ある店に用事があって、しばらくして店から出てきたら、自転車の前籠に、飲みきった空のペットボトルにタバコの吸い殻が入たゴミが、ゴミ箱に捨てられるように捨てられていた。

こんなことをされた人は他にもいると思う。

自分自身は入れたことはないけど、入れられていたのは何度目かの経験である。

怒り心頭に発すという気持ちになった。

本人は、とうに消えている。

恐らく、自転車の持ち主が近くにいないのを確認して。ポイ捨てしていったに違いない。

捨てるところを見つけられたら、下手すると暴力沙汰に発展しかねない悪事である。

しかし、本人がいなくなってしまってはどうしようもない。

頭に来たから、となりの自転車の籠に入れた。

しかし、自分が出したゴミではないが、転嫁された方はいい迷惑である。

もしかしたら、私の籠に入るまでリレーされてきたゴミかもしれない。

ペットボトルだけなら、帰りのどこかの自販機の空きボトル入れに捨ててもいいのだが、タバコの吸い殻が入っていては、確か火がついてはいなかったと思うが、回収業者が迷惑だろうと思って、とりあえず、隣の自転車から出さないと、自分もゴミを捨てた人と同じことをしたことになると思って、あわてて籠から取って、近所には店がないし、駐輪場で起きたことだから、先に店を出た人がやったのだろうと思う。

自分が出したゴミではないからといっても、それを他の人の籠に入れたら、その人が捨てた人でなければ、いい迷惑である。

ついつい頭に来て、他の人の自転車の籠に入れてしまう人もいるのではないだろうか。

でも、それをすると、誰かがそれを自分の責任で処理するまで、やられた人全員がいやな思いをすることになる。

最初に捨てた人が、第一原因者だから悪いのはその人なのだが、それを自分の責任ではないからと、人にその責任を転嫁して同じことをすると、悪事は延々と続くことになる。

この人間の、やられたらやり返す。やられた本人が誰かわからないときは、自分も誰かわからない人にやり返す。

この連鎖が、人間社会の悲惨な現実が終わらない理由だと思う。

小さい問題から大きい問題まで、その根は同じである。

どこかで、いや自分に来た時に、そこで不幸の根を止めなければならない。

キリスト教の一派であるメノナイトは、徹底的な平和主義者で、兵役を拒否して、代わりに医師として戦場に行ったり、兵役の代替作業として公共の土木仕事を行う。

殴られても殴り返さず、正当防衛さえしない人もいる。

そのため、一方的に殴られて殺された人もいる。

しかも、その父親は、その日の内に相手の男の家に行き、「私はあなたを許します。」と言ったという。

私は、そのタバコの吸い殻の入ったペットボトルの始末に困って、結局店の店員に始末してもらおうと思って、邪魔にならないところに置いてきた。

残念ながら、家まで持って行って処分しようとまでは思えなかった。

そこまでできれば一番良かったんだが。

自分が悪いことをしないことは、ある程度気をつければできるけど、人に悪意を持った行為をされた時に、自分がどういう行動を取れるかで、その人の人間的な評価が決まると思うけど、なかなか難しい。

イエス・キリストも、右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさいとは言ったが、

いわれのない暴力を受けた時に、なぜあなたは私を叩くのか、私になにか叩かれるような理由があるなら、それを示せ。

そうでないなら、なぜ私を叩くのかと抗議した。

叩き返すことはしなかったけど。

やっぱり、一本筋が通っている人なんだね。

徹底的な、非暴力主義者だけど、ちゃんと不正に対する抗議はする。

非暴力・不服従のインドの聖人、マハトマ・ガンジーのようだ。