第1章 ビールの歴史を巡る

 

或る夏の、日曜日の朝、札幌の「旧道庁赤レンガ館」前に、

「腰抜け探検隊」のメンバーが集合した。

 

いつものように、林からの誘いで、集まったのだが、

この日は、朝から気温も高く、全員タオルを首に巻いていた。

林の挨拶が始まった。

「本日は、暑い中お集まり頂き、有難うございます。

今回のテーマは、「開拓使とビールの話」です。

暑いですが、午前中お付き合い頂ければ、

昼は冷たいビールと、美味しいジンギスカンが待ってます。

まずは、本日の講師をご紹介します。

開拓使の歴史と、当時の人物たちに詳しい「田中先生」です。

先生は、「村橋久成」と言う名の、薩摩藩出身の侍の生き方を通して、

当時の「開拓使麦酒」の創成期を「残響」と言う題名で執筆されました。

では、先生から一言。」

と言って、先生にハンドマイクを手渡した。

 

「只今、ご紹介頂きました田中です。

今年90歳を迎える年寄りですが、

本日は宜しくお願い致します。」

と元気な声で、挨拶をした。

 

まず一行は、「旧道庁赤レンガ館」の横に在る石碑に移り、

田中から配られた、コピー資料の写真を見た。

そこには、少しセピア色の洋風建築の建物が写っていた。

「これが、完成当時(明治6年)の、初めての開拓使の建物です。

復元した物は、現在の「開拓の村」に有りますが、

これが本物の写真です。

当時の札幌は、開拓使が置かれたと言っても、

何にもない原っぱの様でした。

見ての通り、この建物の背景には、何も写ってません。

そこに、いきなり、このような立派な建物が出現したのです。

当時の人は、さぞ驚いたことでしょう。

残念ながら、この建物は木造だったので、

その後、火災に会い、焼失してしまい、残ってませんが、

その跡が、ここです。」

 

その説明を聞き、歴史好きの伊達隊員が、

「だから、場所が少しずれているんですね。

それにしても、先生、この資料は凄いです。

よくも、ま~あ集めたものですね。

今まで、見たことが無いものばかりです。

特にこの当時の地図は凄い、どこで手に入れたんでしょう?

これを見ると、いまの札幌からは、想像できない変化です。」

と驚きと、称賛の表情で質問した。

 

これに、ニッコリと笑って、田中が答えた。

「よく解りましたね。

実は、北大の図書館で、発見したものです。

あそこには、まだまだ、色々残ってますよ。

大体初めて、この道庁の建物が出来た時は、

まだ、鉄道が走ってない。

 

現在の札幌の街は、碁盤の目ように、

南北は、大通公園を中心に北側は北何条、南側は南何条とし、

東西は、創成川を境として、西側を西何丁目、東側を東何丁目と、

東西南北が、分かり易く表示されています。

テレビ塔がランドマークで、ゼロポイントですね。

 

この地図を見ると、すでに原型が有った事が分かります。

繊維産業を興す目的で、養蚕業の為植えられ、

桑の木畑が沢山あった、現在の「桑園駅」一帯や、

その後豊平に移った、農産物の「りんご畑」や、

近くの「ブドウ園」や、「ホップ園」、

羊毛生産の為、羊を飼育していた牧羊場などが、

この道庁周りに在ったと記されてますが、

その内容は時代と共に、大分変化してますね。」

と田中の説明は、明解だった。

 

これに続けて、田中から参加者へのクイズがあった。

「さて皆さん、現在に地図を良く観ると、

北6条通りは、東西に繋がってません。

どうしてでしょう?」

 

これには、林が答えた。

札幌駅が在るからでは、無いでしょうか?

昔は北6条通りも、繋がっていたのでしょうが、

鉄道が敷かれ、線路と駅を作る為、利用されたのでは?」

と、返答すると、

 

「おそらく、そうでしょう。

現在線路の北側には、北海道大学の広いキャンパスがありますが、

以前はもっと広大で、駅の北側、「競馬場」から「創生川」まで、

南側は、現在の「植物園」まで、続いていた事が判ります。

昔の事なので、広い北海道、土地の境目も漠然としていて、

大らかだった事でしょうが、この間を鉄道が走る事になった。

手を挙げれば、途中でも乗せてくれたと、

冗談になるくらい、のんびりしていた時代だったそうです。

私も国鉄職員でしたから、この類の話は沢山有ります。」

と、田中は、笑って答えた。

 

話は尽きないが、次に進む事になり、一同は赤レンガ館の中に入った。

何回来ても、館内の造りは興味深い。

入口の石階段の、一段一段の高さには、少々苦労するが、

中の階段は広く作られており、幅広いがっしりした木造の手すりは、

重厚感があり、落ち着いている。

それに呼応するような、天井の高さは、西洋の城の内部の様だ。

2階に上がり、展示室を過ぎて、旧知事室に入る。

そこの壁には、開拓使時代からの、歴代の知事の肖像画が飾られ、

部屋の奥には、大きな机が鎮座している。

 

田中は、その後ろの窓辺に、皆を集めた。

「ここから、真っすぐに続く道が、北3条通りです。

古いガラスで少し歪んで見えますが、皆さん良く見て下さい。

この通りが、明治政府の「開拓使」が心血を注いだ、産業街道です。

北3条通りは、ここから始まり、、創生川の向こうに、

「ビール工場」「ワイン工場」などが、創設されたのです。」

と指さす方向を、全員が注視した。

 

ここで、グルメ担当の小田隊員が、本日初めて口を開いた。

「やっと、ビールやワインの話が、出てきましたね。

やっぱり札幌は、日本のビールの発祥地、故郷ですよ。

ドンドン進んで、早くビールとジンギスカンへ行きましょう。

今日は、暑いので、ビールが美味いですよ。」

と、勝手な事を言い始めた。

それを聞いて、慌てて林が、

「小田さん、まだ早いですよ、これから実際に北3条通りを歩いて、

かつてビール工場があった場所へ、歴史散策へ出かけますよ。

暑さを我慢して、喉がカラカラに乾いた方が、美味しいですよ。」

となだめて、一同レンガ館を出て、北3条通りを、歩き始めた。

少し行くと駅前通りと交差し。左に札幌駅が見える。

またもう少し行くと、右に曲がれば、時計台、

その先には市役所が在り、大通公園に出る。

 

田中は歩きながら、北海道と札幌の歴史を説明し始めた。

 

「先程の赤レンガの歴史資料を見て、皆さんも良くご存じの通り、

北海道は、津軽海峡を隔てて、本州とは違う歴史が在った。

本州のいわゆる弥生時代は存在せず、縄文時代が長く続いた。

その後はずっと、アイヌ民族の土地で在ったと言っても良い。

江戸時代は、道南松前に松前藩があり、江差でニシン漁、

また北前船の寄港地として、高田屋嘉平が函館に港を作り、

海産物の輸送の為に、本格的に和人(本州人)が、住み始めた。

当時、函館以北には、沿岸部のいくつかの港を除いて、

和人はおらず、船で行けない、内陸部は問題外だった。

 

しかし、江戸時代後期に、西洋では産業革命が興り、

列強諸国は、植民地を求めて、アジアを目指した。

北からはロシア、南からは英国・仏国などが、

水と食料の補給を理由に、寄港し始めた。

そして太平洋の向こうからも、米国が迫って来た。

当時鎖国をしていた江戸幕府も、列強の要求に耐え切れず、

通称条約を結び、開国する事になるのだが、

中国が「アヘン戦争」で英国に敗れ、香港を取られ、

植民地化されそうなのを知り、国内で「尊王攘夷」が高まった。

その先陣を切った、長州や薩摩が、列強の武力に勝てず、

その後は逆に、西洋文明を学ぶ為に、留学生を送った。

そんな中、ついに幕府の権威が落ち、天皇の錦の御旗の下に、

薩長の倒幕運動が始まり、戊辰戦争となり、

長期に渡った江戸時代が終わり、明治となった。」

ここで一息ついて、話はまだ続く、

 

「明治になり、ロシアの南下政策が、活発になり、

それに危機感を抱いていた政府は、北海道を守る為、

また新天地の開発の為、「開拓使」を札幌に置いた。

そして、その運営を、薩摩藩出身の黒田に任せた。

黒田は、、全国から「屯田兵」を募集し、この任を与え、

また、高額な給料を払って「お雇い外国人」を招聘して、

「農学校」では人材育成を始め、新しい産業を芽吹かせた。

 

この事業の担当者が、「村橋久成」だ。

村橋は、薩摩藩島津家の、代々家老職を継ぐ家系の出身で、

藩命を受け、幕府に知られずに、偽名で英国留学をしていた。

この間、国内では戊辰戦争になり、それを知って急遽帰国し参戦、

函館戦争では、五稜郭に籠る榎本武揚を、降伏に導いた1人だ。

それ故、黒田からの信頼も厚く、一連の事業を任された。

「開拓使麦酒醸造所」(ビール工場)は、その内の一つで、

現在でも続く、村橋の偉業と言っても良い。」

と長い歴史を、一気に説明した。

 

この話を聞いていた探検隊メンバーは、

全員、その博識と熱意に圧倒された。

特に歴史好きの伊達は、感激し、尊敬の眼差しで田中を見つめた。

グルメ担当の小田は、やっとビールの話が出て来て、安心した様子。

 

そして、今まで資料を熟読しながら、静かに同行して来た斉藤は、

「開拓使の象徴は、北を目指す者が道標とする北極星、

赤い「五稜星」ですが、「七稜星」も有ったと聞きます。

どうして当時は「五稜星」ばかりなんでしょう?」

と質問した。

 

すると、田中は、

「良い質問ですね。その通り、「五稜星」と「七稜星」の2種類あります。

「五稜星」は、函館の五稜郭を設計した武田斐三郎の門下生である

蛭子末次郎が、黒田の命を受け作成し、開拓使で正式に承認された物、

一方、「七稜星」は、黒田自身が、数か月後に言い出して、改定を求めた物、

結局、決めたばかりの事を、直ぐ訂正するのは、良くないという事で、

「七稜星」は幻になりましたが、開道100周年の公募で、

正式に承認され、約90年振りに復活しました。

それが、現在の道庁の上に、掲げられた、旗に使用されています。」

と答えた。

 

これにも、一同納得し、感心した。

「星の話が出たので、ちょっと「時計台」へ寄ってみますか?

あの建物には、星のマークは何カ所付いているでしょう?

これが、次のクイズです。」

と続けて田中が、言い出したので、一同「時計台」へ向かった。

 

札幌市民には、知ってるけど実際に中に入った事の無い建物で、

観光客には、有名な場所だが、思ったより小さく、

日本三大がっかり名所と冷たい目で見られているが、

いざ中に入ると、結構興味深い物が展示されている。

元々、札幌農学校(北大)の演舞場として造られた建物で、

2階のホールは、イベントや、コンサートにも使用されるが、

自重式の時計は、現在日本では珍しく、古い歴史を感じる。

今でも現役で、時を刻み、市民に時報を伝えてくれている。

1階の展示室は、鐘の音の資料の他に、面白い資料が有る。

特に農学校関係の、資料は興味深い、中でも珍しい物に、

当時の夕食会に出した、料理メニューの実物大レプリカだ。

 

これに飛びついた小田は、

「こりゃあ面白い、当時はこんな食事を出していたんだ。

ジャガイモ、ニンジン、野菜が入ったシチュー

パンや、ステーキもある。今のレストランと同じだ。

当時の人も、こんな料理を食べていたんだなあ。

栄養の有る食事を取り、鍛錬をして体力をつけ、

小柄な日本人が、大柄な西洋人と対等に戦える為に、

まさに、「富国強兵」政策だ。」

と、しきりに感心していた。

 

一同の見学が終わり、田中は、

「さあ皆さん、楽しんで頂けた様で何よりです。

ところで、星の数はいくつあったでしょうか?」

と聞いたが、誰も答えられず。

田中が、

「正解は17個です。」

と言うと、林が

「そんなに有ったんですか。

他の事に夢中になって、数えるのを忘れていました。

いつも市役所へ行く時、この前を通りますが、

入ってみると、結構面白いですね。

おっと、予定時間が遅れてますので、

次の星のマークのある場所へ行きましょう。」

と言って、また北3条通りに戻り、ツアーを続行した。

いよいよ、創生川を越え、東地区に入った、

 

地図を見比べながら歩いていた伊達が、

「この地図にある「札幌病院」、これが今のJR病院か、

昔から、ここは病院だったのか。

もう少し先へ行くと、「ビール醸造所」の跡地、

今は商業施設になってる場所ですね。」

同じく地図を見ながら、斎藤も

「なるほど、赤レンガ館から、真っすぐだ。

昔は高い建物が無かったので、知事室から見えたかも?

あの煙突は、絶対に見えたでしょう。」

小田も歩きながら、

「やっと、ビールが飲めそうだ。早く行きましょう。」

一同、歩く速度が、早くなった。

林も

「あそこが、レンガ館、大小2つ在るけど、小さい方が古いらしく、

大きい方の中は、3階になっています。

両方とも、外壁に、赤い星のマークが有るのが、見えるでしょう。

古い窓枠には、鉄製の星のマークが、埋め込んでますね。」

そうこうしている内に、目的地に到着した。

 

一行は建物と煙突に囲まれた、広場に出た。

そこで田中は、

「皆さん、この煙突が歌にも出てくる有名な煙突です。

「真っ黒け節」という歌で、

真っ黒けのけ、真っ黒けのけ、

ビール工場の煙突は、

黒くて、太くて、大きくて・・・

と市民に謳われました。

当時、高い建物があまり無かったので、

札幌駅が近づくと、汽車の窓から、ハッキリ見えて

もうすぐ札幌駅だ、と実感したものです。

私も国鉄職員時代は、車掌をやっていたので、よく覚えています。」

 

田中の実感のこもった説明を受け、林が、

「なんか、独特の匂いがしますね。

これは、ビールを作っている時に出る、ホップの匂いですか?

この工場はとっくに閉鎖されたと、思ってましたが」

と聞くと、

「そうなんです。ここが国産ビールの発祥地という事で、

それを記念し、数年前に「ミニブルワリー」を作り、

当時の味を再現したビールを生産しています。

ビールの歴史の話をすると、

明治9年に、村橋はここに、開拓使のビール工場を創設しました。

札幌農学校の創設と同じ年です。開拓使が置かれて、7年目です。

完成するまでの間に、いろんな事が有りました。

実は、東京の開拓使本庁にいた黒田は、その青山の敷地に、

ビール工場を建設すると、決めていたのです。

これを聞いた村橋は、開拓使のビールは札幌で作るべきだと、

黒田に決定を覆すように、嘆願書を送り続けた。

北海道で造る、利点と将来性を、再三に渡り説明したのです。

例えば、原料の供給、上質な水、そして冷却する氷の確保など、

その思いが通じて、最終的に札幌で作る事になったのです。」

 

田中の説明を聞き、小田は

「村橋が居なかったら、ビール工場は東京の青山辺りで造られ、

「青山ビール」になっていたかも知れないという事ですね。」

と冗談を言ったが、田中はニッコリ微笑んで、説明を続けた。

 

「また、工場が完成して、生産に入ってからも、大変でした。

やっと出来たビールを瓶に詰めて、東京に送ったが、

途中船の中で栓が外れ、空っぽだった。

初めて出来たビールの味見をしようと、政府要人を集め、

楽しみに待っていた黒田は激高し、再度送らせたが、

これも空だった。

打栓技術も、改良しなければならなかった。

やっと中身が入った状態で、届いたビールの味は、

とても評判が良く、外国人にも受け入れられた。

次は販売だ。

当時はまだ、大量生産が出来ないのと、原料が高いので、

販売価格は高価にならざるを得なかった。

また、販売先にも問題があり、酒店で販売出来ず、

滋養強壮に効く飲み薬として、薬屋で売っていたらしい。

 

ビールが一般大衆に受け入れられ、一般化するには、

ドイツやイギリスの様に、気楽に飲める場所、

つまり「ビヤホール」の普及が大事だった。

狸小路にビヤホールが出来、人気が出るまでは、

まだまだ時間が必要だった。」

と田中のビールの話は一先ず終了した。

 

話を聞いていた伊達が

「先生、今までビールを造った人の話が出ると、

中川清兵衛の名前しか、出て来なったんですけど、

村橋の名前は、急に出て来たんですか?」

と質問した。

すると、田中が、

「そうなんです。もちろん中川が居なかったら、

美味しいビールの完成は、難しかったでしょう。

新潟出身の中川は、一人でドイツへ行き、ビール造りの修行をして、

マイスターの称号まで取得した、優秀な職人ですから、

味造りには、彼の功績も大きいのです。

一方、村橋の方は、開拓使の役人で、事業遂行した人間です。

村橋は、他の事業にも関わり、それらを成功させる事だけを考えていた。

その為、事業の成果や、記念写真を撮り、報告をする立場でした。

ですから、彼が写っている写真は、ほとんど無いのです。

それに加えて、最大の理由は、「開拓使払下げ事件」です。」

 

そこまで説明すると、今度は斉藤が、

「あの有名な事件ですか?

黒田が開拓使の事業を、ただ同然の価格で、

売り飛ばした件ですね。」

 

これに応えて田中が

「それです。開拓使は明治2年に開設され、当初10年計画でしたが、

明治14年に黒田が、事業を引き継いでくれるならと、

破格の金額で、民間会社へ売り飛ばしてしまったのです。

これは大きな事件となり、結局翌年、開拓使は廃止されました。

この事件に、村橋は、大きな打撃を受けました。

自分が心血を注いで、やってきたものが、全て人手に渡り、

ただ同然で売られるのです。村橋はさぞ無念だったでしょう。

結局、村橋は開拓使を辞職して、放浪の旅に出て、

開拓使の歴史から、忘れられてしまいました。

高潔な侍としての生き方が、そうさせたのでしょう。

 

最期は、神戸の路上で倒れ、死去しました。

急遽、村橋の死を知った、当時の政府要人達は、

彼の死を悼み、葬式に参列しました。

その時の香典帳が数年前に、偶然見つかり、

記帳された名前は、明治の有名な偉人ばかりでした。

村橋の子孫は、祖父の功績など、全然知らなかったので、

大変驚いて、祖父の功績を認識したという事です。

それほど、村橋の晩年は、誰にも知られず、謎でした。

ですから、私が本にして、一人でも多くの人に、

村橋の生き方を、知って貰おうとしています。」

と結んだ。

 

すると小田は、

「僕たちが、普通にビールが飲めるまで、色々大変だったんですね。

村橋さんのお陰で、美味しいビールが飲める事に、感謝しましょう。

ところで、ビールを造っている人は、味見が出来て良いですよね。」

と言ったので、

田中は、

「出来立てのビールが一番美味しいので、そう思う人が多いけど、

工場の従業員の社則には、今でも「盗飲禁止」の条項があり、

これに違反すると、首になるそうです。

しかし、この工場が老朽化の為、閉鎖され、

このレンガ館の改修工事が始まり、内部を調べていると、

2階の天井裏に、古いビール瓶が数本見つかったそうです。

中身が入ったままだったので、誰かが隠した物と考えられる。

人間の考える事は、今でも同じですな。ワッハッハー」

と笑って、付け加えた。

 

話が一段落したので林が、

「皆さん、今日は珍しくまじめに、話を聞いてくれてますね。

こんなに、皆さんがメモを取り、真剣なのは、初めてですよ。

田中先生の博識と解説には、改めて感謝申し上げます。

でも、聞いた話が、いっぱい過ぎて、私の頭はぐちゃぐちゃです。

そろそろ、時間ですので、ビール園へ行って、皆さんお待ちかねの、

ビールとジンギスカンとしますか?」

 

小田も大賛成で

「そうしましょう。やっと、ビールが飲める。

ここから歩いて、JRのガードをくぐるのが、最短ルートです。」

今度は小田が先頭になり、一行を引率して、足早に進んだ。

 

目的地に着くと、田中が、

「ここビール園は、開拓使ビールの、第2工場でした。

ここも既に閉鎖され、新工場は恵庭に移りました。

新工場もJRから見えますよ。

東京の恵比寿駅も、ビールの名前が、そのまま駅名になった様に、

恵庭も、ビール庭園駅と命名されました。

昔は、輸送関係は鉄道に頼ってましたから、

鉄道とビール工場は、関係が深かったようです。

此処には、敷地内に「ビール博物館」が有りますので、後で見て行って下さい。

私が今日説明したことが、全て写真や図表付きで、展示されてます。

まずは、美味しいビールを味わいましょう。」

と付け加えた。

 

一同は、大きなレンガの建物に入った。

ジンギスカンの匂いが蔓延した、大きなホールには、

2階を含め、2~3百人が入る、多数の席があるが、

昔工場で使用していた、蒸留釜のオブジェに近い席に着き、

生ビールで乾杯、肉や野菜を焼き、食べ始めた。

野菜を敷いてその上に肉を置く、「蒸し焼き方式」と、

肉や野菜を、そのまま直に焼く、「直火方式」と、

どちらが良いかとか、

肉は、昔ながらの「丸いマトン」が良い、

いや、柔らかい「生ラム」が良いとか、

好き勝手な事を、言い合いながら、

熱い中を市内見学して、歩き回ったので、

一同は直ぐに、何度かビールのお代わりをしたところ、

 

伊達が、話始めた。

「この「ジンギスカン食べ放題・飲み放題」という、

システムを考えた人は凄いですよね。

最初は、食べ放題・飲み放題にしたら、

無茶苦茶に、食べられて、店側は大赤字になると思いましたが、

人間、食べられる量は、決まっているし、限度がある。

また、いくらビールは飲んでも、これも限度がある。

美味いことを考えたものだ。」

 

斉藤も続けて

「だけど、このシステムを始めた頃は、余り宣伝しなかったのか、

理解してもらえなかったのか、初日は、何と僅か3組だった。

また、ビールのお代わりの最高記録は、或る有名プロレスラーの、

大ジョッキ50杯ぐらいと、聞いた事がある。」

 

林も続けて

「ビール会社の話によると、ビールの販売価格の半分位は税金で、

また、その残りの、半分位が広告宣伝費らしいので、

私たちは、大いに飲んで、税金を納めて貰い、国に貢献、

また、大いに食べて、帰ってから、自慢して、宣伝にも協力している

ことに、なるかもしれませんね。」

 

小田が続けて、

「ここもそうですが、札幌周辺地域では、

羊肉を焼いてから、たれを浸けて食べますが、

滝川などでは、前もって、たれに充分漬け込んでおいた肉を、

焼いてそのまま食べますよね。

僕は、どちらの方法でも、美味しく、頂けるのですが、

「浸けダレ派」と「漬け込派」、どちらも、持論を譲らないそうです。

広い北海道は、地域ごとに、食べ方や味付けが違うので面白い。

他にも、焼き鳥では、

鶏肉を塩味で楽しむ「美唄焼鳥」と、

豚肉なのに焼鳥と呼び、醬油ダレで食べる「室蘭焼鳥」

この両者の戦いも面白いですね。」

と話が、どんどん広がり、楽しく時間が過ぎて行った。

 

頃合いを見て林が、

「皆さん聞いて下さい。

本日はビールの物語を中心に見学ツアーをしました。

旧道庁赤レンガ館、時計台、ビールの旧第一工場、

そしてここ、旧第2工場だった場所には、

全ての建物に、赤い星のマーク(五稜星)が有りました。

全て共通して、開拓使に関係有る建物ですから、

有って当然ですが、本日行かなかったところが有ります。

それは何処でしょう?」

お腹一杯でビールのアルコールも効いている性か、

中々反応がない。

 

やがて、地図を見ながら、考えていた伊達が、

「わかりました。3つ発見しました。

1つ目は、昔から場所も形も変わらない「偕楽園の清華亭」

2つ目は、場所は変わらないが、建物は大分変化した「札幌駅」

そして、最後の3つ目は、

昔は「時計台」の近くで有ったが、今は中島公園に移った「豊平館」、

この3つでしょう?」

 

この返事を聞いて、田中が

「よく分かりましたね。これは難問ですから、無理かと思ってました。

今出た3つは正解です。現在でもハッキリ星のマークが見られる場所です。

しかし市内にはまだ有るんですよ。

私が今回林さんから、依頼を受けたテーマは2つ、

一つは「開拓使とビールの話」、

もう一つは、「五稜星を探せ」でした。

皆さん、楽しんで頂けましたか?

また機会が有ったら、この続きをやりましょう」

と言って、笑った。

 

最後に林が、

「先生からのこの説明で、本日のツアーは終了となります。

田中先生、本日は暑い中、大変面白い話を、色々して頂き、

本当に、有難うございました。

この続きは、是非またやりますので、いつまでもお元気でいて下さい。

 

皆さん、次回の「五稜星を探せ」ツアーもご期待ください。

ちなみに、今話に出た場所を繋ぐと、

札幌駅を中心とした、大五角形になります。

この図を参考に、次回までに、それぞれの考察を纏めといてください。」

と挨拶をして、閉会となった。