3城目
長谷観音の駐車場を利用
寺伝では、舒明天皇の時代(629~641年)に允恭天皇の六代目の子孫で、祖父の代に当地に流罪となって土着した白助(白介)が、信濃善光寺の阿弥陀如来のお告げにより、大和初瀬山より十一面観音菩薩を勧請し、承和5年(883年)建立したのが起源とする。
日本各地に数多くある長谷寺の中でも、日本三所(日本三長谷)と呼ばれる大和・鎌倉・信濃の三大長谷寺のひとつである。
目的は裏のお山
長谷寺の裏山の地形を活かした天然の要害。
小笠原氏の一族・赤沢氏の居城で、室町時代初期の「大塔合戦」の舞台の一つとして知られるほか、川中島の戦いの際には、武田方の拠点として重要視された。
東西25m、南北32mの主郭を中心に、尾根上に段々に築かれた郭、石垣、土塁などを見ることができる。
ちょっと足にきてまして…
ふぅふぅ、休み休み GO
行ってきまぁす
虫ブンブンなので、足早に…
この看板の通り
ミニ鎖場もありましたな
岩場をぬけると、ひらけてきたよっ
段々だよっ
良い良い
みぃーーっけ
どんなに疲れていても
石垣を見ると、不思議と足がよく動きます
二の郭
主郭の石垣
あれれ、あっちは
縦に積んであるっ
ちょっとぉ
登りなんちゃら
えーーーっ
なぜに、こちらサイドだけ
はい
塩崎城
川中島の戦いでは重要な拠点として使われた。
最大の激戦として知られる永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、始めに武田信玄の本陣が置かれたのは茶臼山ではなく塩崎城だったとする説もある。
永禄7年(1564年)の第五次川中島の戦い(塩崎の対陣)でも、武田軍は塩崎城に布陣して上杉軍と対峙した。
川中島の戦い以後の記録は不明で、善光寺平南部における政治・軍事上の拠点は海津城に置かれた。
武田氏滅亡後は越後上杉氏の支配下に置かれたと思われ、この城跡には甲州流築城術の特徴と上杉系の築城痕跡の混在が認められると言われる。
南の平野部に稲荷山城が築城された天正10年(1582年)前後、遅くとも慶長3年(1598年)上杉家が会津への国替えになった頃には廃城に至ったと思われる。
やっぱり、縦が気になる…
やっと主郭潜入
土塁
ぐるり
奥まで行って
下を覗くと
ボコボコぉ
ここ、面白いっ
来て良かった
満足じゃ〜
本日のノルマ達成と、楽しい散策ができたことに
幸せホルモン出まくる
最後の足掻き
しつこく
縦
なんだか知らんけど
ここはやけに感動しましてね
涙がでそうになった
ありがとう、塩崎城
満足にて下山
上田で一泊♨️
◎ブンブン不快指数