出典元は不明で確認出来なかったのですが、ヨーロッパには『ストーン・キャット(石の猫)』と呼ばれる寓話があるみたいです。
検索で色々と渉猟してみると、どこに書かれてあるのも、内容だけでなく文体までも概ね同じです。
筆者なりに少しばかり文体を変えて、以下の通りにこの寓話を書き記してみました。
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【開始】
ヨーロッパのとある古い教会では、祭壇の上に猫の石像が設置されていて、神父や修道士、そして一般人までもが、その石像を神聖なる存在として拝んでいた。
通常の神への祈りの他に、その石像にまで祈っていた。まるでその石の猫もまた神であるかのように。
しかし何故そのような状態になったのか、その由来や経緯を知る者は、一般人はおろか、その教会の聖職者たちでさえ誰一人知らなかったという。
そもそもの起こりは、実に他愛もない事であった。
起源はその教会の初代神父が猫好きだった為、教会で野良猫を飼っていた事に始まる。
神父が礼拝堂で御祈りを捧げる時に、その猫がよく悪戯をしたりして、度々祈りの邪魔をしていた。
そこで神父は礼拝の最中だけは、猫を祭壇の脚に紐で結び付け、動けないようにしていた。
やがて初代神父も死んで、後を継いだ二代目神父も同じようにした。
祈りの最中に限り、先代(初代)同様に祭壇の脚に猫を結び付けて動けなくした。
そしていつしかその猫も寿命で死に、二代目神父が新たに別の猫を飼うようになった。
そして同じく礼拝中だけは邪魔にならないよう、祭壇の脚に結び付けていた。
三代目神父も先々代(初代)・先代(二代目)に倣い、同じく自分で新たに猫を飼い、同じく礼拝中だけは祭壇の脚に結び付けていた。
しかし四代目神父にもなると、当人は猫が好きではなかったので、歴代神父とは異なり、猫を飼おうとはしなかった。
とは言え歴代神父たちが続けて来た事だからと、自分の代で跡形もなく止めてしまうのも何だか、と気が引けた。
そこで四代目神父は手が掛からなくて済むよう、生きた猫の代わりに、彫刻家に猫の石像を拵えさせた。
そして歴代神父に倣い、その猫の石像を祭壇の脚に紐で結び付けた。
五代目神父の代にもなると、その石像が何故礼拝堂にあるのか、その由来や経緯が全く分からなくなっていた。
五代目神父は何かと邪魔になるからと、石の猫を祭壇の脚から上の方へ移動させ、その後はずっとそのまま放置した。
六代目神父は先代(五代目)が祭壇の上に置かれた猫の石像を拝んでいた事に倣い、自身は通常の神への祈りに加えて、その石像にも祈るようになった。
先代は単に邪魔だったから祭壇の上に移動させたに過ぎず、別に石像を拝んでいた訳ではなかったのだが、他者からは恰もそれをも拝んでいるように見えたからである。
そうして六代目以降は今に至るまで代々、猫の石像が教会の神聖なる存在とされ、神父や修道士たち聖職者だけでなく、多くの一般信徒からも崇拝される対象となった。
しかしそうなっても、何故猫の石像が創られ、祭壇の上に祀られて神聖化されるようになったのか、その由来や経緯を知っている者は、一般信徒は元より教会関係者でさえも、誰一人としていなかった。
【終了】
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以上が『ストーン・キャット(石の猫)』の寓話の内容です。寓話ですからきっと実話ではなく創作話だろうと思います。
ただいつの時代に誕生したのか、誰が最初に創ったのかは判りませんが。
そしてこの寓話のように、守り続ける価値もない無意味な習慣に束縛されて、思考停止状態に陥っているケースは、現実世界にはよく見られる事でしょう。
この寓話は主に、ビジネスの世界でよく引き合いに出されてるみたいですが。勿論ネガティヴな意味合いとしてです。
現在でも有効に機能しているかどうかを吟味検討もせず、単に古くから続けられて来た習慣というだけで、惰性に任せてダラダラと無意味な事を続けている時の批判としてこの寓話は使われます。
要するに昔から続けられている事柄でも、それが現在でも守り続ける意義があるかどうか、現在もそれが有効に機能しているかどうかを、よくよく吟味検討すべし、となるでしょうか。
そこを何も考えずに、ただ単に「昔からそうだったから」というだけの安直な理由で、惰性的にダラダラと続けるべきではないとなります。
一般的に思い浮かぶ「ストーン・キャット」の例は、昭和の頃までは主に体育会系で当たり前に行われて来た、「練習中の飲水禁止」とかいう、凡そ人間の生理現象を蔑ろにした「愚行」と呼べる慣習でしょうか。
少し検索してみたら、👇の記事がよく考察され、纏められているので、時間があれば詳しくは👇を覗いてみて下さい。
【「運動中に水を飲むな」という昭和の教育は日本軍起源説は本当か?】
https://note.com/dragoner/n/n15f9b8475593(👈をクリック)
その他探せば色々あるでしょうけど、他に思い浮かぶ例としては、「車検」なんかもそうでしょうか。
車検は二年に一度、定期的に必ず実施されるものですが、安く済んでも一度に十何万円もかかるから、筆者に限らず大多数の人々が腹の中では「勘弁しろよ・・・」と思ってるのではないかと。
本当に車検の前後の時期はいつも、出費の事で憂鬱な気分になります。
そもそも「二年に一度」という現行の制度がおかしいと思います。期間が短過ぎるだろうと言いたいです。
これは恐らく昔の名残だと思えるのですが・・・・つまり製造される自動車の品質が良くなく、故障が多かった時代の基準を未だに適用しているからではないのかと推測しているのですが。
すなわち昔は故障が多く、長期間放置するのは危険だったから、二年に一度の短い期間での点検が必要だったのではないかと。
しかし現代の我が国の自動車の品質は、世界一となってから既に久しく(何も自動車に限った話ではありませんが)、世界中からの絶大な信頼を寄せられているのです。
世界中の人々からは、「日本製自動車は故障自体が限りなく皆無に近い」「いつまでも乗っていられる」と専らの評判です。
ならば現代の基準に当て嵌めれば、技術や品質が昔とは比較にならない程進化した事で、たった二年以内で不安になるような要素も見当たらなくなった以上、車検も二年に一度どころか十年に一度の頻度だって良さそうなものです。
勿論料金だって今よりも下げて、我々の負担を減らしてもらいたいです。
例えば車検を行う業者に対して補助金を支出するとか、我々が毎月支払ってる自動車保険に、車検費用とかも紐付けたりして、そこから車検時の料金を賄えるように法改正するとか。
そして詳細に論じるのは控えさせてもらいますが、昨今改正された種子法・種苗法も「ストーン・キャット」と化していました。
既得権益を侵害された層や、無知で思い込みの激しい層が、内容をよく吟味検討もせずに、空騒ぎをして難癖付けてましたけど。
他に思い付くのは、会社で書類にハンコを押す欄が無駄に多い事とか、形骸化していて全く機能してない無駄な会議を繰り返しているとか。
百歩譲って、お役所とかならまだ分からなくもないけど、民間企業でそうなのは如何なものかと思います。
とまあ、これらの他にも「ストーン・キャット」は日常のあらゆる所に潜んでいると思います。
「岡目八目」とも言うように、第三者なら割かし気付き易いですけど、それに囚われている当事者にとっては、死角に入り込んでいて見えなくなってるのだろうと思います。