Ⓒ五等分の花嫁/春場ねぎ

 

102話、104話、106話…

そして、108話でおそらく四葉も風太郎とキスするであろう。

という流れの中で、110話で五月も風太郎にキスするであろう。

という流れだと理解ししているが、

 

Ⓒ五等分の花嫁/春場ねぎ

 

おそらく風太郎の入院した時のお見舞いをリスペクトして、

倒れたのは五月で、風太郎のキスは病室で行うのだろう。

というシチュエーションも予想しているのですが、

風太郎に対する五月の感情が"信頼"→"好意"→"恋慕"の段階で言うと

未だに"信頼"と"好意"の間を行ったり来たり。

他の4人の程、強い恋慕の想いに至っていない気がする。

 

Ⓒ五等分の花嫁/春場ねぎ

 

思い当たる可能性が、五月の変化。

本来この様な無邪気な言葉遣いだったのが、

 

Ⓒ五等分の花嫁/春場ねぎ

 

Ⓒ五等分の花嫁/春場ねぎ

 

母親の死をきっかけに、母親の性格を模倣し続けている。

つまり本心を表に出していない。

実際、二乃に「母親の代わりを演じている」と指摘されていますからね。

五月の振る舞いは、本来の性格ではなく、

母親の模倣をしているだけ。

だから、風太郎に対する気持ちが不可解なのは演技と本心の齟齬が

支離滅裂な行動に表れているのでしょう。

 

Ⓒ五等分の花嫁/春場ねぎ

 

奇しくも五月の本心を引き出したのは、零奈という架空の人物の存在。

普段の五月が母親を演じているので、

逆に零奈という架空の少女を演じる事で

五月は本来の自分を表に出す機会を得たのでしょう。

 

Ⓒ五等分の花嫁/春場ねぎ

 

皮肉にも、他人を演じる事で、母親を模倣しない"本当の自分"で

風太郎と接する事が出来た事が五月にとっての"解放"だったのだと思います。

正直、10代の女の子が教師の母親の厳格さを模倣をするのは疲れると思います。

 

Ⓒ五等分の花嫁/春場ねぎ

 

五月もそれを自覚したいるのでは無いでしょうか。

大好きな母親を演じる必要のない本来の自分を晒せる機会に甘んじてしまえば、

自分が好きな母親の事を"重荷"と感じている自分が許せなかったのでしょうね。

最初の零奈の時に「もう君に会えないから」と言ったのは、

5年前の女の子に囚われ続けている風太郎の開放と同時に、

本来の自分を解放できる機会を得た事で、母親を模倣し続ける事を辛いと感じ始めている

自分を戒める言葉の様に思えます。