第二章

 

さて一週間が過ぎ、「コシタン」メンバーは、

再度「薮半」に集合した。

主人の好意で、開店前に場所を貸してくれた

まず初めに、林と小田が先週の土曜日に

唄子ママと「和光壮」へ行った経緯と、

その結果を報告した。

 

小川原は

「その話はすでに聞いている。

小樽は狭いから何をやってもすぐ知れる。」

そして永倉は

「警察が文句を言ってたそうだ。

外部の素人が邪魔するなと。

しかし所長は剣道好きで、

うちのじいさんの一番弟子だったので、

協力は歓迎しますが、程ほどにと言っていた。」

 

隊員一同は

「それじゃあ、僕らの行動は、

町中に知れ渡っていると言うことですか?」

「恐るべし小樽!。注意して行動しないと・・・」

「それでもすぐばれる。

この間、立ち飲み屋を三軒梯子したら、

次の日には、皆知ってた。」

「それは、別問題じゃないの?

どの店でもつまみに「春シャコ」を出せと

大騒ぎしていたそうじゃないか。」

「当然だ。人間は旬な食材を食べないといけない。

ラーメン屋を梯子した時も・・・」

それぞれが勝手なことを話し、

収集が着かないでいると

 

小川原が

「皆さんお静かに、話を進めよう。

「和光荘」での話をまとめ、整理すると

 

①  四代目に会いに来た二組の人物は何者なのか

そして、その目的は

②  書斎の机に入っていた地図は、何のために集めたのか?

その地図に印の付いている場所は、何を意味するのか?

そして。何故四代目は、オタモイで殺されたのか?

③  最大の難問は、「オルゴール箱」は、何処にあるのか?

またその中に、秘密は隠されているのか?

  

以上の事項が、

これからの課題になると思われるのですが、

  まずは永倉さん。これらをどうしますか?」

  

話を振られた永倉老人は

  「まずはお二人さんご苦労じゃった。

  唄子ママの協力にも感謝じゃ。

  警察は、状況から、結局自殺として、

四代目の件は、捜査を打ち切った。

しかし、我々はそう思わない。

四代目の無念を晴らすとともに、

我々で、犯人を必ず上げる。」

まるで捜査一課長の様な発言であった。

 

「それで具体的にはどうされるお積りですか?」

小川原の質問に老人は続けて

「まずは、来訪者二組の特定だ。

そしてその目的の解明だ。

これは唄子ママと協力して、引き続き、

林君と小田君に当たってもらう。

 

次に地図の分析、特に印の付いていた場所の

類似性、共通点を見つける。

これは残りの全員、松岡、伊達、斎藤の三人にお願いする。」

と「探検愛メンバー」に支指示を出した。

まるで編集長として部下を使うように

「そして、わしと小河原君は、オルゴールの秘密を探る。」

てきぱきと、現役時代を彷彿させる言動と気迫に圧倒され

全員が頷き、反論する者はいなかった。

 

早速「来客班」と「地図班」に分かれて、

それぞれの作戦をねった。

 

*「オルゴール班」

 

永倉と小河原の二人組は、永倉の話で始まった。

「あれからわしも、昔の記憶を思い出すよう

古い日記やアルバムを捲っていると、

爺さんが榎本から聞いた話に

ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世が、

明治二十四年(1891)に訪日した時の話だ。

小樽ではまだ鉄道が開通して十年くらいで、

やっと街づくりが始まったばかりの頃だ。

 

皇帝は日本に興味を持っていたらしく、

長崎から入国し、長崎の町を堪能し、

右腕に龍の入れ墨までしたらしい。

その後、鹿児島、神戸、京都へと進んだ。

ここまでは良かったのだが、

滋賀の大津で、事もあろうに、

警護をしていた元軍人の日本人に切り付けられた。

幸い大事に至らなかったが、

これ以来、ニコライは日本に対して、

酷く嫌悪感を持つようになった。

 

当時の明治政府の重鎮達(伊藤博文、山県有朋)は

大騒ぎだった。

青木周蔵や西郷従道は責任を取り、

大臣を辞職したぐらいだ。

強国のロシアが、中国東北部、朝鮮半島、日本へと

侵略する意思が有る事を知っていたからだ。

 

この結果をロシアが利用して、事を起こす恐れ、

犯人を直ぐに処刑するよう、

大審院(現在の最高裁)に命じた。

しかし、大審院の長官(児島・・坂本龍馬の友人)は

これに従わず、

外国(ロシア)におもねることなく、

あくまで国内法を適応して

司法の独立、三権分立を守った。

これが、世に言う「大津事件だ。」

ここまでをすらすらと言い切った。

 

ここで小河原は、

「永倉さん、「大津事件」」の事は判りました。

しかしそのニコライ二世は、どうなりましたか?」

と尋ねたが無視され、

 

永倉の話は独り言のように、まだ続く。

 

「このニコライ二世の帰国後、十年くらいして、

結局は「日露戦争」になり、日本がなんとか勝った

その後始末に活躍したのが榎本さんだ。

勝利した日本は、南樺太を領土にし、

その境界線を決める会議は、小樽でも開かれた。

 

その後ロシアは、第一次世界大戦に巻き込まれ、

国民の不満が高まり、

国内は社会主義運動が盛んになった。

ついにロシア革命が起り、

三百年続いたロマノフ王朝は廃止され、

ニコライ二世は、革命軍により銃殺された。」

 

まだ不満そうに、話を聞いている小河原に、

顔を向けて、

 

「そしてこれからが本題だ。

ニコライの趣味の一つに、

家族とオルゴールを聞く習慣があった。

その為に『二つのオルゴール』を作り、家族に与えた。

一つは皇太子に贈った、黒檀材に漆塗りした物

二つ目は皇妃に贈った、茶色のディスクオルゴール

二つともパリ万博にも出品された、世界的な名品だ。

現在のオルゴール箱のイメージとは違い、

その大きさは、キャビネットくらいあり、

簡単に持ち運びは出来ない。

この二つの『ロイヤル・オルゴール』は、

王朝が滅んだ後、一時行方不明だった。

革命軍が、消えた王朝の財宝を探した際に、

これらを何処かに移して、綿密に調べたが、

何も見つからなかったから、放置されていたのだろう。

その後、イタリアで発見され、アメリカへ渡り、

オークションで高額で取引された。

これが、ロマノフ家のオルゴールの顛末だ。

そしてこれからが核心だ。」

 

永岡は自慢有りげに続けた。

 

「今説明した『ロマノフ家のオルゴール』には続きが有る。

ニコライは、この二つの制作をスイスの職人に依頼した、

その後、それぞれのミニチュア版(シリンダ型)も注文していた。

これなら、手ごろな大きさで、

宝石箱にも利用でき、持ち運べる。

実はこの存在は、極秘事項で、

皇帝の信頼厚い、侍従に託された。

 

日露戦争で日本に敗れ、

国内情勢が不安定になり、

王朝の財宝であるダイヤや琥珀などの宝石を

守る為、このオルゴール箱に詰め、

皇帝命で侍従は国外へ脱出した。

当時は、欧州中も不安定だったので、

安全な場所を探して、東へと向かった。

結局その行き先は、皮肉にも、日本となった。

樺太から海を渡り、何とか小樽まで来た時に、

やっと榎本さんに会えた。

榎本さんを信じて、事情を説明し、助けを乞うと、

榎本さんは、秘密を守る約束をし、

当分の世話の手配までしてくれた。

それが、『北の誉』の初代だったらしい。

ここまでが、爺さんから聞いた話だ。」

 

長い物語が終了し、話す永倉も、聞く小河原も、

疲れて一息入れる為に、お茶を飲んだ。

 

「それは何時頃の話ですか?」と小河原が聞くと、

「日露戦争が終結し、一~二年経ってからだから、

明治40年頃だろう。」と永倉が答えた。

 

続けて、独り言のように、

その後、皇帝の侍従は、どうしたのだろう?

財宝を持って、また何処かへ行ったのだろうか?

長い旅路の果てに、やっとたどり着いたのが小樽だ。

国際的にも、信用できる榎本さんに託して

この小樽のどこかに、隠したのだろう。

それを知っていたはずの、榎本さんも翌年亡くなり、

爺さんも、詳しく知らないと言っていた。

 

すると、それを知っていたのは、

皇帝の従事の他、可能性が有るのが、

『北の誉』の初代だけ、ということになるな。

初代は、それを何処に隠したのか?

もし小樽に隠したとすると、

明治40年頃の、どこだろう?

 

そこで永倉は、自分の鞄から、小樽の年表を取り出し、

調べ始めた。

 

39年に竣工し、国境線会議に利用された

旧日本郵船の社屋は、実存していたが

財宝を隠すことが可能だったのか?

 

『宗圓寺』が移設されたのは、42年だった

その時に、五百羅漢も本堂に移された。

 

 公会堂は44年に完成、

皇太子行幸の際に利用された。

 

『和光壮』はまだ存在していない。

その後、建設されたのは、大正11年

 

オタモイの龍宮閣は、昭和9年の完成だ。

 

もっと前だとすると、手宮洞窟だ。

榎本さんは明治11年に学会に紹介している。

 

・・・・等々、自分の世界に入ってしまった。

 

その様子を見て、小河原は、地図班の三人に、

「永倉さんは、秘宝は小樽に隠されている、

と完全に信じ込んでいる。

暫く、そっとしておきましょう。

ところで、皆さんの方は、何か分かりましたか?」

 

*「地図班」

 

実は、和光壮の四代目の机に入っていた地図は、

一度警察に押収されたのだが、

警察が調べても、印の意味が分からず、

「小樽歴史研究会」の会長、小河原に協力が求められ、

その大量の地図の山は、

この会合に参加した、皆の目の前に在った。

 

それに反応して、地理に詳しい、松岡隊員は

「ここにある地図は、発見時から

いくつかのグループに、分かれていて

大別すると、近郊と市内の二つに分けられる。

またそれぞれが、四つのグループに分けられる。

 

まず近郊関係の資料は

A 北部は手宮から、高島・祝津

B 北西部はオタモイから、塩谷・忍路

C 西部は小樽商大から、天狗山・毛無山

D 南部は小樽築港から、朝里温泉

 

次に市内関係の資料は

①  北部は北運河から手宮まで

②  中心部は、運河から小樽駅までの海側地区

③  西部は、小樽駅の山側、小樽公園辺りまで

④  南部は、南小樽駅から南樽市場や宗圓寺まで

以上のグループに、分けられていました。」

 

続けて、歴史に詳しい伊達隊員が

「印の付いている場所は、

それぞれのグループに、数か所ずつ存在します。

 

近郊の部分では

A 鰊御殿(祝津)・高島港

B オタモイ・忍路環状列石

C 天狗山・フゴッペ洞窟

D 水源地・穴滝

 

市内の部分では

①  四大倉庫・交通博物館・手宮洞窟

②  旧日銀支店・旧日本郵船・旧三井銀行

③  小樽公会堂・小樽公園・小樽商大

④  銀鱗荘・宗圓寺・田中酒造

これらに赤丸が付いています。

全て、記念物や歴史的建築物です。

要するに、昔から存在したところですね。」

 

さらに続けて、レジャーに詳しい斎藤が

「近郊は海側から山側まで広範囲で、

車で30分から、1時間の範囲です。

市内は30分圏内で、徒歩でも回れますが、

山側は大変ですね。特に水源地から穴滝までは、

車で行けないので、片道2時間のハイキングコースです。

またオタモイは、小樽からも、塩屋からも海側ルートを

シーカヤックで、行った方が良いかも?

いずれにしても。これを全部当たるのは、

無理そうですね。

行くだけでも大変なのに、財宝を探す

時間と手間を考えたら、私達だけでは、

手に負えない。

目標を、もっと絞り込む、必要が有ります。」

 

地図の三人は頭を抱えて、黙り込んでしまった。

 

*「来訪者班」

 

唄子ママが居ないので二人での検討会の様子

まず、林が

「どこから手を付けたら良いのだろう?

まず頭を整理してみると、

二組のお客のうち、ロシア人らしき二人組は、

四代目を怒らせ、揉めたみたいだから、

何かを返して欲しいと、頼みに来たが、

断られた。ということになる。

それは当然、オルゴール箱だろう。

その中には、財宝の隠し場所が秘められていたから

と推理するのが妥当だが、

オルゴールの秘密を知っているとすると、

亡びたロマノフ王朝の、関係者しかありえない。」

すると小田が

「しかし、それは百年以上も前のことだから、

関係者の孫の時代ですよ。

しかも秘密にされた極秘事項だから、

ニコライ2世の末裔か、委任された侍従の末裔に絞られる。

皇帝の孫娘なら気品も有り、佳代さんが言ってた容姿にも合う。

男性の方は日本語が堪能で、その孫娘と一緒に来たのだから、

孫娘の信頼も厚く、その内容も十分に理解している人間だ。

当時の侍従の孫だとすると、3代に渡り、この秘密を守り抜き、

あえて何故今、孫娘を連れて現れたのか?」

続けて林が

「それと、もう一組の小説家らしき男。

これは一体何者なのか?

しかもロシア人らしき二人組の、すぐ後に来たということは、

タイミング的にも、財宝がらみの秘密を知っていたと

考えた方が納得がいく。

この秘密を知っている人間は限られ、しかも日本人では

榎本さんに頼まれた、北の誉一族に限られる。

 

もし初代が、当時の小樽を仕切っていた人物にも、

協力を求めていたら、関係者は多くなる。

当時の小樽は、日清日露の戦争が終わり、

海運業の船主組織や、倉庫関係者が幅を利かせ、

日銀や銀行関係も、どんどん進出していたころだ。

倉庫も金庫も、宝石などを隠すところは、無数にあったはずだ。

 

しかし、その辺は小樽をよく知る

榎本さんが、極秘に依頼した事項だから、

口の固い北の誉の初代が選ばれたのだろう。」

 

これに対して小田が

「いくら口が堅い、と言っても人間だから、

ふとしたことで、漏らした可能性が無い

とは言い切れないでしょう?

何かの会合で、お酒を飲んだ時とか、

たまにはあるでしょう。」

 

林も

「人間だから、そんな時もあるかもしれませんね。

その時たまたま聞いてしまった人間も

時間が過ぎれば、あれは戯言と、忘れてしまうのが

世の常ですよね。

しかし、それを真に受け、探した人もいないとは言えない。

もしそんな人がいたら、自分で探して見つからず、

ついに自分も、ふとしたことで、その話を漏らしてしまう、

もしそんなことが、自宅で繰り返されれば、聞いた子供が、

親父の小言の様に、憶えていて、

何かのきっかけで、それを思い出して、調べたのかも知れない。

もの凄く低い確率ですが、もしあったとしたら、大変ですね。

しかし、よっぽどの根拠と執着心が無ければ、普通は動きません。

何か重大な証拠が見つかり、核心を持ったらの話です。」

 

小田も

「確かに、そうゆうもんでしょう。

もしもそんな人が居たら、恐ろしいですね。

獏なんかは、そんな人とは会いたくもありません。

しかし、二組目の小説家らしき人が、そういう人間だったら?

小説家は変人が多く、人の話を聞かず、妄想に陥るらしいですよ。」

ははは・・・と笑いながら続けた。

やはり唄子ママと、もう一度和光荘に行って、

名刺を探した方が近道かもしれない。」

来訪者班の検討はこんな感じでゆるく終わった。

 

大分時間が経ち、それぞれの検討会が済み、

また全員での会議へとなった。

 

完全にこの事件の解決チームのリーダーとなった小河原が、

「諸君、各班の進展を発表してください。」

という言葉に続けて、それぞれの発表が終了すると、

要点をつぎの様にまとめた。

 

「永倉さんのお爺さんの話を整理すると、

*オルゴールは二つ存在した。

*ロマノフ王朝の財宝は、小樽のどこかに隠した。

榎本子爵がどこかに隠し、ロシア人従事を北の誉の初代に託した。

しかし、その翌年、榎本子爵が亡くなると、その行方はハッキリしない。

だが、オルゴールの中にそのヒントが有ると思われる。

 

地図を検討したが、小樽近郊、市内と印の付いた場所は沢山点在し、

歴史的文化財や建物が多い事は判明したが、絞り込むには、

四代目の意図は何かを探る必要がある。

 

来訪者の二組の正体はまだ不明だが、

ロマノフ王朝の末裔との関連が、深まる。

また、当時の侍従の子孫とも考えられる。

また小説家の正体は?

この財宝の件を、どこかで聞きつけた可能性がある。

 

以上の件から、今後どうするか、永倉さんご指示を」

 

永倉は、全員の顔を見渡し、

「事件は複雑だが、少し方向性が見えてきた。

 

わしと小河原さんは、榎本さんと初代の人間関係から、

オルゴールの流れをさらに調べる、

それを四代目が持っていた事情も

 

地図班は、壁にぶち当たっている様なので、

明日、来訪者班と一緒に、「和光荘」に行って、

二組の正体を突き止めて下さい。

夕方、またここで会いましょう。」

 

と、一人で決めてしまった。

誰も反対できずに、この日の会議は終了した。

 

 

(夕方、花園の「かすべ」にて)

会議終了後、探検隊メンバー五人は、自然とここに集まった。

何時もの様、ビールと鰊漬け、煮凝りのお通しを運びながら、

唄子ママは、今日も元気に

「今日は皆、大分疲れているみたいね。

何時もの様に、くだらない馬鹿話をして、

明るくやってよ。お通夜じゃないんだから」

まず林がビールを一気飲みしてから

「ママ、今日は本当に大変だったんですから。」

と言って本日の結果をママに話した。

「明日、和光荘で佳代さんに会えるかな?」

ママは

「さっき、小河原さんから連絡があったので、電話しておいたわ。

佳代ちゃんも、あれから探してくれたのだけど、

まだ見つからないみたいね。

とにかく、明日また探しましょう。

ドンドン飲んで、気分転換してね。」

というので、全員何時もの様に、飲んで騒いで、

酔いつぶれてしまった。

そのまま朝を迎えて、気が付くと、

全員、座敷で雑魚寝をしていた。

 

 

(また「和光壮」にて)

 

探検隊メンバーと唄子ママに囲まれて、女中の佳代は

「先週、皆さんがお帰りになってから、

家中をいろいろ探したところ、

書斎の本棚から、少しはみ出している

一冊の本を見つけました。

中に2枚の名刺が入っていました。

 

一枚は小説家『石川琢也』

もう一枚は、横文字で良く分からないのですが

『アレクサンドル・スパノヴィチ・・・・』

と説明して皆の前に、差し出した。

 

それを見て、歌子ママは

「これは凄い発見だわ!

佳代ちゃんお手柄よ。

これで訪問者の2人の正体が分かったわ。」

林も続いて

「やりましたね。本の間とは

しかし、この本の題名は

『小樽の倉庫群の歴史』

倉庫と何か関係が有るのだろうか?」

歴史に詳しい伊達は

「このページに在るのは

運河沿いの歴史的倉庫の説明だ

昨日の永倉さんの話では

問題のロシア人が来たのは明治40年頃、

ここに載っている広海倉庫・大家倉庫・小樽倉庫・右近倉庫は

全て20年代には存在していた。

また小樽~樺太間のシベリア航路は

明治29年に開始していたので、

航路を使い小樽に来て、榎本子爵と会い、その紹介で、

これらの何処かの倉庫に隠した可能性もある。」

 

「榎本さんが設けた、駅の近くの『龍宮神社』や

小樽の発展の為に、私財を投入して確保した

『梁川通り』地域の開発等、榎本さんの貢献度は高く、

鉄道建設も榎本さんのお蔭だ。

当時の小樽の住民なら、榎本さんに頼まれたら

誰でも、喜んで協力したでしょう。」

 

興奮して話す伊達を抑えて松岡が

「本の内容と隠し場所の可能性は判りましたが、

この名刺の2人は一体何者なのでしょう?」

 

これに応えて斎藤が

「石川・・と言えば確か、あの石川啄木が

明治40年頃、小樽に4カ月間だけ住んでいた。

小樽タイムズの記者で、優秀だったが、上司と揉めて

すぐ辞めたと聞いている。

もしも啄木が、ロシア人が来た時に

狭い町だから、話題のなっている噂話を嗅ぎ付け、

記者として、何か隠し場所の情報を、つかんでいたら・・・?

啄木自身は、その後釧路へ行き、一年位で北海道を離れ、

東京へ行ってしまい、数年後には亡くなっている。

同じ石川姓なら、孫かも?」

 

続けて小田が

「その外国人の名刺も、ロシアっぽいので、

皇帝の命令で財宝を隠しにきた、従事の子孫かも

なんせ百年前の事だから、関係者は皆、亡くなっているし、

永岡さんじゃないけど、皆んな、もう孫の代だから

従事の孫かも?」

その後も隊員たちの

ああでもない、こうでもない、雑談が続いたが、

唄子ママは、

「大体、今日の話は、まとまったわね。

これから、小河原さんの所へ行って、

成果を報告しましょう。」

ということのなり、

全員「『薮半』へと向かった。

 

店の奥の蔵の座敷には

永岡と小河原が待っていた。

唄子ママから報告を聞くと、

小川原が

「あそこの倉庫群は歴史が古い、

ロシア人が来たときは既に存在しており

度々の大火事でも、びくともしていない。

小樽では『北前船』時代からの船主が

次々と、屋根に鯱を乗せ、屋号を記した倉庫を建てた。

日露戦争の後は、小樽が急成長した時代だ、

特に西谷は『東洋一の回漕店』とまで呼ばれた。

 

また北前船の船主たちは重要書類や貴重品を

『船箪笥』に仕舞い、管理していた。

この箪笥は頑丈なだけでは無く、海に投げ込んでも、

水が入らない。そのうえ中身の盗難を防ぐため

二重・三重のパズルの様な工夫がされている。

 

これらの古い倉庫の奥に保管されている『船箪笥』に

財宝を隠していた可能性が大きい。」

 

これを受けて、静かに報告を聞いていた永倉は

「明治40年にロシアから来た皇帝の従事は、

榎本さんを頼ってロマノフ王朝の財宝をこの小樽に隠した。

榎本さんの指示で、回漕店の船主は、運河近くの倉庫の中に、

船箪笥に入れて隠し、その管理を北の誉の初代に任せた。

こういう筋書きだだな。

しかし、『和光壮』に訪れた2組は

一組は当時の新聞記者、石川啄木の子孫

もう一組は当時の、ロシア人従事の子孫

らしい事も判明したが、

何故、百年後に現れたのか?

どうして四代目の所へ来たのか?

そこが謎じゃな。」

 

そんな中、小田が独り言の様に

「そういえば、倉庫と言えば、先日新聞に

『消防犬ブン公』の記事が載っていたなあ。

今でも運河プラザ(旧小樽倉庫)の前に銅像があるでしょう。

渋谷のハチ公とはちょっと違うが、

こどもの頃、火事の焼け跡で鳴いていたところを救われ

大正から昭和にかけて、小樽の消防組の建物に住み着き

消防士たちにかわいがられていた犬で、

火事があるといち早く消防車に乗って出動し、 

その回数は生涯で優に千件は超えていたと言われ、

24歳という、犬としては長寿を全うしたらしい。

消防士の点呼では、一番最後にワンと答えた。

火事場の野次馬の整理や、消火ホースのよじれを歯で直し

歯が擦り切れたほど、消火活動を手伝ったとか

本当に役に立ったか知らないけど

死後も剥製となり、今でも小樽博物館(旧小樽倉庫)に

展示される位だから、相当人気だったらしい。」

 

その話を耳にした永倉は

「それだ、小田君

火事が多い小樽では、石造りの倉庫が定番だ。

また消防所が、定期的の防火点検をしていた或る時

ブン公が小樽倉庫の中で、何かを見つけて、動かない時があったと

当時の消防署長が『キャバレー現代』の会合で言っていたことがある。

それが倉庫の奥の『開かずの間』で、中を調べたが、

龍の金飾りが付いた古い船箪笥しか無かったらしい。

中を調べようにも簡単に開かないし、

埃が積もった、金庫の様に重かったらしい。

随分昔からそこに置かれ、所有者も判らず、

調べようが無いが、以前の倉庫の持ち主曰く、

代々の申し送りで、その船箪笥には手を触れない事

になっていたらしい。

当時の船主の掟は絶対だった。」

 

「それがいつの間にか無くなっていたらしい。

誰も気にしていなかった物だし、

相当重いので、泥棒でもなく、

第一、盗難届も出てないので、

持ち主が何処かへ移動させたのだろう

と思って、皆忘れていた。

それが昭和の初め頃だったと思う。

たしか、オタモイの『龍宮閣』が出来た頃(昭和9年)だ。

そこに移した可能性もある。

運河から、船でオタモイまで運べば、目立たない。」

 

この話に続いて林が

「ついに、『龍宮閣』の名前が出てきましたね。

私はこの件について一つの思い入れが有りました。

ロマノフ2世が長崎で入れた『龍の入れ墨』

榎本子爵が小樽に立てた『龍宮神社』

四代目が突き落とされた『龍宮閣』

皆、『龍』に関係が有るのでは?

 

その後、日本は戦時中なり、『龍宮閣』は人手に渡り、

戦後、昭和27年に焼失してしまった。

しかし、人手に渡る前にもう一度、どこかに移されていたら、

 

例えば『和光壮』とか?

隣にある小樽最古の名刹『龍徳寺』

当初は江戸時代から龍徳町(現在の信香町)に在り、

明治7年に現在の場所(真栄)に移る。

本堂内にある、日本最大の巨大木魚は昭和8年に寄進され、

『船絵馬』は、北前船の船主から寄贈された物として有名だ。

現在でも『小樽開運の地巡り』の

主要な場所として観光客が訪れる。

ここなら、毎日散歩がてら監視ができる。

ここに隠したら理想的ですよ。」

 

この話に次いで、松岡が

「隠し場所については、今の推論も有りうるが、

何故、二組の訪問者が今現れたのか?

百年前の話は、聞いていたとしても、

何故今なのか?

そこが問題です。」

 

永倉が

「四代目がこの二組に脅されていたとしたら、

どうだろう?

何かのきっかけで、この二組が、

財宝を狙っていたとしたとしたら、

当然ロシア人には、正当な権利がある。

しかし、石川啄木の子孫は何の権利も無い。

何故だろう?」

 

ここまで来ると、全員静かになり、

語る者はいなかった。

 

最後に唄子ママが、

「それと四代目が持っていたオルゴールの謎、

これが、問題よね。」

 

小川原が、

「そうだ、ロマノフ王朝のオルゴールは二つ在ったのだ、

四代目はそれを二つとも発見したのか?

そして、その中に何が在ったのか?

これが最後まで疑問だ。」

 

これ以上話が進まないので、

来週、またここで集合して会議をすることになった。

 

今日は全員が、かなり疲れていたので、

静かに解散して、自宅へと戻った。

 

しかし、この時、第2の殺人事件が起こっていた。