上川内の3号線を高城の方へ右折する角に今は無き名店「精養軒」があった。
味の詳細をコメントするほどの記憶力はないが、
おばちゃんの作っていたラーメンは未だにラーメン評論家の僕の、ラーメンベスト5に入っている。
右折すると妹背橋まで長~い一本道(中道)が続いていた。
レーコーが川高の制服を着てチャリを懸命に漕いでいた。
セーラー服が良く似合う可愛い女子コーセーのレーコーはあの頃間違いなく
バージンだった
僕達は時々、並走しながら近況などを話し合った。
妹背橋を過ぎると今度は天下の険「ツヤマン坂」が立ちはだかっていた。
「ツヤマン坂」を夜に通ると落ち武者の霊が出るとの噂があった。
昔チャリで通るととてつもない急坂に見えたものだが。
坂を降りきった所にタッカーオの家があり、イークやユタカスキーの家が続き
今は無き 名門 「高城東中学校」 があった。

名門「高城東中学校」は丘の傾斜地に建てられた陽当たりの良い学校だった。
細い山道を登っていくと品の良い小さな図書館があり、紅梅が咲いていた。
図書館から左側の細道を歩いて行くと体育館があり、その裏手には里山があって、
里山を右に廻れば小さな神社があり僕達の格好のサボり場だった。

モーリオ先生に竹箒の柄でケツを思い切り叩かれたのもここだった。
マエッソーノ女先生に泣きながら平手で頬を張られたのもここだった。
ヤッシーフクヤマやザキヤマやカツノリーノと出会ったのもここだった。
今は廃校になってしまったが、前を通るたびに切なくなる。

更に3kmほど北に進むと たけぞう生誕の地「城上」
写真は小さい頃良く泳いだ高城川の「やな淵」
少し大きくなると、上から川に飛び込んで度胸ためしをやる。
僕は足元が崩れて下の岩場に顔から激突して鼻がもげそうになり、連絡を受けた母
が猿渡病院に駆け込んだ。
母は僕の顔が縫い目だらけにならないように猿渡先生に頼んだ。
「母さん、ゴメン。僕の顔は縫い目があろうが、なかろうが、今となってはあんまり関
係なかった
」

昔はもっと川幅が広かった。
先輩達に泳ぎを教わり、魚獲りを習った。
天然うなぎやハヤなどが面白いように獲れ、夜には蛍が乱舞した。
あの頃よく一緒に泳いだカズヒローネは、現在は地元で評判の良いレストランの
オーナーシェフをやっている。
春になると田んぼにはレンゲソウが咲き乱れ、僕は幼馴染のサヨリーナとレンゲの
花で首飾りを作りいろんな話をした。


初恋を経験し、不良の真似事をし、僕達の多感な少年時代は過ぎた。
僕は田舎が飽き飽きしてた。
母には学校が終ったら必ず川内に帰ると言って都会に出た。
川内駅では母やノリーコー達が見送ってくれた。
僕は希望と野心とスケベ心に溢れていた。
この線路の向こう側には輝く未来とエロが待っていると思っていた。
電車は西方を過ぎ、阿久根を過ぎ、博多を過ぎ、そして現在の僕にたどり着いている。