかし、多くは学校建設に伴い、壊されてしまったようです。私 はここを確認したかったのですが、原発にごく近いので見学は不可能でした。写真は最初に紹介した泉崎横穴の説明板にあったものです。写真が小さくて分かり にくいかもしれませんが、中央に渦巻き状の模様が 見えるでしょうか。随分以前に写真資料を見てから、是非この横穴を見たいという思いにとらわれていました。しかし、現時点ではそれはかなえられそうもあり ません。赤く力強いきれいな円形は何を意味しているのでしょうか。右側の人物につながっているように見えます。この人物は、腰に手を当て、何かを指さして いるようです。帽子様のかぶり物が描かれています。カブトでしょうか。さながら、何かを指揮しているように思えます。装飾のある横穴として代表的な例で す。


28-2 3 酒元ノ上横穴

宮 崎県西都市にある酒元ノ上横穴墓群(さかもとのうえよこあなぼぐん)です。西都原の丘陵上に築かれていま す。圃場整備中に発見され、覆屋を設け保存されています。なだらかな土の斜面にほりこまれています。お墓に通じる墓道が付けられ、墓前では祭祀が行われて いたようです。墓の上には、小さく墳丘が作られている例もあります。


28-3 4 古月横穴

福岡県鞍手郡鞍手町古門にある古月横穴群(ふるつきよこあなぐん)です。国史跡として保存され、きれいに整備されていました。着色や刻線によって装飾されているそうです。細長い墓道が付けられています。





28-4 5 滝尾横穴

大分県大分市羽田に所在する滝尾百穴横穴群(たきおひゃっけつよこあなぼぐん)です。滝尾中学校のグランドにに隣接する丘陵に営まれていますす。73基が確認されているそうです。たくさんあいている一つ一つの穴がお墓です。





28-5 6 岩原横穴

熊本県山鹿市鹿央町にある岩原横穴墓群(いわばるよこあなぼぐん)です。岩原台地の崖面に131基の横穴が営まれています。駐車場から見上げると、多くの横穴を見ることができます。丘陵上には古墳群があり、中心をなす双子塚は、全長約107mで熊本県内最大級の規模です。


7 蓮ヶ池横穴

 宮崎県宮崎市に所在する蓮ヶ池横穴墓群(はすがいけよこあなぼぐん)です。市街地の北にある丘28-6 陵に造られています。遠く霧島の秀峰を望むこともできます。公園化され、崩れないように補強されています。80基ほど群集しています。市内には300基以上の横穴があると考えられいるそうです。これは以前の資料からの情報なので、それ以降発見されているかもしれません。

近くには市立の資料館も有り、見学者の便宜を図っています。また、近年市内ある生目古墳群が整備されました。なお、プロ野球ソフトバンクホークスのキャンプ地となる施設も、その近くにあります。その季節には多くのお客さんで賑わいます。


8 高井田横穴

 大阪府柏原市にある高井田横穴群(たかいだよこあなぐん)です。

28-7 こ こでは162基が確認され、全体では200基以上あると考えられているそうです。横穴は、九州から東北まで広い範囲で見られます。しかし、近畿地方には少 なく、大阪では柏原市にしかありません。また、大和川が河内平野に注ぎこむ地点を上から見下ろすような立地であることから、交通や物流を支配した人々の墳 墓なのかもしれないと想像されます。


28-7 9 水町横穴

福 岡県直方市にある水町遺跡群(みずまちいせきぐん)です。複合遺跡で、その中に横穴墓群もあります。小さ く見えている穴の一つ一つが横穴墓です。岩盤をくりぬいて造られ、密集した様子が分かるかと思います。墓道が枝分かれしている例もあります。公園として整 備され、見学できます。


10 城戸ケ谷横穴

・ 城戸ケ谷横穴墳墓群(じょうとがたによこあなふんぼぐん)熊本県阿蘇市にあります。阿蘇の外輪山に広がる原野に7ヶ所、合計18
28-8 基あります。標高は730mもあり、九州でも最も高いところにある墳墓群です。いわゆる山脈(やまなみ)ハイウエーを上りあがったところにあります。この説明板のすぐ近くには展望所があり、阿蘇五岳をはじめとする山々を望むことができます。ここにお墓を営んだ人々も
眺望を好んだのかもしれません。兎に角、高いところにあり、山の頂上といった感じです。阿蘇には、中通古墳群や国造神社の古墳なども知られ、古代から人々の生活があった事が分かります。第12代景行天皇が阿蘇を訪ねられたことが日本書紀に見えますす。

 内部は、コの字型に仕切られた屍床(ししょう 遺体を安置する場所)が作られており肥後の横穴の特徴が見られます。ほとんどが埋まった状態で、調査は行われておらず、副葬品なども不明だそうです。


11 まとめ

・ いくつかの横穴について見ていただきました。私なりに考えている横穴の疑問点について以下考察してみます。

➀ 全国各地で見られるが、無い場所もあるのはどうしてだろうか

・ 高井田横穴のある柏原市に横穴があるが、大阪には他には見られないという説明を書きました。たくさんあるところと全く見られないところがあるというのはどうしてでしょうか。もちろん、その立地条件により、墳丘と横穴のどちらが良いかというところもあるでしょう。

・ 丘陵上に古墳が有り、その斜面や崖、 また周辺の崖などに横穴があるということを考えると、その上下関係は自ずと見えてくるように思われます。しかし、基本的には、その墓制は墓の主が決めるべ きものであって、どちらを選ぶか制限はなかったのではないでしょうか。首長クラスだけに前方後円墳が許されていたなどという考えも疑問で す。

② 副葬品が豪華なわけは? 

・  これは、古墳と横穴に上下関係があると考えると、貧富の差があるのは当然存在するするべきものと思われ ます。そうすると、横穴に豪華な品物が取りそろえられるはずは無いということになります。なのにそうはなっていないということなのです。だから疑問とされ るわけです。しかし、墓制が身分制度に制限されたものではないとすれば、この疑問は氷解します。家族や一族で決められた、あるいは受け継がれた葬り方があ ればそれを踏襲していくでしょう。また、時代の流行で変化していくこともあるでしょう。それは、これまでの歴史が示すとおりです。


12 おわりに

・ これまで福島で見聞きしたことを書き連ねて参りました。最後に、横穴見聞録というタイトルに偽りが無かったという事をお示ししたいと思い、これまで見聞きしてきた横穴について一部ご紹介しました。それと、若干の考察も行いました。ここまでで、福島横穴見聞録を終了します。

・ 次回は、大阪府寝屋川市に伝わる「鉢かづき」について考察したいと思います。失礼します。

027 東陲ネンゴロ庵 「福島横穴見聞録」5


1 はじめに

・  ネンゴロ庵、庵主後聞です。熊本地方を中心に、激しい地震が続いています。亡くなられた方々にお悔やみ 申し上げます。被災された方々へお見舞いを申し上げます。ネンゴロ庵も古びた柱や梁がきしみ、今にも崩れてしまうかと心配するほどでした。何時襲ってくる か分からない揺れに、庵主も寝不足気味です。早く終息してくれることを願うばかりです。庵は今のところ被害はありませんが、これからどうなるか分かりませんので、避難するかどうか考えているところです。

・ さて、今回は、室町時代に福島県に存在した関東公方の出先機関の話から始めたいと思います。


2 関東管領奥羽探題稲村御所(かんとうかんれい おううたんだいいなむらごしょ)

・ 時は、室町時代、南北朝の合一、つまり北朝方の足利氏を中心とする幕府が南朝方を押さえ、全国を統一した14世紀末のことです。

・ 京都では、三代将軍足利義満が、幕府の実力を高めようと、様々な画策を行っていました。開設されました。関東には、鎌倉府が置かれ、関東一円の支配体制を築きつつありました。元々足利氏は、今の栃木県足利市を本貫の地としていました。最初は、後に二代将軍となる義詮(よしあきら)が、主となっています。やがて、将軍となって京に去った義詮の後を、弟の基氏(もとうじ)が継承します。これが初代とされ、関東公方(かんとうくぼう)、関東管領(かんとうかんれい)、鎌倉御所(かまくらごしょ)などと呼ばれます。つまり、室町幕府の関東支局のような役割を持つことになったのです。

・ 基氏の次は、その子氏満(うじみつ)。これが二代目です。次の三代目は、氏満の子である満兼(みつかね)が継ぎます。

・ 応永五年(1398)鎌倉公方となった満兼は、翌年早速、弟二人を奥羽の地へ送ります。

・ 一人は、満貞(みつさだ)で、現在の福島県須賀川市に赴き、稲村御所(いなむらごしょ)と称します。

・ もう一人は、満直(みつなお)で、現在の福島県郡山市へ下向し、篠川御所(ささがわごしょ)を称します。この二人を支援したのは、足利という名前、権威を利用しようと考える在地の勢力であった事は言うまでもありません。両御所は、幕府の権威と当地の勢力バランスの上に成立していたと言えるでしょう。

・ さて、福島県に奥羽探題が二ヶ所に存在していたと言うことを聞いて、奇異に思われる方も多いと思います。奥羽と言えば、現在の宮城県、岩手県、青森県までを含むからです。それを、南の端である福島 にだけあるなんて、偏りすぎています。これはどういうことかというと、簡単に言えば、関東公方の勢力が、ここまでしか及ばなかっ
27-1 たということです。また、
京都と鎌倉の関係もあまりよくなかったということもあったようです。出先機関が力を持ちすぎると、本社はそれを制御しようとします。独断専行を許すと、秩序が乱れてくるからです。これもよくある話ではあると思います。勢力争いは、何時の時代でもあるものです。まして兄弟や一族が東西で覇を競うような状況になれば、大乱の恐れすらあります。

・ 上の写真は、稲村御所のあった辺りと推定されます。特に何かが
27-2 残っているというわけではありません。すぐ近くに、赤城神社があります。左の写真、左手の石柱には「
村社赤城神社」とあります。右手に見える「赤城神社之碑」には由緒が刻まれています。碑文を少し読んでみます。

・ 「当神社は、赤城神、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、経津主神を祭る。」

  「崇神天皇の御代に、皇子豊城入彦命を上毛野国(群馬県)に遣わし、東国開発の経営にあたらしめる。その開発成就を祈念し、赤城神社本宮を奉齋し、農耕水源の神、当地鎮護の神と崇め奉るという。」

  「後世、国威東に伸び、豊城入彦命を祖神と仰ぐ子孫と氏族は、生活の地に赤城神を祀り(後略)」

(須賀川の稲村に移り住んだ人たちは、そのご先祖である豊城入彦命を祀りました。それが、この赤城神社です。) 

「我赤城神社は、当地の太守鎌倉幕府執事二階堂行村室町幕府関東管領奥羽探題稲村御所足利満直の祈願所となる。」


27-3 (二階堂行村は、鎌倉幕府の官僚です。碑文から当地の領主であったという事が分かります。戦国時代にも二階堂氏が此の地に盤踞したということのようですが、そのつながりについては、よく分かりません。)

(足利満直は、稲村御所の主で、関東管領(関東公方とも言う)三代目満兼の弟にあたる。碑文では、満直が稲村御所としているが、やはり兄弟の満貞がそれにあたるとしている文献も有り、定かではない。石碑は、昭和六十二年に建立されているので、その時点での見解なのかもしれない。よく分からないところである。)

・ 設立から、稲村御所は30年ほど、篠川御所は40年ほど維持されたようである。篠川御所は、周辺の諸氏に攻められ、滅ぼされたという。やがて時代は戦国と呼ばれる争いの時代に推移する。

・ 最後に、豊城入彦命について。命は、崇神天皇の皇子とされています。十代目に至った天皇家は突如として外へ向かって攻勢に出ます。それが四道将軍の派遣で有り、豊城入彦命の北関東派兵なのです。しかし、何故この時期に奈良大和から一気に全国区へ躍り出ることができたのでしょうか。豊城入彦命の存在も、この謎を解くための一つのヒントです。私は、「近畿大戦」と呼んでいますが、後日詳述することをお約束しておきたいと思います。


3 福島二本松が生んだ朝河貫一

・ 以前「君が代は日の丸で歌われる」で少し触れたことのある朝河貫一博士は(以下朝河)、現在の福島県二本松市の出身です。私には彼について語る資格は何もないのですが、先のシリーズで入来と多少の接触を持ったことから、ここで話題にしたいと思います。

・ 二本松藩(丹羽家)は、幕末、十万石余の領域を有していました。戊辰戦争では、政府軍に反して戦い、敗北・落城します。朝河の父も従軍していたということです。

・ 朝河は、明治6年(1873)生まれ。福島の中学校を卒業し、東京専門学校(現在の早稲田大学)に学びます。さらに、アメリカに留学し、エール大学に学び、そこで教職に就きます。明治という時代を考えても、渡米の困難さは容易に想像できますが、朝河の強い意志と周囲の援助があったればこその壮挙であったということができると思います。明治28年(1895)の事だったそうです。

・ その十年後、日露戦争の講和が行われたポーツマスでは、市民オブザーバーとして、会議の進行に関与していきます。この活動は、アメリカでは高く評価されていますが、日本では全く取り上げられていません。私も評伝を読むまでは知りませんでした。歴史上そうしたことはよくあるわけですが、残念です。野に遺賢なしという姿勢がありありと見えます。

・ 朝河の代表的な著述として、入来文書の研究が挙げられます。現在の鹿児島県薩摩川内市入来に伝わる文書群を研究し、日本の封建制を明らかにしました。それは、西ヨーロッパと比較研究を行い、その異同について言及しています。詳しいことは、市販されている書物もありますのでご覧ください。

・ 朝河は、「大化の改新」を始めとして幾多の論文において、歴史の真実に迫ろうとしています。また、平和を希求する彼の魂は、昭和天皇へのルーズベルト大統領親書案を書かせています。ほんの一部しか紹介していませんが、朝河の歴史学、平和学に於ける貢献は、まさに巨人と呼ぶのにふさわしいものです。

・  しかし、日本において朝河は全くといっていいほど知られていません。朝河によって白日の下にさらされた 真実を、都合良く思わない勢力が、朝河の業績を無視し、人々に伝わらないようにしているとしか思えません。私はそれに少しでも触れることができたのは、幸 福であるといえるのかもしれません。悲しいことですが。私にできることは何かということを見つめ、これからも精進していくことだと思います。


4 おわりに

・ 福島横穴見聞録というのに、全然横穴が出てこないじゃないかという声が聞こえてきそうです。次回は、横穴について記し、福島編を終えたいと思います。これで失礼します。


27-5

入来の事について再度触れてくれてありがとう。

これからもよろしく頼む。

二度目の登場 薩摩川内市入来麓のいつもいそがしいネコより