誰かにわかってもらえたとか

誰かのことを、理解できたとか

伝わったとか…




共感によって

癒されるのは

幻想だ。





それぞれが

自分という場所から

どう感じる?どう見える?

ということを

源に還った時に報告し合う。






だから

同じ出来事を

全く同じに捉え

全く同じ感情を感じる

つまり同じ周波数になる

ということは、ありえない。





完全な共感は

生きている限り、起こらない。






だけど、相手が


エゴキン度数が低い

×

視点ゲームで近い

(感じること、思うことが似ている人)


そんな人だと、


“自分の気持ちを

相手がわかってくれた”


“同じ気持ちでいてくれている”


と感じる。




そう感じると

自分の気持ちや感覚に

【許可】がおりる。





その【許可】によって

癒し(自分しか自分を癒せない)が

加速する。









だから

他人に共感を求めることは

【諸刃の剣】







自分の思った反応を

相手がしてくれれば

自分への許可は深まり、

癒しは加速する。



けれど

自分の思った反応と

全く違った反応を相手がすれば

許可は止まったり

ともすれば

自己否定や相手への攻撃に変わり、


当然のことながら

癒しなど、起こらない。







エゴキン度数が高かったり

自分と感覚が全然違う人だと、

そういうことが起こるのだ。








誤解されず、

感情全てをわかってもらうことなど、

絶対にできない。







だから


わかってもらいたい

共感してもらいたい


そんな気持ちになる時ほど

自分に寄り添う。





それが、癒しになる。


それしか、癒しにならない。








だけどそもそも

癒す傷など、あるのかな?




傷付いた?

傷付けられた?


それも、幻想。





悲しいことが起こった時、
それを直視するのが
苦しくて、辛くて

どうにかしたくて
外へ意識を向けたくなる。


何かを責めたくなる。
“悪者”が欲しくなる。






誰かを責めたり
誰かや何かのせいにしないと
自分を保てない

って無意識が
そうさせる。





だけど
そうしている時、
どんな気分かな?



【一致】してる?

あなたにとっての
【真実】からの行動だろうか?







誰かを責めて
何かを呪って
外側に意識を向けて

それをひと通りやって
落ち着いたら
内側に意識を向ける。




そうすれば
癒しが起こっていく。



というか、
傷などひとつもついていない、
“強い”という言葉すら弱いくらいの
“あなたの核”に気付くはずだ。








どんな時にも
私たちのやることは

自分の感覚に丁寧に寄り添う
ということだけ。










誰でもなく、
自分のため

自分の幸せのために。