昨年の7月に芸大で聴いた作曲家野平一郎さんのピアノとエレクトロニクスによる「ベートーヴェンの記憶」を懐かしく思い出します。とても感銘深いコンサートとレクチャーでしたが、昨日、その時筆者自身がものした記事を読むといくらか複雑な気持ちになりました。そこでは演奏後の座談会のテーマ「若い人にとってベートーヴェンはどのような存在か」という作曲者の野平さんからの問いかけに対して(後日)次のように筆者が記していたからです。



「形式的な特質が消え去り、すべてが記憶の彼方に葬り去られても尚残るもの。それこそが芸術において最も重要なエレメントであるとするならば、「ベートーヴェンの記憶」はあまりにも生々しく、今も尚健在であると言わざるを得ません。」(該当記事はコチラ



この感想を今回の騒動に照らしてみる時、やはり複雑な思いが込み上げてきました。このコメントで筆者が言わんとするところは、「創造への意志」とか「作品の隅々まで行きわたる強靭な精神力」という観点ではなく、ベートーヴェンの権威が自明視されそれが言わば偶像として消費され続けている現代の音楽文化に対する皮肉だったからです。この座談会では「すべての音楽のポピュラーミュージック化」という問題にも触れられましたが、それは指揮者の大野和士さんが今回の騒動に寄せた「クラシック音楽の死」という衝撃的なコメントとも通底するものでしょう。


そこで、この時の記憶を思い起こしながら、今回の騒動の本質を合わせて改めて「クラシック音楽のポピュラーミュージック化」という問題について考えてみようと思いました。というのも、大友さんや大谷さんほどの著名なアーティストがこれらの作品に太鼓判を押したという事実の背景には「クラシックの今」つまり所謂「現代作品」への根強い不満、不信があることは疑いなく、しかもその一面性や不十分さが白日の下に晒されたように見えるにも関わらず現在において尚根強いのだとすると、これは「責任ある音楽家の不見識」を糾弾するだけでは済まないと思われるからです。(最初に断っておきますが、筆者においても大友さんはじめ演奏家や評論家の評価が肯定的なものであったことを否定したいわけではありません。あくまでこれが「クラシックの新作」として音楽の未来を占うような「第一級の作品」として評価されたことを専門家としては不適切だという前提で考えています。)


 さて、なぜこれが問題であるのかという点については差し当たり次のように答えておくことができるでしょう。


まず、「クラシックの死」「クラシックのポピュラー音楽化」という問題は社会問題で有り得るという点に関連して、以下の点を指摘したいと思います。


第一に、ポピュラー音楽とクラシック音楽は、現在一見すると全く別のジャンルのように見えるけれども、ポピュラー音楽は「クラシック」という土台なしには成り立たず、他方クラシック音楽もすべての聴衆を包含することができない限りにおいてポピュラー音楽の意義を完全に否定することはできず、両者は互いに独立であるようでありながら、浸透し合っているということ。ポピュラー音楽もすでにクラシックにおいて確立されている既存の技法のある意味でパロディーにおいて成り立っている限りにおいてその成立から無関係ではあり得ないのは当然のこと、クラシック音楽までもが完全に「商業音楽」と同化してしまった場合、未来の「商業音楽」にも支障が起きかねないというのは容易に想像がつくと思います。しかし、だからといって「商業音楽」に何らの芸術的な意義も認めないということになると、圧倒的多数の大衆の支持が得られず、現在のような民主主義的な社会ではクラシック音楽も言わば「財源」を絶たれてしまう可能性があります。


また、「クラシックとポップの区別」というのは現在のジャンル分けとして未来永劫あり続けるとは到底信じられないとしても、その区別自体は美に対して普遍性を要求する二つの態度に根差しているということも見逃せません。つまり、私たちがある音楽作品について(それが演歌であれクラシックであれ)「これは美しい」と述べるとき、単に心地よい寝椅子を指して「これは好ましい」と言っている以上のことが述べられており、その美的体験が普遍的なものであることが感じ取られています。そして、この普遍性には同時性と全時間性という二つのベクトルがあることに着目することができます。これを一言で言い表せば、「すべての人にとって共有され、また未来永劫色褪せない」ということです。こうした美に対する人間の要求到底一挙には満たし得ないと考えられるほど大きいからこそ、そこにクラシックとかポップとかという便宜上の区別、ジャンル分けが存在すると考えられるでしょう。つまり、長い現実の音楽史の上に立ち、専門教育を受けた才能ある作曲家というのは狭い範囲で認められるに過ぎないとはいえ、決して軽く見ることはできない権威があるということであり、他方ポップはより多くの人に逸早く浸透するという点においてクラシック音楽がなかなか達成できない点を実現しています。ある音楽をどのように評価しようともその人の自由ではあるけれど、社会全体、歴史全体を通して眺めた時にはポピュラーの意義を否定できないのと同様、クラシックも一個の揺るぎ無い権威で有り得るということでしょう。


 とするならば、一見クラシックと無関係に見える人でも、実は無関係ではないことは明らかです。これはクラシックの新作、つまり所謂「現代音楽」についてこそむしろ当てはまり、作品が偶然歴史の淘汰に耐え得るとは考えられないからこそ、専門教育を受けた「クラシックの現代作曲家」というものが存在しているということに気付かねばなりません。現代音楽に興味が持てなくとも尊重し、すぐには理解できなかったり批判を行うとしても関心をまず持たなければなければならないのは当然でしょう。他方で、クラシックの現代作曲家においても大衆性への欲求は自然なものであるため、一概に商業音楽の意義を切り捨ててはならないのも言うまでもありません。(現代音楽界には商業的なもの、大衆受けするものを「芸術的価値が低い」と見做す傾向がありますが、これは決して自明視されてはならないことだと筆者は(自戒も込めて)考えます。)



 では、問題となっている「クラシックのポピュラーミュージック化」とは何でしょうか。それは今回の騒動に即して語るならば、「私たちがクラシックと思っていた感情自体が実は非常に刹那的なものであった可能性が非常に高い」ということです。これは私たち文化全体にとって大変深刻な意味を持つと言わなければなりません。私たちが未知なる未来に対して新たなるチャレンジを行うに際して、そのもっともよすがとなると信じられていた「クラシック音楽」さえもが、実は多くの専門家にとっても全く刹那的にしか理解されていないとすれば、私たちは大空に向かって羽ばたく以前にその踏切台を見失っているに等しいでしょう。


確かに、筆者の知る限り、いかに世間の関心が低く「狭い世界」とはいえ、優れた現代作品は多く存在します。しかし、これは単にそのごく少数の人たちで「金庫番」をすればそれで済むという話にはなるとは到底考えられません。


考えてもみてください。多くの優れた現代作品は歴史上のどこかの地点で評価を受けることは間違いと思われますが、しかし、仮にその通りだとしてもそれとて今私たちが「ベートーヴェン」を消費している以上のことではないのです。


そうだとしたら、いったい何のために現代作曲家は存在するのでしょうか? その素晴らしい音楽はいったいどのようにして聴きとられ得るというのでしょうか? ごく一部の「わかる」人たちで共有されればそれでいいのでしょうか?


それとも、大多数の人々にとっては「刹那的な夢」を薄々そうと知りつつ、さらに眠り入ろうとすることが良いことなのでしょうか? 


こうした状況を長く放置しておくと、音楽文化全体が活力を失ってしまうことは目に見えています。


 こうした状況を乗り越えていくためには、やはり互いの立場を超えて、互いに関心を持ち、そこにある音楽に耳を澄ますというところから始める必要があるでしょう。そのためには私たち自身がどのような物語において生き、音楽と関わってきたのか、そのことへの反省も必要となるのではないでしょうか。


 そもそも、戦前の我が国のクラシック音楽作曲界においては山田耕筰らが「我が国から本格的な交響曲やオペラを生み出す」という「理想」の下、西洋の音楽文化を受け入れ独自な音楽文化を生み出していきました。戦後は一転して、西洋で起こったモダニズムの流れを追いかけてきました。その中で多くの素晴らしい作品が生まれてきたことも事実だと思います。そして、最近では藤倉大さんのような「海外を本拠地として活躍する一流作曲家」も登場しています。筆者個人としては、戦前では滝廉太郎、山田耕筰。戦後では武満徹と細川俊夫が「日本におけるクラシック音楽」というものを考える上で決定的な意味を持っていると思っています。彼らはいずれも「日本の心」というものを世界に伝えるだけでなくクラシック音楽自体にも独創的な寄与を成し遂げているという点で共通しています。


 そのような中で、今回問題となった「交響曲」を書いて世間を沸かせたのが、昨年逝去された三善晃氏の高弟であられる新垣隆氏であったということは、この国の屈折した歴史と戦後文化を象徴しているようで皮肉を感じずにはいられません。やはり、筆者としても(まさに国民として)これを機会に日本の文化を真剣に考え直す必要があると思う次第です。


 とはいうものの他方で、西洋が「成熟」しており、日本が「未熟」だとは筆者は必ずしも思いません。日本の文化が様々な問題を抱えていることは事実だと思いますが、少なくともクラシック音楽が昔から抱えていた「シリアスとイージーの対立」という問題についてはヨーロッパも同じような行き詰まりにあるのではないでしょうか。ご本家がそうなのですから、私たちが解決できない問題があっても何ら不思議はないと思います。今回の「ゴースト作品」の評価にしてもそうですが、ゼロか百か、白か黒か、だけではなく人間の営みを立体的に捉える視点はやはり必要だと思います。


 むしろ、日本だからこそ音楽文化全体が抱えている問題を乗り越えて行ける新しい新機軸を世界に向けて打ち出すことも可能だと思います。これもある意味での皮肉を感じずにはいられないことですが、佐村河内氏と同じETV特集で昨年末に採り上げられた「左手のピアニスト」智内威雄さんの取り組みはこの問題に対して大きな光を投げかけていると筆者は感じました。このブログでも紹介させて頂きましたが先月の門天ホールでのリサイタルでは、何と指二本で弾ける日本の唱歌からポンセやレ―ガ―の大作、深い精神的なテーマを持った日本人作曲家による非常に優れた現代作品までが採り上げられていたからです。そして、そこに来られているお客様は必ずしもクラシックを普段聴いている風ではない方も含めて子供から大人まで一体となって音楽の世界に没入している光景は感慨深いものがありました。智内さんは「左手の物語」を会場のお客様一人一人に対して語りかけながら名演を披露されたわけですが、これは佐村河内氏の物語は全く異なり、(あくまで芸術としての真価を問う)真実の物語であって、音楽の真価を問うに値する道標と言って良いと思います。こうしたことが可能であるのもまた日本人の素晴らしさであると言って良いのではないでしょうか。


 芸術は決して数学の公理のようなものではなく、どこまでも「美」という永遠の対象を巡る人間の体験にすぎません。そこに、真に永遠なるものを求めることは不可能な要求であるには違いないでしょう。しかし、不可能であるからこそ、人間はまたそれを求めずにはいられないのではないでしょうか。私たち自身、自らの内なる声に忠実となり、謙虚にならなければならないのではないでしょうか。筆者もこれを機会に改めて自己自身を見直し、新たな出発と地道な努力をお約束させて頂きたいと思います。長文のお付き合い、ありがとうございました。






(歴史は無常です。全時間、全空間という宇宙の広大無辺さを思い浮かべれば、その前では善人も悪人も、天才も凡人も、働き者も怠け者も無力な個人として死すべき存在以外の何者でもないでしょう。「哲人統治」という理想を堕落した民主制との葛藤において追及した哲学者プラトンも現実の政治おいては敗北し、繁栄を極めたギリシャも滅びました。すでに失われてしまった素晴らしい芸術、思想は数えきれないでしょう。フランドル学派のゴンベールのモテットの次の詩句のごとく、、、「命半ばにして我らは死ぬ Media vita in morte sumus. 」)