2014年3月に待望の三人目を授かるも、順調だったはずが9週で心拍停止。
その後、ひょっこり帰ってきてくれた赤ちゃんは、胎動にも上の二人とは違う個性があって元気はつらつだったのに、絨毛膜羊膜炎が原因で19週で陣痛がきてしまい、亡くなりました。私がもっと早く病院に行けば、元気に生まれていたのでは・・・。
その後、上の二人の子たちに何の不満もないのに、悲しみと自責の念から、なんとか赤ちゃんを再び抱きたいと願い、結果的に、連続5人の赤ちゃんがお空に帰ってしまいました。もう年齢的に限界かな?と分かりつつも、終わりのない後悔から抜け出したくて、ブログを書いてみることにしました☆彡
あまり更新できないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
なお、悲しくて眠れない深夜に記事を書いているので、とても悩みましたが、コメント欄は閉鎖させていただいています。お返事ができる状況になるまで、一方的な独り言になり、恐縮ですm(_ _ )m
悲しい夜中に少しずつ書き溜めているので、暗く長い文章になりがちで、お恥ずかしいのですが、私自身は、落ち込んでも起き上がる起き上がりこぼしです(*⌒∇⌒*)♪
2016年2月26日
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以下、長文ですが、ざっと、今までの経過です。
2014年3月、待望の3人目の赤ちゃんが9週で心拍停止。8週まで順調だったので、茫然としつつ、手術でお別れしました。
2014年9月。手術後すぐにやってきてくれた赤ちゃんは、19週で陣痛が来てしまいました。緊急入院して子宮収縮抑制剤の点滴を開始するも、真夜中に完全破水。完全破水した瞬間、終わった、と悟りました。このままでは母体に危険があるとのことで、よく分からないまま分娩となりました。
赤ちゃんは分娩台の上でも元気に動いていました。いきむように声をかけられるがまま、私がいきんで、おそらく臍帯や首を絞めて死なせてしまいました。エコーの画面で、赤ちゃんの心拍が途絶えたのをこの目で見ました。あの画面、あの時のこと、忘れられません。
病理の結果は絨毛膜羊膜炎。赤ちゃんには異常なし。私が死なせてしまったんだという気持ちです。悔やまれてなりません。
主人は発熱後の上の子たちと一緒に自宅で寝ていて、深夜に起こしたくありませんでした。あ、いや、先生に言われて何度も電話しましたが、主人爆睡、起きなかったんです・汗。
一人で分娩(死産)などをこなし、今になってやっと、「怖かった、心細かった、一人で不安だった」と思えるようになりました。
頑張らなくちゃ、しっかりしなきゃ、子どもたちの前で笑顔でいなきゃ、と自分に言い聞かせていたら、以後、泣けなくなってしまいました。人間、悲しい時には、泣きたい時には、きちんと泣かなければいけない、必要なことなのだ、と思います。
また、病院での対応の一部が、私の悲しみを増幅させました。
死産とはいえ、赤ちゃんです。お忙しくて人手不足なのは理解していますが、分娩台に赤ちゃんが落ちてしまいました。誰も受け止めてくれませんでした。「あらあら~、出ちゃった?」という軽い感じで、謝罪もありませんでした。担当医の先生は、入院中、ほとんど診察に来ず、死後は一度も来ませんでした。お忙しいのだと思っていたら、廊下で他の先生と談笑していました。ショックでした。ほんの少し、声をかけていただければ、気持ちが少しは楽に、あるいは紛れたかもしれません。
それに、急いで分娩しないと母体に危険だと言っていたのに、結局逆子状態の赤ちゃんの頭と肩が引っかかって、出てきたのは9時間後。その間、個室に戻って待機。
なんのために、深夜に一人でいきむことになったんだろう。母体が危ないと言われたから、とっさに、上の子たちのことを考えたのです。朝になって、上の先生も出勤して、上の先生に診ていただきたかった。主人と連絡できたら、まだ生きている赤ちゃんの可能性に賭けたと思います。
すべては結果論ですが、全然緊急ではなかったのではないか、と思ってしまいます。赤ちゃん、生きていたんだよね。私がいきんで、死んじゃった。朝になるまで、たっぷりすぎるほど時間があった。分娩の承諾書にサインするのを保留すれば良かった、よくよく考えられたかもしれないのに、などど、終わりのない問いがぐるぐる・・・。
助産師さん、看護師さんたちは良い方々が多かったです。でも、一部の先生は、残念ながら、言葉や態度の配慮に欠けていたと思います。
私も主人も対応に納得できず、セカンドオピニオン、サードオピニオンを聞いたうえで、病院の上の先生に説明を求めました。上の先生は誠実に丁寧に対応して下さったので、なんとか、ぎりぎりのところで、あの子が亡くなったことを受け入れることができました。
それでもまだ、担当した先生が違えば、最初の対応が迅速ならば、助けられたのでは、と思ってしまいます。質問していろいろ考えて、上の先生が当直であったとしても、あの子は助からなかったかもしれない、また、助けられても長期間の入院が必要で、上の二人に強いる我慢と主人の負担は、相当だったと思います。
あの子は、私達家族のために、喜びを与えてくれ、精一杯の孝行をして身を引いたのだと、友人が言ってくれました。
その後、心身ともに追いつかないまま、39歳だった焦りから、とりあえず不妊治療(タイミング法)を開始。
誰に何と言われようとも、私があの時ああすれば、あの子は生きていた、と思い込んでしまっていて、死なせてしまった子を呼び戻したい気持ちがあります。同じ子が戻ってくる訳ではないのは百も承知、でも、そうしなければ、生涯後悔し続けるんだろうな、と。
私が若ければ、今はゆっくりと上の二人を今まで以上に大切にしながら、心身を休めていると思います。無理がたたったのか、おそらく単純に年齢の問題か、その後も3回、流産を繰り返し、我ながら無理しているなと思います。
2015年2月 稽留流産 1ヶ月待つも赤ちゃんが出てこなくて、出血量が多くなること及び感染のリスクが高くなるとのことで、3月に手術でお別れ。
2015年10月 稽留流産 初期流産であり、子宮内膜をできるだけ温存するために手術は回避。1ヶ月待ち、進行流産でお別れ。
2016年2月 タイミング法の合間に40歳で自然妊娠。9週で心拍停止。手術でお別れ。心拍確認、エコーで動いている赤ちゃんを見た後のお別れは、つらいものです。でも、今回は涙一粒こぼしませんでした。この子は最後に、夢見せてくれたのかな、て。
つわりや流産前後の体調不良で、上の子たちに心配をかけ、我慢させてしまっています。それが良いとは思えません。なんだかもう解放されたい気持ちと、諦めきれない気持ち。抱え込んでいる死産の記憶を、出産で上書きしたいのかもしれません。亡くした子と同じ子は帰ってこないのにね。
こんなにこだわってしまうことになったいきさつや、これから少しのんびりしたい気持ち、今後の治療などを、気が向いた時にのんびり綴れたらと思います。
「適度に」、強くあらねばね。そして、前向きに!無理はせずに、以前みたいに思いっきり笑いたい!
私は今、目の前の幸せがかすんで、見失っているのだと思います。いずれにせよ、命って、当たり前じゃないですね、本当に。
2016年3月10日
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