先日、筆者は今話題の『永遠のゼロ』を友人たちと共に映画館で鑑賞してきました。正直に言って、誘われなければ見ようとは思っていなかったのですが、しかし、観ておいてよかったです。



 というのも、色々な意味で、この映画が今の日本国民に受け入れられるというのは必然性があると思うからです。(ただし、以下で具体的に述べますが、それは決して筆者にとっては喜ばしいものではありません。あくまで、日本の「今」を知るという意味で有意義であったということです。)


この映画では、「国より愛する家族が大事」という現代人の視点からストーリーが組み立てられており、単純に戦前を礼賛しているわけではないようにも見えます。物語の主役はこの現代人の心情を代弁しており、「国家に命を捧げる」のが当然であった時代に反骨的な精神を貫いた自分として、その彼がなぜ最後の最後で特攻に命を捧げたのかがテーマとなっています。しかし、この主役の宮部久蔵という男は明らかに実在した人物だとは思われません。モデルはあったのかもしれませんが、基本的にこれはフィクションでしょう。



「誰だって戦争をしたくてするわけではない。しかし、戦争は時として起こるものであり、その時に私たちの父祖は絶望的な状況下でも毅然として戦った」



という制作者側の「声」が聴こえてくるような、そんな内容でした。満席だった会場からはすすり泣きの声も聞こえてきました。



筆者はこのような映画館の中でエンタテインメントとしての「出来の良さ」に感嘆しつつも、非常に複雑な胸中でした。久しぶりに社会の中で「自分がある」ということを皮肉にも実感することになった格好でした。



確かに、戦後の日本は一転して戦前を全否定してきましたから、「自分たちの父祖を狂信者呼ばわりし続けることができるか」という主張には一片の真理があると思います。筆者自身山田耕筰について、この観点から一筆ものしたくらいですから、これは分からないわけではありません。やはり、戦前の出来事は私自身の問題として主体的に受け止める必要があると思います。



「生き残った者たちのすべてきことは物語を繋ぐこと。」



これもある意味ではその通りでしょう。確かに「平和である」というのは「生き残っている」ということと同義とも言えるでしょう。しかし、これはこの映画の製作者たちが思うほど簡単なことではないと思います。以前、筆者はホロコーストで生き残った人々を取材したドキュメンタリーを観たことがありますが、彼らは一様に決してその時の出来事を語ろうとしません。彼らはもちろん、何の非があるわけでもない一庶民ですが「生き残った」というだけで彼らにはそのことを語ることはできない、そのような体験だったということでしょう。



しかし、この映画は「それ」を語ってしまった。それも、戦争を知らない第三者としての制作者が基本的な点でフィクションの物語として語ってしまった。これは決して見逃すことができない点だと筆者は考えます。



 これに関して先の戦争をどのように考えるのか。確かに、如何に勝てばよい戦争とはいえ、アメリカが日本に対してしたことは残虐極まりない手段を選ばぬ非道とも思えることだったことも忘れてはならないでしょう。日本軍の軍事行動は基本的に民間人を対象としたものではなかったことも重大な点です。戦後、これらのアメリカの軍事行動の非人間性がすり替えられ、「洗脳」が行われたという主張にも決して不当ではない点があると筆者も考えています。いくら「戦勝国」とはいえして良いこととしてはいけないことがあり、そのようなアメリカに対して日本は総力を挙げて抵抗したということは(少なくとも身内の見方としては)大筋間違ってはいないでしょう。



 しかしながら、この映画は特攻の物語。追い詰められた日本軍の「玉砕戦法」にほかならず、決して国家の将来を見据えた軍事行動の帰結としての「栄誉ある死」とは言えない悲惨で痛ましい出来事だったのではないでしょうか。むしろ、精神論が独り歩きした結果の痛ましい結末がここに現れているのではないでしょうか。これは決して他国に道義的責任を問えることではないし、自ら正当化できることでもないのではないでしょうか。この映画には「有事の際に大切なものを守るために戦う」という視点はありますが、他方で勝算や現実的な視点を欠いた戦争判断の失敗がどれほど深刻な帰結を生むかという方の視点は完全に排除されているとは言わないまでも強調されてはいませんでした。この点は極めて重大な観点であるにも関わらずこれがきちんと描かれていないということは、「作戦の失敗」としての先の戦争の反省はさておきそれが全体として「戦前、国民は総力を挙げて戦った」という「美談」の下に覆い隠されているという非難をかわすことはできないように思います。原作者の百田氏はこの点を否定しているようですが、映画を観る限り、「なぜあのような無謀な作戦が実行されたのか」という観点は皆無だったように思います。


 もちろん、特攻で死んだ方々に罪はありません。「立派に戦って戦死した」ことに対し、哀悼の念を捧げるのは当然だと思います。しかし、「なぜ、あのような無謀な作戦を実行したのか」という点については不条理な思いがこみ上げてくるのも当然であり、亡くなられた方々の死を無駄にしないためにも、このようなデリケートな問題を扱うに際して一方の真理のみをフィクションによって描くべきではなかったのではないでしょうか。やはり、「特攻」の問題は真実を明らかにし、「このような事態を再び起こさないようにするにはどうすればいいのか」という趣旨で扱われるべきだったように思います。



 この映画においては「いざ有事となったら、私こそが真っ先に死地へと赴く」という(乃木大将のごとき)製作者側の強い信念は、残念ながら筆者には感じられませんでした。むしろ、製作者側にとっては決して本意ではないと思いますが、「(どのような不条理においてであれ、)あなた方がそのような勇気ある国民でありなさい」と言っているように、筆者には感じられました※。



 やはり、「戦前」を主体的に受け止めつつ、私たち自身の過去と見做しつつも、「本当に何が問題となっているのか」を見極める姿勢が大切だと思います。筆者自身も改めて関心を深めなければならないと痛感しました。



エンディングにはサザンオールスターズの「蛍」という曲が流れていました。これもとても象徴的だと思いましたが、確かに、この映画は私たちの「戦後文化」の一つの帰結として受け止めるべきものだと思います。というのも、この映画に「涙する」私たちの心情の本質は、先般話題となった「ゴースト騒動」とも決して無縁ではないように筆者には感じられたからです。詐欺師がヒロシマの被ばくという被爆者感情を利用して一世を風靡したあの交響曲です。(決して、この映画の製作者が詐欺師だと言っているわけではありません。あたりまえですが。)その底に通底しているものはやはり「甘さ」だと思います。「都合の良い物語」を聴いて自分を正義だと思いたい、私たちの甘い態度がそこには露呈されているように思います。そこには批判的精神の厳しさが欠けていると思います。(もちろん、筆者自身の問題として述べているつもりです。)



サザンの音楽の「良さ」は(武満が何といおうとも)自分の心を打つものでは全くないのですが、自分はそれが世の中に「ある」ことまで意見を述べたいとは思いません。好みは自由です。しかし、あのような音楽ばかりに巻き込まれていると、次のような作品の素晴らしさにはおそらく気づくことは決してできないのではないでしょうか。



取ってつけたようなロマン主義的熱狂ではなく、静寂の中で共に「音」に耳を澄ます。そのような精神性が筆者自身においても必要だと感じました。





(注目すべきは最終曲Sehr Langsam。マーラーの葬儀の後で書かれたと言われている名作ですが、衝撃的な「死」の体験の後の茫然自失感が見事に表現されています。「語り得ないものを語る」とはこのようなことであり、芸術の意義をここに認めることができます。20世紀以後の現代作品には、ロマン主義や国民学派の陶酔感では決して現れてこない人間の奥深い感情が表現されています。モダニズムの意味を美学的に解明する動きも喫緊の課題と言えそうです。)






(※これに関して、政治思想史では為政者が国益のために必要とあらば国民に対して「嘘」をつくことをプラトンの『国家』における「高貴な嘘」に歴史的典拠を認める議論があります。これは正当性がある議論だと思いますが、しかし、プラトンにおいても「兵士」はあくまで被支配者つまり一般国民ではなく、支配者側です。支配者側が「兵士」の主要な構成メンバーであるからこそ、その支配権力に対して被支配者が同意するというのが議論の全体の構図となっています。また、有名な哲人統治論についても「このような厳しい選別では誰も支配者になりたいと思うはずがない」という厳格な内容になっていますが、戦前の我が国のプラトン受容史(その中には現首相の祖父岸信介の名前も挙げられる)においても、この選別の厳しさの問題は本格的に議論されてはこなかったことが最近の研究によって明らかにされています。哲学精神と政治権力の統合という「理想」と共に「支配権力に恋い焦がれる者がリーダーであってはならない」というのが、プラトンの政治哲学の生命線であり、この問題に最も厳しい眼差しを注いだのもプラトンその人でした。)


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