こんにちは、INDOJINです。

 

 

こちらはプールをドライブするうさぎです。

 

最近の私は、脳とか、意識とか、そういった類に興味を持っています。

 

マイケル・S.ガザニガさんの著書「〈わたし〉はどこにあるのか」を読んでいるのですが、

とても面白いです。

 

といっても、まだ7章あるうちの2章分ほどしか読んでいないのですが......

 

ただ、その2章ですらとても濃密で、衝撃的でした。

 

私は、意識、もとい、自分というものがなんなのか

わからなくなってしまいました。

 

私は、今感じている私のこの意識があるからこそ

私は私であると言えるんだと思っていました。

 

いや、間違ってはいないのかもしれないけど、

私が思っていたほど、単純じゃないみたいなんです。

 

一言で言うと、私の意識は、無数にあるようなのです。

 

例えば、難治性てんかんの治療のために脳梁を切除した患者さんは、

右脳と左脳の連携が取れない状態になります。

そうすると、右脳と左脳でそれぞれが意識を持っているように

行動をするらしいのです。

 

この患者さんはいっけんすると、治療前と治療後でなんの変化もないように見えます。

患者さん本人も、発作が治ったこと以外なんの変化もないように感じるそうです。

 

しかし、買い物をしていて、右手で野菜を一つ取ろうとした時、

同時に左手が意識の外で勝手に動いて、別の野菜を取ろうとしたりするそうです。

 

右脳は左手を、左脳は右手を動かす役割を持っているそうですが、

脳梁がないと右脳と左脳が相互に何をしているか把握できないため、

それぞれが別々の考えを持って、それぞれの手を動かします。

右脳と左脳は、その行動を後から認識して、ようやく相互の考えを把握するのです。

 

相手の考えは直接はわからないが、その行動を見て後から考えを推測する。

これは一人の人間の精神活動というよりは、他人同士のコミュニケーションに限りなく近いと思います。

 

さらにこれは、右脳と左脳だけに限った話ではないようです。

脳のそれぞれの部位は、それぞれの役割を持っていて、

その部位ごとに役割を完結します。

 

例えば、ある部位は頬の感覚を担っていて、ある部位は右手の人差し指の感覚を担っています。

またある部分では、文字の認識を担っていて、ある部分では言葉を喋ることを担っています。

そして、その部位同士は干渉しあいません。

つまり、それぞれが勝手に行動して、周りはその行動を見て、後から考えを推測するのです。

うーん、多分そういうこと。違うかも。

 

でも、そう考えると、自分の意識が一つだけだと言いきるだけの根拠は

もはやないように思えます。

 

私は、意識という言葉の定義から考え直さなければいけないのかもしれません。

意識とはなんなのでしょうか。

 

私とは一体なんなのでしょうか。

 

INDOJINの意識をめぐる旅はまだまだ続きます。

 

それでは。