以前、私の家のインターホンを鳴らして「この教え…。」などと話しに来た2人の女性がいました。

話の内容からキリスト教のプロテスタントではないかと思いました。

その方々は「このように私たちはボランティアで各ご家庭への訪問をしています。」と…。

私は耳を疑いました。

どう考えても「布教活動」であり、「ボランティア}ではないと私には思えたのです。

「ボランティア」という言葉が一般に知れ渡っていなかった昔は「宗教の話をするための訪問」は「布教」と捉えていました。

昔を知る私は「布教活動やん。何がボランティアやねん。」と心の中で叫んでいました。

私にとってのボランティアは「被災地」「高齢者」「障害者」に寄り添い助ける行動です。

直接助ける行動が私にとっての「ボランティア」なのです。

宗教の話をするために、そして出来れば信者になってもらうために行う活動は「布教活動」としか思えません。

 

私は長い間ボランティアをしていませんでした。

実質は出来ませんでした。

同居の姑の介護、夫の姉の自殺後の甥の世話、そして知的発達障害者の長男。

ボランティアをする余裕がありませんでした。

過去には身体障害者の方々へのボランティアをし、その方々に様々なことを教えていただきました。

ボランティアをすることで得るものは大きかったです。

 

先日、コロナワクチン4回目の接種後に診療所近くで、かつてのボランティア仲間に会いました。

ご夫婦でゆっくり歩まれていました。

高齢になり足がとても弱くなって、ご主人様は杖をついて、奥様は歩行器のようなものを使っておられました。

私は「通院などの時に電話をしてください。車を出します。」と話しました。

今日、私の家の電話番号を書いた手紙をお渡ししました。

とても喜んでくださり、「診療所、眼科への受診の前日に電話します。」と仰って安堵されている様子でした。

息子さんがいらっしゃるけれども同居ではなく、高齢のご夫婦だけの暮らしです。

子どもがいても離れて暮らしていては通院時に付き添ってもらえません。

「遠くの親戚より近くの他人」という昔からの言葉通りなのです。

私が「車を出しますよ。」と声を掛けられたのは、長男がグループホームに入所したことが大きいと思います。

長男が自宅に、高槻に戻ってきたら出来ないことです。

そうならないことを祈っています。

 

さて、私がこれからする行動は「ボランティア」なのでしょうか。

私にとっては「助け合い」でしかないことです。

何がボランティアなのでしょうか。

少なくとも何かの勧誘に繋がる行為は「ボランティア」ではありません。

私はそのように思います。