この頃つくづく考えることがあって、でも同じ話題が脳内をだらだら走り続けても仕方がないから、一部をここに吐き出すことにしようと思う。

 

 

例えば一つの出来事がそれに関わった10人の人によってそれぞれ説明されるとき、各々が語るそれぞれの”事実”は同じになるだろうか。

 

もちろんその出来事にもよるのだが、おそらく少しずつ(時には大きく)違ってくるだろう(ドラマのアナザーストーリーみたいに、視点を変えると一気に違った話になってくるじゃん、なんてことあるよね)。

 

 

”事実”は角度を変えてたくさん存在し得る。上の例では関わった10人それぞれの視点から一つの出来事が語られることになる。このとき大抵の場合、”事実”は個人の感情や何かの思惑が混じっている(意図的に、また無意識的に)。

 

 

 

では、皆が個人の感情を除いて「客観的に」語ればその”事実”は一つにしっかりまとまるのだろうか。

確かに、完全な完璧な客観的視点で説明されるのであれば一つになるだろう。

 

 

ただ、”事実”は作り出す側や話す側だけでなく、聞き取る側の、受け取る側の感情もまた忍び込んでいることに気づいているだろうか。

 

 

世界各地の歴史の教科書がいい例になりそうだ。

 

これまでの長い歴史の中で、繰り返し国と国は争い、異民族同士は敵対する。

 

『この年にこんな戦争がこの場所で勃発した』というところまでは同じでも、経緯や理由、各国の主張や戦時中に起きた悲劇的な事件だって、それぞれの国で異なる。

 

故に、いくら”事実”を並べた教科書だって、それは読むものの”正義感”やはたまた、彼らの”倫理観”によって勝手に歪曲するのである。

 

さらに言うならば、その真っ当であるべき歴史書でさえ、都合よく”事実”を取捨選択している可能性がある、というのも驚く話ではないだろう。

 

 

我が国こそが正しい、と戦い合うその状況で、当事者たちが双方の視点に立ってそれを”事実”として俯瞰することは不可能である(可能なら戦争は起こらない)。特に自分の損得や”正義感”に関わるとなれば、人は”事実”だってもはや嘘だって都合よく作り上げ解釈する。

 

 

人は自分が生きたいように、生きやすいように生きる。

 

 

”事実”はいつしか誇張され、ときに美化される。

 

”事実”はいつしか評価され、ときに蔑視される。

 

 

世の中には確かに正と悪の立場がそれぞれあり、表裏一体に位置するときもあれば、隣り合わせに並ぶときだってある。

 

 

人が感情を持つ限り、それぞれの視点から語られるたくさんの”事実”が存在する。

人が人と生きている限り、”事実”はいろいろな角度から形成される。

 

 

わたしはそんな”事実”の不確かさに不安を感じてるわけではないし、嫌悪していると言いたいわけではない。

ただ、たくさんの”事実”が簡単に、間接的に(または直接的に)入ってくる今の時代において、自身に入り込んできたその”事実”をそのまま浸透させることはしたくない、というだけの話である。

 

 

ひとつひとつの情報に対して常にバリアを張っておくことはすごく難しい。

 

 

いくら「客観的に」なんて言っても、どうしても主観が入り込んでくるし、

いくら「多方面から」なんて言ったとて、何が正解なのかわからない。

 

 

それでも、この”事実”に対する考え方と、種々雑多な情報に左右されないためのバリア対策は私の中ですごく大切である。

 

そしてそれが大切な人たちを大事にできる方法の一つに繋がるのならば、自分が理想とする揺るぎなき自分をつくりあげていくのならば、難しくたってやるしかない。

 

 

誰しも完全な”事実”だけを取り入れることはできない。

 

 

だからあなたがもしたくさんの”事実”に飲み込まれてしまいそうで、何を信じていいかわからなくなったとき、

まだ地球に生まれ落ちて19年しか経っていないこの大学生の書き流しに少しでも、心が軽くなってくれたらいいなあと烏滸がましく思う。