3月21日生まれの歌手

 

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おススメ曲は…

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宮城まり子

「毒消しゃいらんかね」

 

1953年発売のヒット曲まじかるクラウン

 

作詞作曲 三木鶏郎

 

 

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『毒消しゃいらんかね』は、

NHK番組『ユーモア劇場』で、楠トシエが

歌った曲。

レコードは宮城まり子によって吹き込まれて

いる。

1953年ビクターから発売。

新潟県角海浜(現:新潟市西蒲区)の、

『越後の毒消し』の行商の女性をテーマ に

した歌。

コミカルで親しみやすい楽曲で、

ロングヒット となった。

翌1954年『第5回 NHK紅白歌合戦』で

宮城まり子が歌唱した。

 

『毒消し』は、

今は廃村となっている角海浜に、

最盛期には周辺も含め製造元が

20軒以上あり、女性の売り子は、

3000人いたという。

村の寺院の家伝薬であった『毒消し』

(腹痛薬)を他国への行商によって販売

した。

かつては、めったに病院にかかることが

なく、多くは『家庭内常備薬』に頼った

ところから常に一定の需要があつた。

しかし、高度成長期をむかえ新薬の開発

と流通・社会情勢の変化によって、

急速に衰退した。

(wikipedia参照)

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富山の薬売りの新潟版なのね。

下矢印

日本の古本屋

 

 

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宮城まり子は1927年生まれ。

東京府蒲田(現:東京都大田区)出身。

 

父親の仕事の関係で小学校3年から

大阪で育つ。

小学5年の時、父が事業で失敗し、

母が病死したため、小学校の卒業と

同時に弟と共に吉本興業に入り、

歌謡曲を歌うようになる。

 

1944年10月 宮城千鶴子の芸名で

大阪花月劇場にて初舞台を踏む。

1948年 父・弟の八郎と上京。

東京・浅草の舞台に立つ。

翌年、菊田一夫の推薦で日劇の舞台に

主役として迎えられた。

 

1950年 テイチクから『なやましブギ』で

デビュー。

ポリドール を経てビクター移籍後第二弾、

『あんた ほんとに凄いわね』が初ヒット。

そして、

1953年『毒消しゃいらんかね』が

流行し一躍歌手として、その名が

知れ渡った。

1955年『ガード下の靴みがき』が大ヒット。

その後も、『納豆うりの唄』

『てんてん娘』『夕刊小僧』など、

ヒットを連発。

弟・八郎は、宮城秀雄の名前で作曲家

として活躍した。

 

1958年 日本初のカラー長編アニメ映画、

『白蛇伝』で、声優を務める。

その後、女優業に進出し、

1958年『12月のあいつ』で芸術祭賞、

1959年 自らの半生を描いたエッセイ 風の

舞台『まり子自叙伝』で テアトロン賞を

受賞した。

 

福祉事業家として、

1968年 肢体不自由児(身体障害者)・

孤児・拒食症(精神疾患者)などの

救済・支援を行う日本初の民間(私立)

社会福祉施設である『ねむの木学園』

を1人だけで、3年かけて設立した。

 

この頃より、タレント活動は事実上、

引退状態となった。

 

1973年 吉川英治文化賞を受賞。

1974年 記録映画『ねむの木の詩』を

製作・監督し、

第6回 国際赤十字映画祭で銀メダル賞を

受賞。

1977年

『ねむの木の詩がきこえる』を製作。

1979年 ねむの木養護学校を設立。

 

2020年3月21日

悪性リンパ腫のため死去。93歳没。

(wikipedia参照)

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ビクターエンタテインメント

 

なんて凄い人なんだろう…拍手

是非、この功績をNHK朝ドラで、

ドラマ化して欲しいわ。

 

さて、「毒消しゃいらんかね」の

メロディーは…音符

ノリの良い楽しい歌謡曲!

これぞ!トリメロ(三木鶏郎の曲調)と

いう感じ。

 

詞の内容は…鉛筆

私は雪国の薬うり。

あの山こえて、村こえて、やって来た。

惚れちゃいけない他国の人にも

一年たたなきゃ会えりゃせぬ。

……

という、

毒消し売りの女性の歌。

 

好きなところは…飛び出すハート 

すっごく早口になるところ!!

🎵

目の毒

気の毒

河豚の毒 ああー

毒消しゃいらんかね

🎵

 

冒頭のセリフ

「毒消しゃいらんかネーーー」は、

思いっきり元気良く。

楽しく

 

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