12月15日の赤穂浪士討ち入りの日(旧暦12月14日)の翌日。
「熊本 走り納め」2日目は師匠とサイクリング。
久々に師匠のS-WORKSが登場(*´Д`*)ハァハァ・・
「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士関連の史跡が熊本にもあるとのことでご案内してもらった。
(ネットより参照)
坪井川沿いを走り、小野泉水公園、植木温泉経由から
ゆうかファミリーロードを走る。
国道3号線を福岡方面へ北に走り、
山鹿の市街地をさらに進んで、
日輪寺へ。
日輪寺の境内には、赤穂義士17士の遺髪塔がある。
元禄15年(1702年)12月14日の赤穂事件で、本懐を遂げた赤穂義士47士のうち、大石内蔵助良雄を始めとする17士の遺髪が納めらている。

本懐後、義士たちは四大名(細川家、松平家、毛利家、水野家)にお預けになった。

芝白金(現在の東京都港区)の細川藩邸にお預けになったのは大石内蔵助良雄を始めとする17士だった。

内蔵助らを預かった細川家では、それをたいへん名誉であると喜び、藩主綱利公自ら義士たちを出迎え「武士の鑑だ」と激賞した。

そして19人の接待役をつけ、藩主と同じ食事を用意し、書物、眼鏡、こたつ、風呂などのあらゆる待遇で義士たちをもてなした。

その接待役の一人が「堀内伝右衛門」だった。伝右衛門は、義士たちに特別な思いを抱き、義士たちが切腹するまでの50日間、日夜その接待に全力を傾けた。

義士の親族に手紙を届け歩いたり、義士たちの話しを聞いては、詳しく書きとめていった(堀内伝右衛門覚書)。

義士たちは、彼らの遺言により浅野家墓所泉岳寺に葬られましたが、切腹の日が近づくと、伝右衛門はせめて遺髪なりともと義士たちに願い出て、遺髪をもらい受けることになった。
元禄16年(1703年)2月4日、義士たちの切腹により接待役の役目を終えた伝右衛門は、遺髪を知行地である山鹿へ持ち帰り、菩提寺である日輪寺に遺髪塔を建て、83年の生涯を閉じるまで、遺髪塔を守り続けた。

現在も遺髪塔は地元の堀内組の方々に守り継がれいるとのこと。(ネットより参照)


日輪寺には、他にも「西南の役」時の薩軍のお墓もあり、色々と縁のあるお寺だった。
なんと、鹿児島や宮崎の一部にしか存在しないはずの「田の神さぁ」まで…(´・ω・`;) 
日輪寺を出てから、天ぷら定食の店「こだわり亭」でランチ。
海老天丼を頂いた。衣サクサク、海老プリプリで最高だった(´・∀・`)
ランチを終えてから、ゆうかファミリーロード経由で帰り、
途中、久々に寂心さんの大きなクスの木を見てから、
花園小学校の敷地内にある、赤穂義士17士が使用したと伝わる手水鉢を拝見。
熊本に赤穂浪士のゆかりの地があるとは思いもしなかった。勉強になったし、楽しかった(´ω`)

花園小学校の校門の紅葉も最高に綺麗だった。
師匠、今年も沢山ありがとうございます!

今年はこれにて「熊本ライド」は走り納め。

熊本のあらゆる場所へ行き、熊本の魅力をまた発見出来て良かった(´ω`)

老後に移住したいな…と思うくらい良か所。

また来年も熊本に行った際は満喫します!LOVE熊本!!
走行記録。