12月15日の赤穂浪士討ち入りの日(旧暦12月14日)の翌日。
「熊本 走り納め」2日目は師匠とサイクリング。
坪井川沿いを走り、小野泉水公園、植木温泉経由から
山鹿の市街地をさらに進んで、
本懐後、義士たちは四大名(細川家、松平家、毛利家、水野家)にお預けになった。
その接待役の一人が「堀内伝右衛門」だった。伝右衛門は、義士たちに特別な思いを抱き、義士たちが切腹するまでの50日間、日夜その接待に全力を傾けた。
義士たちは、彼らの遺言により浅野家墓所泉岳寺に葬られましたが、切腹の日が近づくと、伝右衛門はせめて遺髪なりともと義士たちに願い出て、遺髪をもらい受けることになった。
現在も遺髪塔は地元の堀内組の方々に守り継がれいるとのこと。(ネットより参照)
日輪寺へ。
日輪寺の境内には、赤穂義士17士の遺髪塔がある。
本懐後、義士たちは四大名(細川家、松平家、毛利家、水野家)にお預けになった。
芝白金(現在の東京都港区)の細川藩邸にお預けになったのは大石内蔵助良雄を始めとする17士だった。
内蔵助らを預かった細川家では、それをたいへん名誉であると喜び、藩主綱利公自ら義士たちを出迎え「武士の鑑だ」と激賞した。
そして19人の接待役をつけ、藩主と同じ食事を用意し、書物、眼鏡、こたつ、風呂などのあらゆる待遇で義士たちをもてなした。
その接待役の一人が「堀内伝右衛門」だった。伝右衛門は、義士たちに特別な思いを抱き、義士たちが切腹するまでの50日間、日夜その接待に全力を傾けた。
義士の親族に手紙を届け歩いたり、義士たちの話しを聞いては、詳しく書きとめていった(堀内伝右衛門覚書)。
義士たちは、彼らの遺言により浅野家墓所泉岳寺に葬られましたが、切腹の日が近づくと、伝右衛門はせめて遺髪なりともと義士たちに願い出て、遺髪をもらい受けることになった。
元禄16年(1703年)2月4日、義士たちの切腹により接待役の役目を終えた伝右衛門は、遺髪を知行地である山鹿へ持ち帰り、菩提寺である日輪寺に遺髪塔を建て、83年の生涯を閉じるまで、遺髪塔を守り続けた。
現在も遺髪塔は地元の堀内組の方々に守り継がれいるとのこと。(ネットより参照)
日輪寺には、他にも「西南の役」時の薩軍のお墓もあり、色々と縁のあるお寺だった。
なんと、鹿児島や宮崎の一部にしか存在しないはずの「田の神さぁ」まで…(´・ω・`;)