東陲ネンゴロ庵

東陲ネンゴロ庵

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ネンゴロ序文
 小さい頃からの歴史好きが高じて、五十を越えた今でも休みを利用して山野を彷徨している。もういい加減に止めたらどうかという声にも耳は順(したが)わない。見たい、聞きたい、調べたいと思って長い年月ただひたすら歩き続けてきた。ところが不思議なことに、これまで頭の中でそれぞれ独立していた様々な知識が、少しずつ手をつなごうとしている。仲良く懇(ねんご)ろに成りつつあるようなのだ。せっかくなので、皆さんに知らせてそのつながりを楽しんでもらえたらよいなと考えるようになった。自分では面白いと思っているが、読んでくださる皆さんにはどうだか分からない。あまりに通説と違うので、立腹される向きもあるかもしれない。こんな風に考える奴もいるのかと寛大に眺めていただくようにお願いしたい。どなたかでも少しでも興味をもたれ、なにがしかの喜びを得てくださることがあれば、望外の幸せである。人の役に立つということになれば、生まれてきた甲斐もあったというところである。

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032 東陲ネンゴロ庵

 「神武は日向から東征したのか

            を始めるにあたり

 

1 はじめに

・ ネンゴロ庵、庵主後聞です。今回から、「神武は日向から東征したのか」と題してお送りいたします。神武は始め、「ワカミケヌ」とか「サヌノミコト(さののみこと)」とか呼ばれていました。その後、大和に至り、住んだ場所から「イワレヒコ」と呼ばれたようです。そして、尊称として「カムヤマトイワレヒコ」となり、ついに神として祭り上げられることになったのでした。

・ 最後には、始祖王ということから、「」という名前の上に「」まで付けられて、「神武」と成りました。

・ 中国では、王朝の始祖を武王、武帝と諡(おくりな)したことが知られています。前漢の武帝(劉邦)や後漢の光武帝などが、それにあたるでしょうか。神武もそれに倣ったのだろうと考えられます。なお、
武以外にも、高祖や太祖などを使用する例もあるようです。それらについては、この稿とはあまり関係がありませんので控えたいと思います。

・ また、武王の父、つまり先代は、文王と呼ばれることもあるようですが、神武の父は、「ウガヤフキアエズノミコト」ですので、この例には含まれないようです。このことにも後に触れることになります。

・ それから、、神武や第十代の崇神天皇を「ハツクニシラス」、つまり初めて国を治めたとしたのも、秦の始皇帝(しこうてい)に倣ったものではないかと考えられます。始皇帝は、いわゆる戦国の七雄(七つの強国)を統一して、中国(華北、華中)を支配下に置きました。神武や崇神がどの程度の勢力であったのかということは、これから明らかにしていきたいと思います。「ハツクニシラス」だから、全国を支配したのではないかという方もおられると思います。果たしてそうでしょうか。様々な議論があると思います。私なりの考えを述べさせてもらいたいと思いますので、今後、ブログをご覧いただけたらと思います。よろしくお願いいたします。

・ なお、神武には、前述したように名前がいくつかありますが、混乱してはいけませんので、神武と呼ぶことに、このシリーズでは統一したいと思います。お断りしておきます。

 

2 どうして?孫と祖母なの?天孫降臨 

・ 下の写真は、長崎県対馬市小船越(こふなごし)にある阿麻氐留
32-1 (あ まてる)神社の鳥居に取り付けられた神社の名前です。以前は、ここがアマテラスの根元の地であるという議論がありました。しかし、天皇家のご先祖である神 がここにいるということは、いかがなものかという考え方が出てきて、アマテラスとは関係がないというように考えが変わってきたようです。

・ つまり、伊勢神宮にお祭りしてあるのに、ここがその原初の地であるとは、いかにもおかしいというので す。しかし、ご案内の通り、伊勢へはアマテラスは移ってきたということが言われています。しかも、途中で、丹後半島の付け根、天の橋立近くにある神社に一 時居られたということになっているのです。ここは、元伊勢と呼ばれています。そこへもどこからかやって来られたということになっています。つまり発祥の地 はわからないままです。それを対馬であるとする議論をすることさえはばかられているような状況にあるということが言えるでしょう。

・ さて、天孫降臨で知られるニニギノミコトは、アマテラスの孫にあたります。天をアマテラスとみて、その孫が降ってきたのですから、天孫降臨といわれるのです。

・ でも、不思議なことがあります。父親は一体どうしたのでしょう。もちろん、父親はいます。アメノオシホ ミミノミコトです。アマテラスとスサノオの「誓約」(うけい 神意をうかがう所作業)によって最初に生まれた正当な後継者なのです。もちろん、おばあさん の勢いが強く、一家を牛耳っているという状況は、まま見られることではあります。しかし全く外されているように見えるのはどうにも疑問です。

・ 私の結論としては、記録を著す者たちの手によってゆがめられたのではないかということです。つまりは、 オシホミミの存在を都合が悪いとする勢力があったのです。そのために、その影が目立たないようにされ、人々の記憶から消し去ろうとしたわけです。詳しくは 今後にご期待ください。

・ 下の写真は、長崎県壱岐市にある壱岐一宮である天手長男(あま
32-2 の たながお)神社の社殿です。延喜式に記された神社です。アメノオシホミミノミコトが主祭神となっています。社殿が新しく感じられると思います。詳しいこと は、今後考察していきたいと思います。江戸時代、壱岐島は、平戸藩領だったよう ですのでそちらの記録も探して、参考にしていきたいと考えています。

 

3 調査の余録

・ 半分に折れた墓石。これは、何だと思われますか。写真が小さく
32-3

すみません。よく見ると刻まれた文字は、
「賢翁宗臣居士」と読むことができます。場所は、長崎県壱岐市、勝本の湊の背後にある丘の上です。

「春霞 湊見おろす曾良の墓」

  作:後聞

・ ここに眠っているのは、松尾芭蕉の弟子で、「奥の細道」を共に旅した曾良なのです。70を過ぎてから幕府の役人と共に此の地を訪れ
客死したようです。当時としては相当な高齢になってから渡海して島を訪れた曾良。その詳しい経緯は分かりませんが、病床に伏し、ここで亡くなったそうです。元々の墓石を立て、背後には立派な標柱が立てられています。

・ 近くには、句碑も立てられています。「ゆきゆきて たふれ伏す
32-4 と も 萩の原」と書かれています。旅の途中、体調を崩し芭蕉と別れねばならなくなった心境が描かれています。加賀の国でのことだったようです。「腹を病ん で」とありますので、当時の衛生環境のことを考えると、食中毒だったのかもしれません。水が合わなかったのかもしれません。曾良は芭蕉と別れ、伊勢国の長 嶋というところの縁者を頼って療養に赴いたようです。私は壱岐を数度訪れています。曾良の墓もその時お参りしました。調査旅行の途中での邂逅ということに なります。この先も時々、お知らせしていきます。

 

 

4 おわりに

・ 今回は、新たなシリーズを始めるにあたり、先触れとして思いつくままに書き連ねました。この先、天の岩戸、天孫降臨の真実について考察していきたいと思います。それでは失礼します。

 

031 東陲ネンゴロ庵 「寝屋川鉢かづき伝説」下


1 はじめに

・  ネンゴロ庵、庵主後聞です。雨が降り続く季節がどうやら到来したようです。ネンゴロ庵も雨漏りが心配な ので、手入れをしなくてはと考えているところです。雨樋に落ち葉が詰まっているのも気になります。きれいに取り除いておこうと思っています。カビにも注意 が必要です。こまめに拭き掃除もしなくてはなりません。なんだかしんどいことになっていきそうです。気を取り直して、ブログに集中したいと思います。

・ 今回は、寝屋川を含む摂津・河内地域と初瀬姫の語源となった長谷寺を含む奈良県東部三輪地域について考察してみたいと思います。


2 大物主神と三島の溝杭

・ 奈良県東部桜井市三輪地域に鎮まりますのが、大神神社(おおみわじんじゃ)です。主祭神は、大物主神(おおものぬしのかみ)という神様です。大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名だといわれて
31-1 い ます。つまりは、大国主を祀る一族が此の地に盤踞して、勢力を広げていったと思われます。ですから、もともとは出雲の勢力であったと思われます。ご神体 は、三輪山そのもので、元々は社殿はなかったそうですが、後に拝殿が作られたということです。左の写真がそうだと思いますが、資料がうまく整理されていな くて、はっきりしていません。申し訳ありません。

・ さて、この大物主神が、ある女性と出会います。現在の大阪府島本町、高槻市、茨木市、吹田市、摂津市、豊中市等を昔は三島郡と言っていました。淀川北岸にあたる地域です。その地域の中心人物であった溝杭(みぞくい)という人物の娘、セアダタラヒメでした。諸本は二人の恋愛であったという風にとらえています。果たして、そういうことが現実にあったのでしょうか。男と女の間のことですから、何がどうなったかという事は分かりません。しかし、私は、政略があったと考えています。次にそのことについて考えてみます。


3 大物主の戦略

・ まず、奈良盆地内の勢力について簡単に見てみます。まず、東部には、三輪の大物主がいます。北西部には、物部の勢力があります。これは、元々は饒速日命(にぎはやひのみこと)と呼ばれる天孫が降臨してきた磐船神社が県境に存在し、奈良盆地北西部、大阪府北東部淀川南岸に勢力を扶植していたことが知られます。南西部は葛城の勢力です。

・  この三つの勢力があるときは戦い、あるときは連合して自己の保身を図っていたと考えられます。いわゆる 欠史八代(けっしはちだい)と呼ばれる天皇家の宮は、葛城であったり、大軽であったり、代替わりのたび毎に転々と移動しています。勢力の拮抗した地域の中 で生き残るために、必死にその立場を保とうとしていたことが想像されます。
31-2 ・そこで大物主は、物部の支配する向こう側、
淀川北岸の三島地域に目を付けます。其所の実力者が溝杭と呼ばれる人物でした。下の写真は、茨木市にある溝杭神社です。

5月の連休時に祭りが行われます。大物主は、溝杭と連合するために、親戚となるという方法を選んだようです。婚姻を結ぶという、古くから行われてきたやり方です。ターゲットは、娘のセアダタラヒメです。名前に蹈鞴(たたら)という、金属加工つまり銅や鉄の生産に深く関わる言葉を持っている姫です。そして、二人の間に生まれた娘が、ヒメタタライスキヨリヒメです。名前については、いくつかの説がありますが、ここでは詳述することは避けます。何故この二人 の姫は、タタラという名前を持つのでしょう。

・ 同じ茨木市内に、東奈良遺跡があります。ここからは全国で唯一銅鐸の鋳型が出土しています。ここが当時の一大工業地帯であったということが言われています。溝杭はこれと深く関わっていたことは議論の余地はありません。

・ 大物主は、つまり三輪勢力は、遠交近攻政策をとり、三島と連合を成し遂げたわけです。軍事力並びに金属加工の技術を手に入れ、奈良盆地内の自らの地位を安泰ならしめたものと考えられます。


4 堤根神社、茨田堤跡

31-3 ・ さて、神武天皇の后となったヒメタタライスズヒメ(溝杭神社での呼称)は、三人の子どもを産みます。

長男がヒコヤイ(ミミ)ノミコト。

次男がカムヤイミミノミコト。

三男がカムヌナカワミミノミコト。三男が神武天皇の跡を継ぎ綏靖天皇(すいぜいてんのう)となったとされています。もちろん諡(おくりな)である天皇名は、遙か後代に付けられたのだということはご承知の通りです。

・ ここで問題としたいのは、長男のヒコヤイノミコトです。上の写真は、大阪府門真市にある堤根神社です。ミコトを御祭神としています。近くに淀川の洪水を防ぐために造られた茨田堤跡(まんだのつつ
31-4 みあと)があります。此の地を開拓したご先祖として、ヒコヤイノミコト
が祭られているのです。古事記によると、ミコトは手島連(てしまのむらじ)、茨田連(まんだのむらじ)の祖(おや)と書かれています。母方の祖父は、前述したように、大阪府の淀川北岸を支配したと考えられる溝杭です。孫は、手島、茨田を治める連となったのです。それでは、この手島、茨田は何処を指すのでしょうか。


5 手島連、茨田連

・ 豊島(手島郡、てしまぐん)

池田市、豊中市、箕面市、吹田市にわたる地域です。

・ 茨田郡(まったぐん)

守口市、門真市、大阪府鶴見区、枚方市、大東市、寝屋川市にわたる地域です。

・ 私を含め大阪の地理に詳しくない方も多いと思います。簡単に申し上げると、豊島郡は、淀川流域で言いますと、その北岸であり、三島郡と隣接し、下流側になります。茨田郡は、淀川南岸になります。

・ つまりどういうことかというと、三島の溝杭の一族は、孫の代にいたって、現在の大阪府内にある淀川流域のほとんどを支配する大勢力に成長したというわけです。残りの一部である交野郡は、物部の支配する地域になります。

・ この話は、寝屋長者の話と通じるものがあります。寝屋長者の妻、鉢かづき姫の母親は、芦屋の長者の娘という設定になっています。

 この両勢力が結びついたとき、その強大さを不快に思う勢力もあるのではないでしょうか。そのために、寝屋長者も滅びていくという筋書きが其所に見えてくるように思います。単に姫の物語と言うよりは、盛者必衰のことわりを表すという名文句がふさわしいようには思えます。


6 おわりに

・  3回にわたって、寝屋川鉢かづき姫伝説について考察してきました。今後に続く伏線という意味も持たせた いと思っています。三島の溝杭一族がその後どうなっていくのかということも宿題として残しておきます。次回からは、このブログで書きたいと考えていました 内容に入っていきたいます。まずは、天の岩戸伝説の解明から始めます。筆がだんだん遅くなっていますが、痛くない程度に鞭を当てながら、精進していきたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。これで失礼いたします。

030 東陲ネンゴロ庵 「寝屋川鉢かづき伝説」中

 

1 はじめに

・ ネンゴロ庵、庵主後聞です。5月も下旬となり、昼間は随分気温が高くなってきました。それに比べて夜は 肌寒いほどです。風邪を引かないように気をつけていますが、季節の変わり目は体調を崩しやすいので注意が必要です。何とか乗り切り、梅雨や暑い夏に負けな いように備えたいものです。ブログを充実したものにできるように、精進していきたいと思いますのでよろしくお願いします。今回は、鉢を頭にかぶるということが何を意味しているのかについて考察したいと思います。

 

2 鉢かづき姫について

・ 京阪本線寝屋川市駅前にある案内地図と姫の像です。ベンチに腰
30-1 掛け、訪れる人をにこやかに迎えています。その様子からは、自殺未遂まで精神的に追い詰められた人という印象からは離れているようにも思えます。まあ、深刻に思い詰めた状態の面貌で、人々が多く集まる場所に展示するということもためらわれることではあると思 います。 

・ さて、姫に付けられている名前「かづき」とは何なのでしょうか。資料を読むまでは、鉢を担いでいる、「鉢かつぎ」ではないかと思っていました。しかしこれだと、肩にかつぐ、背負うというような意味になってしまいそうです。頭にかぶっているという意味には取れなくなってしまいます。

・ 辞書によると、かづき(被衣)「昔、外出するとき、女性が頭からかぶった単衣(ひとえ)の衣服」とあります。そういえば、時代劇などで女人が顔を隠すために、頭からかぶった薄い衣を見た記憶があります。そして、「かぶることを古語でかづく」というともあります。

・ それではここで、臨終の床にあった母親によって鉢をかぶせられたときの様子を見てみましょう。

 「母上は涙をぬぐって、そばの手箱からものを取り出し、何を入れられたのやら重そうな包みを姫の髪の上にのせ、肩がかくれるほどの鉢をかぶせられて、(後略)」

  (寝屋川の民話鉢かづき 24ページ)




30-2 つまり、頭の上には包みが乗せられており、それを覆い隠すように鉢がかぶせられているというわけです。鉢の大きさは肩が隠れるほどであったとあります。この状態では、顔が見えないということになります。武士や僧侶がかぶる笠と同じようなものと考えれば、それに近いものと思われます。

・ 街角に像を置くとすれば、やはり表情が見えた方が良いでしょうから、上の写真にあるようになるのだと思います。その方が人々も安心してながめることができるでしょう。しかし、実際には全く顔が見えないどころか、肩先まで及んでいるということなのです。昔の話だから、そういう不思議なこともあったかもしれない。作り話だから、どういうことでもできるさ。でも、これがフィクションでなかったとしたらどうでしょうか。果たして本当に鉢をかぶったまま生活できるのでしょうか。普通に考えても、髪を洗ったりすることはできないでしょう。実態はどうなのでしょうか。

 

3 頭が重いという症状?

・ ここで、姫の生い立ちを簡単に記しておきます。

・ 両親が、大和国の初瀬寺(長谷寺?)の観音様を深く信仰する。

・ 観音様が現れ、家が滅ぶこと、女の子を授けること、媛が14才になったら宝物をいただかせて、鉄鉢を上へきせるべきこと、少しの間辛抱したら、良縁が結ばれることなどを告げられる。初瀬姫と呼ばれる。

・ 幼い頃から、手習いを始めたが見事な文字を書き、歌、琴などの
30-3 諸 芸は、名高い師匠を選んで習った。十二の時には、詩歌・管弦に優れ、香をきき、茶の湯に通じていたという。顔かたちは、小町や衣通姫(そとおりひめ、衣を 通して、その美しさが輝いて見えたという姫、古事記所収)といってもこれほどではないだろうと、人々がささやくほどであった。

・ 母親の病気平癒を初瀬寺の観音様に祈る。

・ 肩が隠れるほどの立派な鉢をかぶせられる。

・ 母親が亡くなる。

・ 後妻が迎えられる。始めは良かったが、だんだん本性を現し、姫につらくあたるようになる。

・ 後妻は、屋敷から良識ある人々を追い出し、味方になる人間だけを置くようになる。姫について讒言を行い、父親からも嫌われていくようになる。

・ ついに家を出ることになる。川に飛び込んで死のうとするが、鉢
30-4 のために沈まず、生きながらえる。(前記資料より)

・ これらを見ると姫がいかに
逃げ場がなくなっていったかが分かる。母の死、義母による虐待、父親から嫌われ、周 囲の人々から疎んぜられ、もうどうしようもなくなっていったことが分かる。

・ 左の写真は、市立図書館に ある姫の掲示です。家を出たときの様子でしょうか。高貴な姫とも思 えない服装です。ここではどういう表情なのか描かれてはいません。

・ ここまで考えてくると、姫は精神的な病気になっていたのではないかと考えられます。追い詰められ、身の置き所もなく、頼るべき人もいない。安閑としていられる人は、まずいないでしょう。

 

4 鉢はかぶっていなかった。

・ さてここで不思議な提案をいたします。姫は鉢をかぶっていなかったのではないでしょうか。

・ 何を今更。鉢をかぶった姫のことだとばかり思って、話を読んできたのに、一体どうなっているんだ。そういう怒りの声が聞こえてきそうです。

・ 鉢をかぶったように頭が重いという症状があったのではないでしょうか。苦しみ抜いて、精神的に疲弊し、頭が重く、つらくて仕方が無いという事です。先ほどからくり返しているように、姫は邪魔者として周りから攻撃され、打たれ続けているわけです。そのまま長者屋敷にいるならば、生命の危機に陥りかねません。だから、退去するという手段をとったわけですが、行く当てはありません。死ぬことにも失敗しました。

・ 精神的に苦しくて、頭が重く、鉢をかぶっているような感じになったのではないかと考えます。それが、鉢かづき姫伝説となったのではないでしょうか。

 

5 おわりに

・ 以前、「三好長慶」ついての資料を読む機会がありました。信長の前代、近畿を支配した武将です。合戦に次ぐ合戦、次弟の戦 死、三弟は自ら手にかけるという、戦国時代ならではと言えるその生涯から、最後は、うつ病となり、命を絶ったのではないかという論説に接しました。このこ とから鉢かづき姫についてもイメージしました。

・ 次回は、長谷寺と寝屋の関係について考察したいと思います。