どうも瑞雲です(๑'ᴗ'๑).。.:*♡


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皆さんはダウジング占いをしたことはありますか?
私は昔、高校生の頃に天然石の販売店で水晶の円錐型のペンデュラムを買ったのがキッカケで時々自己流で占いをしていました。
自己流でやっていた時は二択の質問に対し、YESなら時計回り、NOなら反時計回りという単純なもの。

それが本当にちゃんと動くんですよ。

ダウジングボードなんてないから、ただ指に鎖を絡ませて下げただけの状態で「私は女ですか?」「私は高校生ですか?」とか簡単なもの。

で、最近またやってみたくなってダウジングボードを買いまして。
ラバー製の安物ですが、円形でYES、NO、maybe、unknown、A~Z、英語表記の1~12月、星座、数字が印刷されてます。
やり方はあくまで自己流で、ボードの中心にペンデュラムの先を置いて静止させ「質問します」と宣言してから始めます。
質問は久しぶりなこともあって肩慣らしに簡単なものから。
「私は女ですか?」
「私の誕生月は?」
「私の誕生日は?」
不思議なのは、YESなら静止させた中心からYESの方向に振れること。
前後に振れるわけではない。
誕生月、誕生日はちゃんとその数字の方向に振れる。
あとから英語表記の月があったのを思い出して「私の星座は?」にはちゃんと英語表記の月の方向に振れるんですよね。
ちゃんと動くことを確認できたら本格的な質問。

聞くといったらまずはこれですよ。

「私は運命の人に出会っていますか?」

これには「NO」

「私は運命の人に年内に出会いますか?」

これには「YES」

おお! マジか!!

「私はその運命の人に何月に出会いますか?」

「1」

いち? あ、そうか十の位か。

「一の位は?」

「2」

どうやら私は12月に運命の人に出会うらしいです。

「私の運命の人は日本人ですか?」

「NO」

のー??!!

日本人じゃないのー??!!!

「アメリカ人ですか?」「NO」
「イタリア人ですか?」「NO」
「イギリス人ですか?」「NO」
「フランス人ですか?」「YES」

YESきたー!!!!

私、フランス人と国際結婚するようです。

でも運命の人が必ずしも結婚相手とは限らないですよね。

「私の運命の人は男ですか?」「YES」

う~ん、もいっちょ。

「私の運命の人は人間ですか?」「YES」

よかった(;^_^A
12月が楽しみです。

☆☆☆

先日、YouTubeのショート動画で有名な実業家さんのお話を拝見しました。
その方はとても素晴らしいお話をたくさん聴かせてくださいましたが、ある一本の動画で「怒っちゃだめだ」とおっしゃっていて、私はとっさに「違う!」と思ったんです。

もちろん神様は「怒る勿れ」「憎む勿れ」「憎まれる勿れ」「裁く勿れ」とおっしゃっておられます。
ただ、「悪に対する怒り」は持ってなければいけないとも言っているのです。

 悪に対する怒り=正義感 

政治の腐敗や悪人の非道な行為。
それらに対し怒りが湧かない人はたとえ善人であってもそれは小乗的善であり、ただ悪人ではないというだけの人間だと。

行き過ぎた正義感もよろしくないとも言ってますけどね。
それこそ常識眼に照らし合わせ、何事も程の一字を守る事が大事です。

善とはなにか、悪とはなにか。

今回はそれを教えていただきました。

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 世の中は善悪入り乱れ、種々の様相を現わしている。
 即ち悲劇も喜劇も、不幸も幸福も、戦争も、平和も、その動機は善か悪かである。
 一体どうして善人もあれば悪人もあるのであろうか。
 この善悪の因って来る処の何か根本原因がなくてはならないと誰しも思うであろう。
 今私がここに説かんとする処のものは、善と悪との原因で、これは是非知っておかねばならないものである。
 勿論普通の人間であれば善人たる事を、冀(こいねが)い悪人たる事を嫌うのは当たり前であり、政府も、社会も、家庭も、一部の人を除いては善を愛好する事は当然であって、平和も幸福も悪では生まれない事を知るからである。
 分かり易くする為、善悪の定義を二つに分けてみよう。
 すなわち善人とは「見えざるものを信ずる」人であり、悪人とは「見えざるものは信ぜざる」人である。
 従って「見えざるものを信ずる」人とは、神仏の実在を信ずる、所謂唯心主義者であり、「見えざるものは信じない」という人唯物主義者であり、無神論者である。
 その例を挙げてみよう。
今人間が善を行う場合、その意念は愛からであり、社会正義からでもあり、大きくみれば人類愛からでもある。
 そうして善因善果、悪因悪果を信じて善を行う人もあり、憐憫の情止むにやまれず、人を助けたり、仏教でいう四恩に酬(むく)いるというような、報恩精神からも、物を無駄にしない、勿体ないと思う質素、倹約等、何(いず)れも善の現れである。
 又人に好感を与えようとし、他人の利便幸福を願い、親切を施し、自己の天職に忠実であり、信仰者が神仏に感謝し、報恩の行為も、神仏の御心に叶うべく務める事も、悉(みな)善の現われである。
 まだ種々あろうが、大体以上の如くであろう。
 次に悪事を行うものの心理は全然神仏の存在を信ぜず、利欲の為人の眼さえ誤魔化せば、如何なる罪悪を行うも構わないという──虚無的思想であり、欺瞞は普通事の如く行い、他人を苦しめ、人類社会に禍いを及ぼす事などは更に顧慮することなく、甚だしきは殺人さえ行うのである。
 そうして戦争は集団的殺人であって、昔からの英雄などは、自己の権威の為、限りなき欲望の為、大戦争を起こし「勝てば官軍」式を行うのである。
 「人盛んなれば天に勝ち、天定まって人に勝つ」
という諺の通り一時は華やかであるが、必ずと言いたい程最後には悲惨な運命に没落する事は歴史の示す処で、勿論動機は悪である。
 かように人の眼さえ誤魔化せば、如何なる事をしても知れないという事であれば、できるだけ悪事をして、栄耀栄華に暮らす方が得であり、怜悧(りこう)──という事になる。
 又死後人間は零となり、霊界生活などはないと思う心が悪を発生する事になる。
 然るに如何程悪運強く、一時は成功者となっても、長い眼でみれば必ず何時かは没落する事は例外のない事実である。
 第一悪を犯した者は、年が年中不安焦躁の日を送り、何時何どき引っ張られるか分からないという恐怖に怯え、良心の呵責に責められ、終には後悔せざるを得なくなるものである。
 よく悪事をしたものが自首したり、捕まってから返って安心して刑罰にあう事を喜ぶ者さえある事実を、我等は余りに多くみるのである。
 それは即ち神より与えられたる魂が、神から叱責さるるからである。
 何となれば魂は霊線によって神に通じているからである。
 故に悪を行う場合、完全に人の眼を誤魔化し得たとしても、自分の眼を誤魔化す事は出来ないから、人間と神と霊線で繋がっている以上、人間の如何なる行為も神には手にとる如く知れるからで、如何なる事も閻魔帳に悉く記録さるるという訳である。この意味に於いて悪事程割の悪い事はない訳である。
 併し乍ら世の中はこういう人もある。
 悪事をしようとしても、もしか行り損なって世間に知れたら大変だ、信用を落とし非常な不利益となるから、という保身的観念からもあり、悪事をすればうまい事とは知り乍ら、意気地がなくて手を出し得ないという人もあり、又世間から信用を得たり、利益になるという観念から善を行う功利的善人もある。
 又人に親切を行う場合、こうすれば何れは恩返しをするだろう──と、それを期待するものもあるが、このような親切は一種の取引であって親切を売って恩返しを買うという訳になる。
 以上述べたような善は、人を苦しめたり、社会を毒したりする訳ではないから、悪人よりはずっと良いが、真の善人とは言えない。
 先ず消極的善人とでもいうべきであろう。
 従ってこのような善人は、神仏の御眼から見れば真の善人とはならない。
 神仏の御眼は人間の肚(はら)の底の底まで見通し給うからである。
 よく世間の人が疑問視する“あんな好い人がどうしてあんなに不幸だろう”などというのは、人間の眼で見るからの事で、人間の眼は表面ばかりで肚の底は見えないからで、この種の善人も詮じ詰めれば「見えざるものは信じない」という心理で、何等かの動機に触れ、少々悪事をしても人に知れないと思う場合、それに手を出す憂いがある以上、危険人物とも言える訳である。
 これに反し見えざる神仏を信ずる人は、人の目は誤魔化し得ても神仏の眼は誤魔化せないという信念によって、如何なるうまい話と雖(いえど)も決して乗らないのである。
 故に現在表面から見れば立派な善人であっても神仏を信じない人は何時悪人に変化するか分からないという危険性を孕んでいる以上、やはり悪に属する人と言えよう。
 以上の理によって真の善人とは「信仰あるもの」即ち見えざるものを信ずる人にしてその資格あり──というべきである。
 故に現在の如き道義的観念の甚だしき頽廃を救うには、信仰以外にないと思うのである。
 そうして今日まで犯罪防止の必要から法規を作り、警察、裁判所、監獄等を設けて骨を折っているが、これ等は丁度猛獣の危害を防止する為檻を作り、鉄柵を取廻らすのと同様である。
 とすれば犯罪者は人間として扱われないで獣類同様の扱いを受けている訳で折角貴き人間と生まれ乍ら、獣類に堕して生を終という事は、何たる情けない事であろう。
 人間堕落すれば獣となり、向上すれば神となるというのは不変の真理で全く人間とは「神と獣との中間である生物」である。
 この意味に於て真の文化人とは、獣性から脱却した人間であって、文化の進歩とは獣性人間が神性人間に向上する事であると信ずるのである。
 従って、神性人間の集る所───
 ──それが地上天国でなくてなんであろう。
 
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信仰とか宗教とか言われると嫌遠する人も多いかと思います。
なんか怪しい宗教団体を思い浮かべますよね。
一口に信仰、宗教と言ってもカルト宗教等は論外です。
なんせ邪神は神のフリをして人間を苦しめるのが大好きですから。

別に特定の宗教に入らないと信仰出来ないなんて事はありません。

空を見上げて、この広い空から神様が見ているんだと思えばいい。
ほら、この写真なんてカッッと見開いた「神の眼」に見えません?
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何時でも神様が見ている。

そうすれば小さなゴミひとつ落とすことも気が引けるものです。
なので私のカバンのポケットにはゴミ用の小さな袋がいつも入ってます。
友達と食べ歩きする時とかあると便利なんですよね。
有難いことに、私の友達にゴミをポイ捨てするような不心得者はおりません。

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先日、神社に行ったときに撮影したご神木。
美しいですよね。
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昨夜、26日は神鳴が凄かった。
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これ、光った瞬間です。
稲妻も凄かったから撮影したかったけど、スマホではこれが限界でした。
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左上の尻尾が稲光です。
光った! と思ってシャッター押しても遅い。
やっぱりプロは凄いですね。
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太陽のガッツポーズ💪


「地上天国 打樹(うちた)つるまでのいと深き
        仕組にありぬ長き歴史は」

「幾万年 待たれ給いし大神の
       仕組は今し成らんとすなり」

「火と水と 土との経綸(しぐみ)ありやかに
       眼(まなこ)に映る時は来にける」

「小さなる 人の眼に映らめや
       大天地(おおあめつち)を釐(ただ)す仕組の」