ペリー再来までの 日本のドタバタ! | 破・常識カウンセラー あつしの挑戦!

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今日の 破・常識!


ペリー来航による 日本国民のドタバタ!


テラ(地球)が見ていた日本の歴史の真実! 105


今 はじめて明かされる明治維新の真実! 13


読者のみなさま

長い間 記事が更新できなくてすみませんでした。

前回の記事を書いてから この後 ペリー来航から明治維新にかけて

どう話を進めていいのか ずっと考えていたんですよ。

で、資料を読んで イメージしての繰り返しでしたぁ~~

とにかく 私がある程度 その時代について理解していないと

さくやさんに質問できないんです。

変な質問したら 「何が知りたいの?」って言われちゃうんです(汗)

と言うことで ちゃんと理解していないと さくやさんに質問できないし

取材できないと 新しい真実の情報を受け取れないし また 受け取っても

分かりやすく表現できないし・・・整理できなくて 大混乱でした~~・・

あはは 言い訳 言い訳^^;


特に この時代から明治維新までの間に 生きていた人々が

何を考え どのように行動していたのか??・・

そこのところをわかりやすく お伝えしようと思っているのですが・・

昨日 さくやさんと話をしててわかったことがありました。

この江戸後期から明治維新にかけて はっきりと日本の国の状況を

見極めていた人は ほとんどいなかったという事実!


ペリーの黒船来航により 今まで鎖国していた日本国民全員が 

今まで経験したことがない混乱の中で 生きていたということです。

国を治めていた幕府も 朝廷も 各藩の殿様も 当然農民 町人たち 庶民も

誰一人 日本の国が今どういう状況でこの先どうしたらいいのか?・・

はっきりした答えを持っていなかったのです。


では 江戸幕府の政治の中心にいた人々は 突然の開国要求に対し

どのように物事を進めていったのかと言うと・・

”何事も 事態を穏便にまとめる形”で対処していったと言うことです。

まぁ、日本人的発想ですよね。

ひとつ問題が起きると 穏便にどちらにも角を立てないような解決策を

考え実行する・・そのあと また新たな問題が起きると また穏便に・・・

その繰り返しで 日本の歴史が動いてきたのです。


ここに 外国勢との考え方の違いが出ているのです。

日本は イエス ノーをはっきりさせない国です。

外国は はっきりしないとダメな国々です。

ですから 日本的な”なぁなぁ”が 理解できなかったんですね。

このやり取りで ペリーたちは 結構イライラしていたそうです(笑)


とにかく 1853年のぺりーの黒船来航により 日本国内は混乱し それぞれの立場で

それぞれが動いたものですから 本当に訳が分からなくなっていきました。

たくさんの思想が出来 たくさんのグループが出来ました。

そのグループもまた固定したものではなく 流動的に離れたりくっついたりを

繰り返し 誰がどの考え方だかわからない状態でした。

が、しかし その混乱の中でも はっきりと目的を持って動いていた人たちもいました。

その人達は 日本の開国だけが目的だったのです。

なぜかというと イルミナティーたち外国勢力に いいように言われ

開国することで利益を得ることが出来ると踏んだ人たちです。

国のことなど、日本に住む人たちなど どうでもいい・・とにかく

自分たちの利益を優先と考える人たちでした。


今日 さくやさんに新事実を教えてもらいました。

ペリー来航の際の 江戸幕府の将軍は 第12代将軍 徳川家慶(いえよし)です。

家慶・・1853年 6月3日 ペリーの黒船来航により 幕閣がその対策に

追われる中 6月 22日に病のため死去。

享年 61。

暑気当たりで倒れたのが死の原因・・・

と 資料にありますが 実は 家慶は毒を盛られたそうです。


家慶は 11代将軍 家斉の次男として生まれ 45歳で将軍職を譲られた。

家慶は 趣味に生きた将軍で 政治を顧みないと評判が悪かったようで

家臣の意見を聞いても「そうせい!」と言うのみであったため 

「そうせい様」と呼ばれていた。

父である11代将軍家斉が生きている間 将軍としての実権がなく そうせざるを得なかった。

父の死後 家慶は庄内藩などに対する3方領地替えを中止するなど ある程度の

指導力を発揮・・・と 資料にはありますが そうではなかったようですね。

家慶は 父から譲り受けた将軍職を守りとおす思いが強かったのです。

自分の代に 江戸幕府(日本)がおかしなことになったら ご先祖様に

合わせる顔がない・・と思っていました。

ですから 日本を外国勢に開国するということは 真っ向から反対したのです。

外国勢のやり方もよく知って(勉強して)いました。

軒先貸して母屋取られる・・少しでもスキを見せると どんどん要求が

エスカレートしていく外国勢のやり方に対して きっぱりとした態度を

見せるべきだと主張していました。

家慶は 日本人的な ”なぁなぁ”が 外国には通じないこともわかっていたのです。


この家慶の態度が 気に入らない勢力も もちろん日本の中にいました。

開国することで 自分たちの利益を得ようとしていた商人たちは この将軍が

邪魔だと思ったのです。

そして その頃の商人たちは 下手な地方の大名たちよりも力(発言力)を

持っていましたから 裏で幕閣の役人とつるみ その役人たちを使って家慶を

排除したのです。

その幕閣が誰なのが はっきりしません。

歴史上に 名前が残っていない可能性もあります。


家慶のまわりには 土井利位、阿部正弘 筒井正憲ら 家老がいましたが

さくやさんの話では 直接関係はしていないそうです。

それぞれの 思惑はありましたが・・・


ただし 家慶亡き後 13代将軍を病弱な家定に継がせ そのまわりで

政治を動かしていた人間が絡んでいるのは間違いないと思います。


その頃 西郷どんは 25才

2年前に薩摩藩主となった島津斉彬に上書が認められ 斉彬の江戸参勤に同行することに

なりました。

いよいよ 西郷どんが江戸へやってきます!


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