これは札幌を中心に活動する「或るグループ」の物語である。

特に趣味もなく、週末をゆるく過ごす、よくいる人種の集まりだ。

 

北海道内各地には、移住者や他人から何を言われようが、自分がこれと決めた事を、商売を度外視して、人から見れば「変わったこと」を懸命に傾注している人間(変人・達人)がいる。この種の人間は、近寄り難く、声も掛け辛い。しかし、何となく気に掛かり、出来れば話を聞いてみたくなる。

けれど一人でするのは怖い、何人か、皆で行けば怖くない。

 

そこで、数人で「屁っ放り腰」で恐る恐る近づき、思い切って声をかけると、意外と優しい反応が有り、しかもお茶まで出して貰い、面白い話を聞ける事が多い。こんな経験が重なると、これに味を占め、時々集まって、暇つぶしをするぐらいの活動をしている。

 

この団体の中心人物は脱サラで、変わった旅行会社を経営する男である。

今まで、道内各地で普通の旅行会社では考えられない、突飛な企画を数多く実施してきたが、その体験の濃さもこだわりも半端ではない為、原価も掛かり、参加人数にも限度が有り、赤字のツアーばかりで、何時倒産するのかと、お客の方が心配する状態である。

 

今回は、小樽の「オタモイ海岸」を散策するツアーを実施した。

その内容は?とんでもない事に発展する事になるのである。

続きは、読んでのお楽しみ、本篇へどうぞ

 

序章

小樽の郊外に『オタモイ』という地が在る。

北海道にはアイヌ語の地名が多い。

普通は漢字の当て字が有る。

多少無理が有っても当て字が有る。

しかしここは、誠に不思議な事に漢字の当て字が無い。

この様な例は他にもほとんど無い。

現在小樽市でも唯一のカタカナ表示の町名となっている。

『オタモイ』とはアイヌ語では『砂の入り江』を意味する。

小樽から北へ、余市に向う国道を、途中右折し、

海に突き当たる場所である。

 

実際にそこへ行ってみると、

切り立った崖と海に挟まれた海岸線に、

僅かばかりの小さな砂浜が見下ろせる。

付近には赤岩山など、急峻な崖と奇岩が連なり、

昔から景勝地として、訪れる人々を魅了してきた。

現在でも、その自然の魅力は変わらないが、

ガイドブックにも掲載されていない為か、

訪れる人は少ない。

 

昭和の初期、この地に一大リゾートを築いた男がいた。

名前を加藤秋太郎という。

小樽の花園町で割烹店を経営していたこの男、

或る時、関西の知人との会話の中で、

小樽には観光名所が無いと指摘された。

余程悔しかったのか、成る程と納得したのかは、

定かでは無いが、

古来『白蛇の谷』と呼ばれたこの地に、

全私財を投入して、

宴会場や食堂、遊園地まで建ててしまった。

『夢の里オタモイ遊園地』として、

最盛期には、一日数千人の人々で賑わった。

当時のその規模は、見る者、皆を唸らせた。

残る資料の俯瞰図から想像するに、

海側からその展開を観ると、

左側の部分の中心には『弁天食堂』がある。

相撲場、グランド、ブランコ、滑り台等を併設し、

多様な建物の中心であるこの食堂は、

『拝殿』とともに海寄りの崖際に建っている。

ここからの眺めはさぞ心地良かったに違いない。

こちらは家族連れやカップルで賑わっていたのだろう。

裏の山を越えれば、『手宮、小樽』へと続く

穏やかな地形であるが、反対の右側の部分を観ると、

『宴会場』とあるが、それは、

海に突き出た急峻な断崖絶壁の部分になる。

その名も『龍宮閣』と称し、

清水の舞台の様に、崖地からせり出している。

下から見上げる三層造りである。

窓から眺める景色は三方が全部日本海、

まるで海の上に居る気分だ。

きっとそこの大広間では、

小樽辺りから大勢の芸者を、船で連れて来ては、

まさに『鯛や平目の舞踊り』の様な豪勢な宴会が、

催されていたに違いない。

 

しかし絶景の場所を選んだ為に、

交通の便は悪い。

陸の孤島のような場所のため、

小樽からは海上ルートが便利だ。

唯一、真下に小さな砂浜がある。

ここから梯子を上った様だ。

(昔の資料で芸者が登っている写真もある)

しかし、酔っぱらいには帰りは怖い。

落ちて怪我した者もいたはずだ。

 

陸路のルートは、『遊園地』から続く崖沿いの狭い道だ。

『遊歩道』と呼ばれ幾つかのカーブを通り、

途中に、『白蛇』を祭るお堂と幾つかのトンネルがある。

歩くには良い運動だが、かなり時間がかかる。

 

この道の延長線は、『龍宮閣』の前を過ぎると裏山へ続き

崖沿いの隘路を『地蔵堂』の方へ抜け、

道は険しく登山道となる。

峠を越えれば、『塩谷、忍路』へと続く

山道が、一本有るのみである。

 

どう考えても、こんな場所に、

『宴会場』を作った人間の気が知れない。

余程この景色が気に入っていたのだろう。

そして、同じ様に感じて、

利用した人間も多かったのも事実だ。

 

 

【小樽の歴史】

 

夕陽が沈む、真っ赤になって、

大きく膨張して、海に入る。

『小樽の夕景は、日本一綺麗だ。』

大自然が生み出した地形が、良港となり、

恵まれた気候風土が微妙に作用して、

この町を大きくした。

 

小樽は、縄文時代から自然豊かな場所で、

現在まで、様々な歴史遺産を、数多く有している。

昔はアイヌ語で「オタルナイ」(砂浜の中の川)と呼ばれていた。

明治2年に新政府が「小樽」と命名した町だ。

海路は、江戸時代の北前船の頃からの、重要な寄港地、

鰊や昆布等の、豊富な海産物の、取引で発展していった。

 

明治時代に入ると

幌内からの石炭を積み出す為に

鉄道が『新橋~横浜』『京都~神戸』に次いで、

国内三番目に『手宮~札幌(軽川)』が敷かれ、

明治の初めより、義経号、弁慶号が走っている。

陸路も明治の政策で強化された。

 

その後大正、昭和と発展を続け、

『黒いダイヤ』の石炭など

全ての物が必然的にここに集まり、

小樽は活気に溢れる町であった。

何度かの大火事も乗り越え

北前船の活躍で石造りの倉庫が並び

『北のウォール街』と呼ばれた街の中心部には、

日本銀行、三井銀行、拓殖銀行などの

大銀行の建物が並び、

貿易・商社の各支店があり、

物の相場はここで決まる。

それ故、全ての商人も集まって来る。

小樽商人の組織は「樽僑」(そんきょう)と言われ、

中国商人の「華僑」(かきょう)になぞられる位の勢いだった。

 

そんな繁栄の歴史を持つ小樽の街も、

大東亜戦争で、戦時中は物流が途絶え、

終戦後は、エネルギー転換で石炭需要が減り、

道内経済や商売の中心地が札幌へ移り、

次第に衰退をしていった。

 

 

秋太郎の夢を実現した「オタモイ遊園地」一帯も、

戦火は免れたが、

中心の「龍宮閣」が火事で消失すると、

再興は叶わず、寂れてしまった。

 

続きは「第1章」へ