それは「機会」だ。

まずは、引き継ぐべきものを「価値観」だとしてみようか....
価値観とは、●そういう発想で ●そういうことを大切に思っている人がいる ということしか引き継げない。

「四季を大切にしなきゃいけない!」... それをそのまま引き継いだところで一体何を価値があると言うのだろう。(もちろん“四季”でなくてもなんでもいいが。)
それを引き継ごうとする行動がもたらしているのは ①それを主張する人の一部がわかる ②そういう概念の存在を知ることができる ③その概念の中身がわかる ということだ。

確かに、存在を知ることで自己の中にその概念が着地できるチャンスを増やしてはいる。
しかし、それを教えまた、引き継ぐことよりもずっと、当人の中で着地することのほうが難しい。

着地をさせるためには、それを経験または実感させなければならない。
この世の概念とは皆、コミュニケーションや他者に係っており、自己以外からの自己へのアクセスによって自己を知り、相手を知る。「自分とは・・・」がすべて教科書(“人生の”含む)から引っ張ってきたもので形成されている自己など... 自分である必要すらない。

そして、その様な社会生活含むコミュニケーション全般から学ぶしかないとして・・ ところがそれは自分の都合や望み(つまり想定内)の通りにはいかない。

→大切なのは機会にあるということ。



今のようなハヤりの「失敗をしない人生」とは、全く、人生などと呼べるものは始まってもいない
そんな人生とは、「人類生」と呼ぶのがふさわしい。それは人類という... つまり生物種以上に価値のある人生など送っていないからだ。

人生と呼ぶものの価値とは、失敗から立ち上がることややり直すこと、これまでの関係を修復すること、自己以外の誰かと共に歩むこと(夫婦じゃなくっていいんだよ、仲間でも十分だ。)つまり利害血縁服従以外の関係性を築けることにある。
※血縁もまた... 救い救われる大切な関係だが、それは動物も変わらない。人間の救い-救われ方とは、命のことではなくコミュニケーションのことだ。



教育の効果や意義については(これまで55ではほっとんどそこには触れてきていない。)、●過去の悲しい失敗を繰り返さないためだったり ●より良い未来を築くためだったり ●各個人が社会の中で生きていくためのコミュニケーションツールの取得だったり ●論理的に物事を考えていけるためのトレーニングだったりしている。

では逆に、教育を受けなければ過去のような悲しみの多い社会に戻ってしまうだろうか....

途上国(飢餓国)で叫ばれている教育は、悲しい現実を切り開いていける希望だったり、具体的な手段が見えるようになることの意義は大きい。
ところが、この様な(日本のような)安全で快適な国家にあっては、その様な意味での教育は該当しない。

日本における教育の何よりの効果とは、このように理不尽にも強制されて授業を受けなければならず、集団に適応しなければならない・・ この仕組み自体の影響が一番に大きいことだ。
次に、他者を知り、そしてコミュニケートしていくことだろう。

他者を猛烈に知りたいと思う関係(恋人など)や、集団の中で生きていく方法・・・ そのようなものでも、自己を知りまた論理的に考え、答えを見つけていく術を学ぶことは出来るのであり、それは教育の内容自体が及ぼすであろう効果の半分くらいを取得することができるだろう。
※だからといって、それを目的とした教育方法を取るのはダメだ。それは別の話し。それは今までの55主張でさんざん議論してきている。

「人は前姿で知り、後姿で学ぶものだ。***55政党」とは、結局知識や教養で知り、存在や関係から学ぶということ。
結局何が言いたいか.... それは価値観の強要や正義が横行していることの間違いを指摘するここ一連の流れに与する話しだ。