よく聞く「無礼講ぶれいこう」という言葉。その意味は、
「身分や地位の上下関係や、堅苦しい礼儀等を気にしない宴会、酒盛り」
となる。
今でもあるのかどうか知らないが、よく聞く話が、同じ会社内の社員たちの飲み会・宴席等で、その場にいる者たちの中で一番の上長が、
「さあ、今日は無礼講だ。堅苦しい礼儀とか、普段の上下関係なんかは、ここでは一切抜きにしよう。」
などと言って、場の雰囲気を和らげ、開放的にしたりする。
それでその台詞を文字通りに受け取り、上司や目上に対し、調子に乗って・・・・
💀タメ口を利く
💀呼び捨てにする
💀まるで友達みたいな狎れ狎れしい態度を取る
💀「ハゲ」だの「デブ」だの何だのと、無礼な暴言を吐く
💀諸々の蛮行を働く
等々の、文字通り本当に礼儀を無視して、目に余る振る舞いをした結果、次の日から惨めな思いをする羽目になる者もよく現れるとか・・・・
筆者はこれまでそういう光景を、現実に目撃した事はないので、噂で聞くばかりなのだが。
そしてそういう話を聞く度に、
「何だよそりゃ!?言ってる事とやってる事が違うだろ!!
無礼講とか言いながら、結局礼儀云々とかを持ち出すんなら、ハナから無礼講だなんて言うなよな!!」
と憤慨する者が多くいるとも。
けどそれは実際にそういう無思慮な真似をする手合いや、それに同調する手合いが、「無礼講」の意味を履き違えているだけに過ぎず、そのような批難こそお門違い・了見違いも甚だしい。
そんなのは無礼講でも何でもない、単なる「無礼」に過ぎない。
だからそんな軽率極まりない真似をして、竹箆返しを喰らう羽目になったからと言って、それは寧ろ自業自得というものであり、同情の余地はない。
そもそも「無礼講」という字面だけを見て、軽率に「あらゆる無礼を働いても許される集会」などと早合点すべきではない。
無礼講とは読み下すと「礼講無し」となるので、意味の切れ目はあくまでも「無/礼講」であって、決して「無礼/講」すなわち「無礼な講」ではない。
そこを勘違いしているからこそ赤っ恥を掻くのである。
「礼講」とは元は神事の「直会なおらい」の事だそう。
直会とは神道の祭祀の儀式の最後で、神饌しんせん(神様に捧げた食物)や御神酒おみきが、御下がりとして参列者たちに振る舞われる。
その時に上座に位置する者(すなわち参列者の中で序列が最上位の者)から始まり、それらを序列順に飲食して行く。
すなわち「神人共食しんじんきょうしょく」である。神饌や御神酒を頂く事は、神の祝福や御加護を授かるという。
これが直会(礼講)である。
ここまでが「有」礼講ならば、ここから先が「無礼講」となる。
礼講が終わり、序列とか仕来りとかの堅苦しい要素を気にせずとも良くなり、参列者の中で下座の者までもが自由に食したり飲み回しても咎められなくなる。いわば「二次会」である。
すなわち「礼講を無くす」からこそ「無礼講」だというだけであって、決して何でもかんでもやりたい放題の無法を働いたり、乱痴気騒ぎをやらかしても許される、無礼OKな集会だという訳ではない。
歴史に残る有名な無礼講の例だと、鎌倉時代末期にかの後醍醐天皇が、鎌倉幕府打倒を企み、密談を行ったのがある。
倒幕を目指して、鎌倉幕府に不満を持っていた公家・武士・僧兵たちを集めて謀議を凝らす時に、身分を気にせず忌憚のない議論を行う為に、後醍醐天皇は烏帽子や甲冑や法衣等の、身分を象徴するような衣服を脱がせて議論させたという。
すなわち本当の無礼講とはこういうものである。
あくまでも「礼講」を守らなくても良いだけであって、決して「最低限の礼儀・礼節」まで守らなくても良い訳ではない。
もしこの後醍醐天皇主催の謀議の場で、本当に無礼を働いたとしたら、その者は恐らく死罪になっていただろう。
故に無礼講でも普段通りの態度を保って、普通に楽しんでいればいいのであって、殊更羽目を外したり、馬鹿騒ぎをする必要など全くないのである。
と言うよりも寧ろ、そんな愚行は絶対に避けるべきなのである。
以上の事から、「無礼講だとか言いながら、ダブル・スタンダードもいい所じゃないか!!」みたいな、批判にもなってない頓珍漢な批判はすべきではない。
他に注意すべき事柄と言えば、以下の二点・・・・
一点目は会社の宴会や酒盛り等の会合で、誰でも勝手に無礼講を開ける訳ではない事。
「ここからは無礼講にしよう」と切り出せるのは、社長あるいは参加者全員にとっての上司といった、参加者の中で最上位の序列に位置する人物のみであり、それ以外の者が切り出すべき事ではない。
無礼講を開く理由は、その一番上の者が下位の者たちに気を使って、いつもの緊張を緩めさせ、明日からの仕事に向けて英気を養わせたり、ガス抜きをさせる事とか。
または皆の忌憚のない本心を知りたい、皆と親密に打ち解けたい、皆と一体感・連帯感を作り出したいからだとか。
だからこそ最上位者以外の者が勝手に切り出すのは、おかしい事になる。
二点目は「無礼講だなんて嘘っぱちじゃないか!」みたいな批難に対する反論の仕方だが。
反論したり諭す側が「無礼講」の由来をきちんと理解していないと、何とも煮え切らない、曖昧な回答しか出来ず、納得させるのに失敗するだろうという事。
無礼講について、
「この世に本当の無礼講など存在しない。
だから無礼講などというのはあくまでも建前に過ぎず、決して額面通りに受け取ってはいけない。」
みたいな主張を展開していた書籍や記事を、大分昔に目を通した記憶がうっすらとある。誰が書いたのかはもう記憶にないが。
残念ながらこういった物言いは全く頂けない。
生憎だがこれではあまりに頓珍漢であり、結局何の答えにもなっていない。
そもそも「あくまで建前に過ぎない」の、「建前」とは何ぞや?
一体何を指して「建前」と言っているのか?
もし「礼儀など不要」という意味で言っているのであれば、前述の通りの由来である以上、そのような「建前」など元より存在せず、的外れもいい所である。
なのでこのような主張をする者も、無礼講の由来や本来の意味を全く解っていない、という点において、軽率な勘違い屋たちと何ら変わる事はない。
それではそのような手合いを批難出来たり、笑えた義理ではない。
そういう短絡的な手合いは字面の印象から意味を勘違いしているケースが相場なのだから、まずは字面の意味の正しい切れ目を教える。
すなわち正しくは「無礼/講」なんかではなく、「無/礼講」だという事を。
そして直会(礼講)や後醍醐天皇の密議の例なんかを挙げて、
「元より無礼講には「礼儀を無視して構わないもの」という意味などない。
肩肘張らないリラックスした言動は許されても、明らかに礼節を欠いた言動は許されない。」
と教えてやればいい。
以上の事から、無礼講の意味を履き違えたお調子者が、本当に非礼な態度を取って来たら、「まあ無礼講だから・・・」などと無用の遠慮をする必要はなく、ガツンと遠慮なくカマしてやればいいのである。
とは言うものの現状、無礼講って本当に行われているのだろうか?そしてきちんと最低限の礼節は守られているのだろうか?
実際に経験した事も、目撃した事もないので、そこは何とも分からないのだが。