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闘病記つむつむ(22)トンネルに転がるがごとく進む⑧12歳の決断。


前話の振り返りと追加🙇‍♀️


やっと父がお店を辞めると決め、母に謝り、家に帰ってきました。


父は、お店の為に借りたお金の返済 をするべく、1日に複数の職場に通っていました。


朝早くから深夜まで。確か3つ掛け持ちしてたと思います。


 一方母は、文句言いながらも、工場の流れ作業を続けていました。


2人とも顔を合わせる時間が無い程、忙しそうでした。

けど、それは幸いな事でした。


母は父の事を、

心の底から「別れたい」ようでした。


父の事を、頭では何とか許してても

心は、許せなかったようでした。


なんで許せないのか

子供の頃の私には、よく分かりませんでした。


けど2人を見てて、気がついた事がありました。

母は、父の事を

「生理的に気持ち悪い。寄るな!」

と前から思ってたけど、その度合いが増していると言う事でした。


もっとも母の言動が、子供の

私でも分かるくらい、あからさまだったんですけどね。


例えば

「嗚呼!お父さん!汚い足のまま家に入らんといて!あー!家の中で上着脱がんといて!ホコリが舞うやん!汚い!」

とか。




「ああああ!お父さん!べたべた あちっちこっち触らんといて!」

とか。


「あああ!手ぇ洗わんと、ご飯食べんといて!おやかんに触らんといて!汚い!」

とか。

「あああああああ!しゃもじ使わんといて!

私がご飯入れるから、言ってぇや!」

とか。

「もう!お父さん!この部屋に入らんといてぇやぁ!!」

などなど。


とにかく父がする事なす事全部「あかん!汚い!」と叫んでました。

これで分からへん人はいないと思います。


私は見てて、父が可哀想に思えました。

それでも母が父を、毛嫌いするの

何となくわかりました。


多分···これ。父が借金や、お店にこだわった事から来るものではないように思えました。


もちろん母のお里代わりのお寺さんに、借金してるのに返せてないし、父がその謝罪に行けてないのも、母が怒ってる理由に含まれてるとは思います。

が、もっと根の深い所で、母は父を拒絶してるように、私には思えました。


そのきっかけは 弟が母に伝えた

「お父ちゃん、浮気しとったで」

と言う言葉だったのでは?👀💦

弟の言葉で、父が不貞をしたと、母が知ってしまった為かなぁと、私には感じました。

                                

とは言え、うーんと考えてしまう所も 私はありました。


実は私が物心付いた頃から。


いえ、つく前から 私はいつも母から


「お母ちゃんはな。お父さんと一緒に寝るの嫌やねん。昔っからずっと嫌やってん。

だってお父さん、お風呂あんまり行かへんかってんやん。

気持ち悪いやん。

だからあんまり寄らんようにしてたんや。

夜の事も嫌やから、断っててん。

そやのにお父さん、誘ってくんねんやんか。それがものすごぉー嫌でなぁ。

そやからお母ちゃん、お父さんに言うてん。

私の代わりに、他に女の人買ってもええから、私に触らんといてって」

と 何回も聞かされて育ちました。


夜の事とか、女の人を買うとか。

小さい頃の私は、分からなかったですが。


流石に小学高学年位になると

ドラマとか見てたら、何となくわかってきました。

『なんか···するんや、お布団の中で』

と言う事が。


なので、父が自分に触れなかったら 母は満足なんやろうなぁと、私は思ってたんです。

母は父に

「代わりにほかの女の人を買って」

って言ってたから。

けど。

そぅ言ぅた割に、実際それに近い(のかな?)浮気をされたら

母は、父を全く信頼できなくなり


さらに、生理的に

「気持ち悪いやつ」

になったようでした。


うーん。でも、やっぱり疑問です。


ずっと前から「私の代わりに他の女の人を 買ってもいいから」と言ってたのに、何故この時に父を、心底毛嫌いする様になったのか🤔


とどのつまり、

「他に女の人買って」

と勧めても、母は実際には、他の女性を買って欲しくなかったのかな?

だから嫌になったのかな?

と当時の私は「???」付きで思いました。


けど、そう言えば、母も潔癖症でした。


父の行動を知って、よけい父が汚く感じて。

とうとう受け付けられんようになったんかなぁ···と何となく思いました。


ちなみに私も、母と同じ潔癖症なので。

現在の私は、

「浮気だろうが、買うただろうが。他の人とそんなんされたら、そら気持ち悪くなるわ」と、母の気持ちをすんなり理解出来る様に思います。


けど、買ってええでって言うたんなら、実際にそうなっても文句言われへんと思うけど。

浮気と買うの違いやけど···。


うーーーーん🤔


私の場合は、どっちも嫌やなぁ。

母も同じ気持ちやったのかな?

けどまぁ···私なら。


強いて言うたら、心まで動きそうな浮気より

買うのんの 方が、相手もお商売やから、後腐れないからマシかな?

あ、けど性病移される確率は上がるな。

うーん、うーん🤔

そやけど他の人とそうなった体で、寄ってこられたら🤔🤔🤔


嗚呼、あかん!😱

私も 生理的に受け付けへんわ!と やはり思います。


なので、母も頭では許さなあかん···と思っていたけど。

それに経済的にも、子供2人いてて、自分に学歴がなかったから、父と別れては 生活が出来ないから、我慢したんやろなぁと思います。


我慢や!と思う反面、、母の心と体が父を

 どうしても父を受け付けなくなってる事に、おいおい気が付いたのかな?


てか、お店出す前からも その兆しはあって。

今回の事で、完全に父を受け付けられなくなったのでしょう。


この気持ちが、確固たる物になったのは

多分父が お店を引き払う直前やったと思います。

母はその事を、本能的に感じたんでしょう。

ゾワッ😰としたのかもしれません。


母の対策は素早かったです。

父が家に帰ると決まった途端

母は私に、2段ベッドではなく、自分の横に寝ようにと言いました。


さらに、簡単な作りでしたが、引き戸に鍵をかけました。



そして。

念の為、私を引き戸側に寝かせ、肉の壁としました。


以後母は、2度と父と同じ寝室休む事は無くなりました。



母は

「それだけな、お母さんは傷つつけられたんや」

とよく漏らしていました。


そんな母の心の様子を、当時から敏感に感じ取ったのは、弟でした。

弟は母に

「あんな男とまた暮らすの?別れたらええのに」

とはっきり言ってたそうです。



母はその言葉に感激してました。

毎晩の様に色んな所に電話かけて、父の悪口とともに、弟の言葉を伝えては。

「〇ちゃんは私をよう見てて、優しいんですよ。私の事を思って、そう言うたんです。それに引き換え薔舞香は···なんも言わへんのです」

と長電話してました。


私は比べられるのも嫌で顔を背けたりしてました。

家が狭いから逃げ場がなかったのです。


母は、一通り話して電話を切ると、私に向き直り

「あんたは、ほんまにお母ちゃんを助ける事、何も言わないなぁ」

から始まり。

「お母ちゃんが、お父さんと別れたいって事、〇ちゃんは気がついてくれたんよ。

優しい子や。

お母ちゃん嬉しかったわ。

そやのにあんたは。

薔舞香はなんも言わへん。

漫画やアニメばっかり見て、1人で楽しんで。

いい気なもんやわ。

あんたのせいで、お母ちゃんが、お父さんと別れられへんねんで!

お金ないから我慢して一緒にいるんやで!

あんたも〇ちゃんみたいに、お母ちゃんの気持ちを考えてくれてもええんちゃうのん!

ほんま気の効かへん子やな!」

と言う流れで説教(暴言?愚痴?八つ当たり?)されてました。


その時の私は、不登校をやめ、何とか学

校に慣れようと踏ん張ってた途中でした。

ので、ぶっちゃけ、自分の事で精一杯でした。


漫画やアニメを見るのも、自分を保つ手段でした。

辛いことがあったら、それらの世界に入り込む···逃げるこむ事で、何とかバランスを取ってました。

母が弟と仲良くしてる時にも、私は苦しくなるので、慌てて布団がめ&漫画に逃げるをしていました。


それ禁止されたら、私は頼るものがないのがなくなり、またへこたれるわ···と思っていました。

不登校脱却に、たった1人で立ち向かってた私に、父母の仲をおもんばかる余裕はありませんでした。


実際、元の友達と再度仲直りしてても。

まだぎくしゃくしてましたし。

ので、教室で1人で休み時間を過ごさなあかん事もありました。


1人でいると、私の中でいじめられてた時の事がよみがえり、ものすごく怖くなるんです。


だけど怖がる素振りを見せたら、それがきっかけで又いじめが始まるかもしれないと、私は感覚で感じていました。


ので、怖くなりそうな時に逃げれる場を作ったのです。


それが 1人の時は漫画やアニメを見る・絵を描くと言う行動でした。


素直に「···と言う訳やねんと」

とありのまんま、母に説明しても良かったのですが。


何となく母に

「なんやそれ、言い訳か?」

などと言われそうや。

そんで

「そんな甘い事言うてるから、あかんねやん!」

とか言われるよなぁ😐


と思った私は黙っていました。


説明する方が、母の逆鱗にもっと触れそうやなぁと、わかるので。

結局私は

「ごめんなさい」

とだけ母に 言ったと思います。



だけど母の機嫌は良くなりませんでした。

マシンガントーク発動して、ざくざくと私を言葉で刺しました。


私は母のマシンガントークを聞きつつ

『···普通なら親から「久しぶりの学校。大丈夫か?」と聞いてくれるはず。なんで私は聞いてもらわれへんの?』

と思いました。


この時すでに不登校していた弟に対して、母は変わらず色んな所に相談したり、お祓いしにお寺に行ったりと、思いつく限りの事をしていた母でした。


それだけでなく、〇ちゃん(弟)の話しを、ゆっくり聞こうとしてました。


『これ···これってえこひいきやん。やっぱりお母ちゃんは私の事嫌いやねんなぁ』

と、私は子供らしく思いました。

自分の不登校の時、何一つしてくれへんかったのに。

対応の仕方のギャプが激しすぎました。



とは言え。こんな事言ったら、母は余計に怒るので 言えない。


なので、私は黙って母のマシンガントークを、聞いてました。


昔からずっと、私は母の鬱積された愚痴と暴言をぶつける「はけ口」に過ぎませんでした。


こんな心を削る事が連発していても、時は平等に流れ。 

いつしか

家族それぞれが孤立しながらも、なんとかお正月を迎えました。


久々に家族4人でこたつに入り、新年の挨拶をしたり、年賀状を見たりしてました。


母は何かと口実を作っては、こたつに入らない様にしてました。

父はこたつで、日本酒の冷をちびちび飲みつつ、時々

「こうやって美味しいお重やお酒が飲めるのも、みんなお母さんのおかげやなぁ。ありがたいなぁ。みんなでお正月迎えられて良かった。ありがとう」

と言いました。


それに答える人は、いませんでした。

数回父が「ありがとう」を繰り返し、周りからなんの反応もなとわかると、父は無言になりました。


今思うと、父に

「守ってくれてありがとう」

位言えば良かったと思います。


しかしこの時は、どっぷり母の思考にシンクロしてましたから、私だけでなく弟も知らんふりしてました。


まさに親(父)不孝···orz


気まずい沈黙を破るように、母が

「ほらそろそろお寺行くで!準備しぃや」

と言いました。


そして母のお里代わりの

お寺さんの 新年会に、父以外全員で行きました。

父は借金があるので、お寺さんの敷居が高くて行けないようでした。


と、母が言ってました。


のちにある人が

「子供が小さい時に、お父さんをおとしめる事を言ったらあかん。子供はお母さんの事好きだから、信じてしまう。お父さんの事を馬鹿にするようになる。

何かあっても。子供の前ではお父さんを立てなあかん」

と言われました。

私は普通はそうなんかな?とぼんやり思いました。


私がその言葉を理解するのには、まだまだ時間が必要でした。

そして理解した時は、取り返しのつかない状態になってからでした。確か私が28歳の時でした。


話し戻して。お正月にお寺の新年会に参加して。

母は来られてる方々と、散々家の愚痴を聞いてもらい。

お寺さんからそっと、お年玉までいただいて。

当時の安住様から

「大変やけど、〇ちゃん(母の事)頑張りや。お金は何時でもええからな」

と励ましてもらって。

お寺を帰る頃には、母の機嫌が治っていました。

そして帰宅。

母は、お寺さんに行く前と同じ姿勢で、お酒をちちびちび呑んでる父を見て

「はぁー」

と大きなため息を付きました。 


だけどお正月早々だったからか、母のマシンガントークは炸裂しませんでした。

ただ凄く 機嫌悪そうな顔をして、母は洗濯しに玄関へ行きました。

正月 と関係なく

父と母の間の空気は、やはり冷ややかでした。

 

部屋中の温度が下がった気がしました。

静寂の中、テレビだけが、おめでたいと連呼し、お笑い芸人さん達が漫才をしてました。


私は 何だかなぁと思っていると

突然、お腹の痛みを感じました。


私は下痢が多い子供だったので。

この時も「またか」と思い

あまり気にせず、トイレに行きました。


「あ!」 

下着を見た途端、私は思わず声を上げました。


なにこれ?と焦りましたけど。

5年生の時の保健体育の時間を思い出しました。

私は『これが初潮かぁ···。きもいなぁ』

と思いました。


話しでは聞いてたけど、実際見たらすごく嫌な感じでした。


と、とりあえず、私は悩んだ末、ティッシュを使って整えました。


でも長くは持たないと分かってたので、慌てて手を洗い、母の元に急ぎました。


母は玄関で洗濯機(2層式を2台)を動かしてました。


私が慌てた様子で来るのを見て

「何?」

と不機嫌そうに言いました。


私は今見た事を、そのまま話しました。


母の顔は、益々不機嫌になり、まるで汚いものを見るような目つきになりました。


話し終わった途端、私は母にタンスの部屋まで連れていかれました。




そこで生理用の下着など一式を渡されました。


私も、この事は学校の保健の授業で習ってたから、驚いたけど焦りはなかったです。


素早く着替えてると、母が汚れた下着の洗濯の仕方を話し出しました。


「ええか。血付いたところは、同じ血液型の人の唾をつけてこすると取れるんや。お寺のおばあさんに教わったんや。あんたも覚えとき」

と母は事務的に言いました。

私は

「うん」

と答え、洗濯してみました。

少しキモイけど、母の言う通りよく取れました。


そんな私に、母は低い声で言いました。

「あんたな。これで男の人となんかしたら。子供できる体になってしもうたんや。

そやから、気ぃつけるんやで!

お母ちゃん心配やわ」




「あんたは、小さい時にも、お母ちゃんの義理の叔父さん来た時、誘惑しとったやろこれからは あんなん絶対したらあかんで!

ふしだらや!おばあちゃんと似てる···嫌やなぁ。

これからは、絶対ふしだらな事したらあかんで!

ほんま 汚らわしい」



『へ···?』

母が吐き捨てる様にそう言った時、私は頭が真っ白になり、何も考えられなくなりました。

思わず固まりました。



義理の叔父さんに誘惑?

何それ?

そんなん覚えてない。

てか私、今初潮迎えたんやけど。

なんか言う言葉、違うくないか?


まぁ確かに初潮って、なんかグロテスクやし、汚らわしい気ぃが、自分でもしてたけど。


お母ちゃんははっきり

「汚らわしい」

って言うた。


私、やっぱり汚らわしいんや。

汚いものなんや!



私が固まってると、母は嫌悪感いっぱいの瞳で私をいちべつして、そのまま部屋から出て行きました。


私は、その姿を黙って見ていました。

と言うか、頭が回らなかったのです。

けど1人になり。

時間が経つと、寒さで我に返りました。

そして、寒さを感じると同時に、下腹の痛みも感じ。

その感覚から、現実の自分の状態を再認識し始めました。


そして、心の底から、ぶわっと、色んな想いが上がって来るのが自分でも分かりました。




え?私何言われたん?

男になんかされたら、子供が出来る体になってしもぅうたんやでって言われた?

嫌やわぁって言われた?


え?叔父さんを誘惑?

いつそんな事したやろ?

叔父さん来たのっていつや?

あ、そや、あの時もお母ちゃんに怒られたわ。 




叔父さん下に座ってるのに

あんた、制服で2段ベッドに登ったらあかんって言われた。

あれ事?

誘惑になんでなんの?

そう言えばもっと小さい時も、似たような怒られ方した。

酔っ払いのおっさんに、大きな水溜まりへ引きづられて行った時もそうや。


後幼稚園の頃、知らへんお兄ちゃんに下着に手を入れられて触られた時も。


その時も

「汚らわしい」

って言われた。

「おばあちゃんみたいや」

とも言われた。

「嫌やわぁ!あんたが誘ったんやろ!」

とかも言われた。

何それ?誘うってなんなん?

わからんわ‼️


おばあちゃんと似てるって···私、おばあちゃんの事、お母ちゃんから聞いた事しか知らへんし···。

ふしだらな事したらあかんって、した事ないやん!


てか何したら、ふしだらってなんなん?


お母ちゃん···私さ、初潮迎えてんで?


汚くなっただけなん?私···。

嫌やわぁって何?

元々私の事嫌いやってのは知ってるけど。

汚らわしいし、汚いし、おばあちゃんと似てるから、益々嫌いになったって事?


私···汚い。汚い。汚い。

確かに気持ち悪いし、私も自分が嫌や!

汚らわしい!汚い!汚らわしい!汚らしい!

ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙‼️🥶

そうなら···。

そんなに汚くて 汚らわしいなら···。


私こんな体、もう要らへん(泣)


初潮なんか要らへん(泣)


おかげで私、お母ちゃんにもっと嫌われてしもただけやん!


よくテレビとかで娘が初潮迎えたら、お赤飯とか。おめでとうとか言われてるのに。

あれば綺麗事や!


ほんまは

男になんかされたら、子供が出来る嫌な体になってしもぅた だけなんや。


私···こんな。

こんな想いばっかしてる。

この12年の間。


お母ちゃんに嫌われて、責められて。

お寺さんや周りの人らに、あかんやつって言われ続けて。


いっつも〇ちゃん(弟)と比べられて。


その上、同級生にいじめられても

「お店のお得意さんのお子さんやから、 なんも 言われへん。あんたは女やし、中学出たら働くから、  我慢して!」

と 放置 (今で言う ネグレクトを )された。 

なんの心配もされなかった。 


〇ちゃん(弟)が不登校になったら散々,色んな所に相談しまくってて。

お母ちゃん、電話口で 泣いてたりしたのに。


私の方が、泣きたい事ばかりや。

私は生きるのが苦しいわ。


こんな苦しい想いを沢山するのが人生なら。

こんな人生しか子供にあげられへんのんやったら!


私は、

子供なんか産まない‼️

絶対産まない!



汚らわしい事しな子供できへんのなら、したくないし!


てか、私の様に苦しい想いばっかりする、こんな世の中。こんな人生。


心底 自分の子供に味わって欲しくない!


私は子供は、絶対産まない‼️


私なんて···生まれてけぇへん方が良かった。とか思うし。

自分が死んでりゃ良かったとか思う人生を、他の誰にも味わって欲しぃない!

特に自分の子供には!

生まれたとしても、私の子供が可哀想や!


私は、絶対子供産まない(大泣き)


汚した下着を、教えて貰った方法で洗いつつ、私は声を殺して泣きました。


お正月に娘が初潮を迎えた。


本当ならお赤飯とはいかなくても。

おめでとう、これで大人になったよ···とか。

お腹痛い時は薬飲むんやで···とか。

こっそり父に話し、父からぽそっと

「おめでとう」

とか言われるのが、一般的かなぁと、テレビや漫画や小説を見てた私。


現実は

「汚らわしい物になった等」の罵り。

冷たい水で汚れ物を1人で洗う。

更に母に嫌やわって言われて。

とどめに、昔の嫌な記憶の、フラッシュバックに襲われた。



私は、やっぱテレビとか、はええように演出されてるだけで。

実際はこんなもんなんや。と、実は今も思っています。


先にネタばらしすると、この「12歳の決断」が、私の自我に大きな楔となって撃ち込まれました。


その時の気持ちがダイレクトに無意識まで到達したようで。


精神疾患を発症した時調べられた心理テスト「バウムテスト(木を描くテスト)」に

その楔が、ざっくりと木の根元の幹に突き刺ささってる絵を描いた私。


精神科の主治医は驚いてました。

医師:「これほとんど幹切れてるやないですか!」

私:「ほとんど首なしニックと同じですね(笑)」

医師:「いや、笑い事ちゃうよ。これだけの楔があって

よく今まで生きて来れましたね。

こんなに大きな傷を受けて尚、これだけしっかりした木(人格の象徴)に育ってる。葉っぱも果実もなってる木に育つなんて。これは滅多にある事ではないです。あなたは本当に頑張りはったんですね。

薔舞香さん、凄いと思います」


と言うやり取りをしたのを思い出します。


話し戻して。

私がした「12歳の決断」通り、私は子供を産むことなく、閉経を迎えました。


私が私を呪った「12歳の決断」を、解いてくれる人は現れませんでした。


今はもう、産みたくても産めない体になり、困ってる事もあります。

自分の老後と喪主、どうしょう😰

とか。


けど(´・_・`)

ご先祖さまとかには申し訳ないけど。


私が子供に自由な人生をあげる事なんて、出来ないと 今でも思うので。


その時はまだ12年しか生きてなかったけど、苦しい事の方が多く。

体の病気の苦しみと痛みと

心の痛みの両方を、受け止め続けていた私。


幼いながらも、そのまま受け止め続けたら、病む‼️と無意識に危機を察知したのでしょう。


なので私は、何かあると漫画とかに逃げてたんです。

そして、何言われても、へらへらしてるようにしてました。

一時期、自分はピエロ🤡の仮面を被ってると思っていました。道化師でした。


母にも、

母の育ての親代わりのお寺さんのみんなにも

ずっと言われてましたけど、

「わがままで勉強出来へんあかん子」

「〇ちゃん(弟)と全然違うあかん子」

と言われても、その言葉が直接心に刺さらない様に、必死で空想に入り込んでました。


けど。

その言葉は確実に心に染みてきて。

自分は最低なんやと自ら思って12年間生きてました。


でも、それでも少しでいいから母に好かれたくて。

みんなに「薔舞香ちゃんも頑張ってるやん!偉いなぁ」と言われたくて、色々しましたが。

ダメでした。

なので逆に母達が下す私のイメージ

「わがまま」

を思いっきり演じました。

母が望む私を演じる方が、楽だったんです。

『私はこんな風な子になって欲しいんでしょ。演じたるわ!』といつも思ってました。


最も

自分の好きな物や、色とか、種類とかを

素直に「これ好き」「これは嫌い」と言うのが、わがままなのか?と悩む事はありましたけど。


私は

「何処がわがままなのかな。どんな態度がわがままなのか?」

と今でも 分からない点があります。


うーん🤔

母が望む事や、お寺さんの方々が望む事ではない事を、ズバッと言って押し通す所が「わがまま」なのかなぁ?と現在は思ってます。


子供の頃、私が何か言ったら必ず「わがまま」と言われてましたので。

多分どんなに立派な事を言っても、ほめられる事はなかったと思います。

子供の頃から私は、多田家のスケープゴート(生贄の子羊)🐑やったと思います。


後にそれに気がついた時は

「あ!そういう事やったんか!」

と手にビニール袋を持って、1人で声を出して泣き笑いしました。これはまた先の話しですが。



とにかく、私(だけではないけど)の子供時代は、薄い氷の上を歩く様な、恐怖と隣り合わせでした。


今思うと

私の子供として生まれるはずだった命は、きっとほかの人の子供として生まれてるはず。


そこできっと、子供らしく自由に、愛されながら育ったはず。

その方がその子は幸せになったやろう···と思いました。


私がのちカウンセラーを目指し、心理学を習った時に、はっきりと分かった

我が家にあるもの。それは

「虐待の連鎖」

でした。


これは親から子へ。

子から孫へ。

と、ずっと受け継がれるそうです。


治すにはかなりの胆力と、気力と、自制心と、当事者同士の協力がいり、治療と時間が必要とされていて。


それをしないと、かなりの確率で、「虐待」をしてしまうと学びました。


また、根本的に良くするには、家族セラピーを受けないといけないぐらい、個人の力だけでは難しい問題やったりします。


事実、私の家では、私が知る限り、既に3代「虐待の連鎖」は連なっているのです。


私はそんなに強くないし。

人格者でもないから、子供が居たら、きっと何らかの「虐待」をしてしまうだろう。

それは絶望的な予感でした。


私の場合。

曾お祖母さんの事は知らないですが。

お祖母さんと母の間に、酷い「虐待」があったと、ずっと母から聞かされて来ました。


そして母は私に、身体的と食事無しとか言う「虐待」はしないでくれました。

が、精神的と言葉の暴力。そしていじめ等あった時放置(ネグレクト)はしました。


大人になって母が

「お母ちゃんはな、お祖母ちゃんに火箸で叩かれたり、蹴られたり叩かれたりしてんで。ご飯も食べさしてもらわへんかった。痛かったし、お腹空いてた。

けどあんたら(弟も含め)にはそんなんしてへんやろ。ちゃんと育てたやん。病院にも連れてったやん。言葉で少し言うだけなんて、痛くないやろ」

と言いました。


言われた時

『え?いや、痛いわ!···ふざけんな‪💢』

と思ってしまいました。


つまりうちは

お祖母さんから母へ。

母から私へ。


連綿と「虐待」が鎖で繋がる様に、受け継がれている

「虐待の連鎖」

のある家庭でした。


私は

「虐待の連鎖を止めるには、2つ道がある。1つは産まない。もう1つは私が自分を律して子供を虐待しない」

だと思いました。

思った瞬間

「嗚呼、私1人やったら間違いなく虐待する。私の傷は、1人で何とか出来る程浅くないから」

と思いました。


自己暗示···かもしれないですが。

強く思う事が現実になると言う事は···本当にあるんだなぁと思いました。


ちなみに、原家族(自分が成人になるまで育った家族の事)について、更に付け加えると。

父の力が弱い家庭でもありました。

それは幼い頃からずっと変わりませわでした。

酷くなったのは、お店を倒産させ、借金返済に導いた時から、母は父にもっと辛辣な態度を取りだしました。


子供の私達に、逐一「こんな事したんやで。あかんやろ」と言ってました。

私達子供も、大好きな母が言うなら間違いないと思い、父をかろんじていました。


いわゆる

「父親不在の家庭」

又は

「機能不全家族」状態でした。


機能してる家族の場合。

母親が子供を育み。

父親は子供が自立し始めた時に、取り込もうとする母親を

「これからはこの子の人生やから、好きにさせよう。けど見守って行こう」

と言って母の取り込みを防ぎ。子供の巣立ちを助けます。


又、子供が幼い時も、母親の支配がきつくなりすぎたら、父親が止めるし。


母親が何かで悩んだら、さりげなく後ろ盾になりながら母親を助けるのが、心理学的には父親の役目とされています。


この場合、母親も父親を信頼して、相談するし。

父親も何か困ったら母親に相談したりする。

お互いに信頼してるので、子供達も安心して育つ···と習った様に思います。



私の育った家は、幼い頃から父親は黙ってちびちび冷や酒を呑み。

母は誰彼構わずマシンガントークで、愚痴り。

子育ての場面では、母親に任せっきりで。

病弱だった私を、母が何度も病院に連れて行ってくれてました。

その時にも「あんたがあかん」攻撃はありましたけど。

弟は頭も顔も良くて、幼い頃から良い子でした。母は溺愛してました。


父は居場所がなくて、新しく働き出したうどん屋さんの寮に寝泊まりする事が多くなりました。

また、私はあまり知りませんでしたけど

父と弟の仲も、後に分かりますが、微妙な関係だったそうです。


弟は、本来なら、父親の姿を見て育つそうなんです。ですがうちは父親いない様な家庭でした。


父はいつしか、家に帰ってくるのは、多くて年に2回になってました。


その内、お正月の1回だけになりました。


それでも弟や私の心に父親と言う存在があれば良かったのですが。


心の中にいるのは、母だけでした。

父の影が薄すぎました。



もし父の力が程々あれば、暴走する母を

「おい、子供にそれ以上言うたらあかんで」

と止めてくれるのですが。

それもなかった。


前から何回か書いてる通り

完全な「機能不全家族」となりました。


この事で苦しんでいるのは、実は私だけではなく。


ひっそりと不登校をしてる弟が、大きな傷を負わされてました。


その加害者の中に、私も含まれて居ましたけど(と母に聞きました)


私が「12歳の決断」をした頃、弟は酷いいじめにあってました。


私と同じように、不登校やけど頑張って学校に行く日もありました。


いじめられてた時、私は登校した日に、嫌味を言われて、心の傷をおい、又不登校に舞い戻ってましたけど。


弟は男子やったので。

いじめは言葉だけではありませんでした。

暴力が入っていたそうです。


頑張って登校した日、いじめっ子にいじめられ、足にあざを作って帰ってきました。


すると母はすかさず学校にお怒り電話してました。

そして弟には

「行かんでいいから 」

と言う雰囲気で、私の時の様に怒鳴ったりしませんでした。


しかし弟が中学に入る頃、保健室登校だったのか?

私の様に自分から気持ちを切り替えて登校したのか?

ここはあまり覚えてないのですが、いつの間にか弟も不登校を脱却していました。


その頃、住んでいた借家が建て直しされる事になり、私達は引越しました。


それまでは1階だけのお部屋でした。


けど引越した先は、「にこいち」と呼ばれる建物でした。




分かりやすく言うと、2階建ての家の真ん中に、壁を作り。

家を半分こします。


そして1軒の家を2軒として、2組の家族に家を貸すタイプの借家でした。


私達が入った所は、少しお家賃が安かったんです。

当時はあまり分かりませんでしたが、事故物件の横だったからです。


横のむねの家で、階段の所に紐をかけて···。

だったそうです。

母は

「気持ち悪い。なんか嫌な気がする。ここはやめよう」

と言いました。



けど私は気に入りました。

間取りは

初めての2階建て。

お風呂付き。

庭も少しある。

1階は台所と6畳和室とトイレとお風呂。

2階は4.5畳と6畳の和室とベランダ付き。

最寄り駅や中学からは少し遠くなりましたけど、その分静かな環境でした。

(と思いました。この時は)


私は「ここがいい」と言い。

弟は無言。

父はいませんでした。


母はほんとに嫌がってました。

けど取り壊しの日が迫っていたのか、そこに決まりました。

その日から、母のマシンガントークのネタが1つ増えました。

「薔舞香のせいでここに来た。あんたがええって言うたからや!いっこも良くない!悪なった!薔舞香のせいや!」

でした。


「ニコイチ」の家が2軒並び

間に車とかも停めれるスペースが取られ

向かい合う形で、同じ「ニコイチ」の家が2軒並んでました。


そして、見学の時には分からなかった

「ご近所さんとの嫌な関係」

が、すぐに浮上しました。


こそには、うるさいマウントおばさんと、金魚のふんおばさんがいました。


そして母と真っ向対決してました。


続)