人間の本性はである

人間の本性はである

 

 

いきなりこの二択を街中で(別に街中でなくても、田んぼ道でも室内でもいいが)投げかけられたとしよう。

さあ性善説と性悪説、それぞれが全体に占める割合はどうなるだろうか。

 

 

個人的に予想するならば(この検証が実行されることはおそらくないので)、性悪説に8割ほどの軍配があがるだろう。

 

 

なぜか?

人は自分の経験から社会の形を創り出す傾向があるからだ。

 

 

例えば、一度誰かに裏切られた経験がある人がいるとしよう(というか確実にいるだろう)。

他人の悪事によって害を被った人は、「人間とは根本において悪に傾く生き物なんだ」という考えによって裏切り行為の理由を作ることができる。そして残念なことに、こういった人間への落胆は一回の経験どころに収まらない。人と関わる人生を生きている限り、何度も何度も人間の醜さを感じる場面に遭遇する。

 

 

この世界にとって、人の本性は悪であるという性悪説はもはや救いなのである。そうだ、期待するだけ無駄なのだ。信じたが最後、いつか痛い目に遭うのだ。

 

ああだから人は不倫するのか、毎日のようにニュースで流れる殺人事件だって珍しくないし、いじめだって起こってしまうのか。

 

そうやって簡単に結論づけてしまえるわけである。

やはりこの世を俯瞰すれば、性悪説が確かなものだと。

 

 

ここで改めて性善説、性悪説の本来の意味を理解し直すことにしよう。

 

性善説:

人は本来善良の性質を持っているが、それが社会環境や教育によって変質する

性悪説:

人は先天的に悪の性質を持っており、それは教育や模範により修正すべきもの

 

 

こう並べてみると、今まで正反対に感じられた二つの説が急に近しいものに感じられるのではないだろうか。

そう、簡単にいえば二つとも、社会環境の人間形成に対する影響と教育の重要さを説いているのである。

 

 

二つの説ともに善悪は存在する。

両方において善も悪も生じ得る。

つまり、

人に裏切られる=人は悪の性質をもつという等式は成り立っても、

人に裏切られる=人は性悪説だと言えるという等式は成り立たないのである。

 

何も、性善説なら人は元々善という本質を持っているから人を裏切らない、というわけがないのである。

 

 

 

ここまできてやっと、私たちは世の中の善悪で、自身の経験論で、

性善説か性悪説を論じることは難しいのだと悟る。

 

 

そしてこの両説においてより議論されるべきなのは、

人間の本質はどちらなのか、というものよりも

教育制度と社会環境をどう律していくべきか、であると私は思う。

 

 

 

性善説と性悪説をそれぞれ説いた孟子と荀子が同じくして目指したのは、

善に包まれる社会であり、また、両者とも人の素晴らしさに可能性を見出しているのである。

 

 

 

決して性悪説は人間という存在に落胆したものではないし、

性善説が夢見がちに浮ついたユートピアに所在するものでもない。

 

 

何事も本質を理解することはすごく大切なことである。

 

 

 

何千年前から世を良くしようという動きは途切れることなく続いている

そんな当たり前の事実を改めて実感した今、

 

 

私は両親が用意してくれたこの環境で精一杯たくさんの発見と価値観を吸収し、学ぶことに執着し続けたいと強く思う。