まるでシューマンのようですね。「シューマンの病気がひどくなる前に書いたソナチネです」って言われたら、たぶん信じてしまうかもしれません。いや、筆者は間違いなく信じるでしょう、、、「こんな曲もあったんだ」と。


 少なくとも自分鑑識眼では見分けがつきません。ヨアヒムとかディートリッヒとか、そのあたりの名前でもたぶん騙されてしまうかもしれない。



 これくらい良くできていれば、騙されてもいいのかもしれない。


 そう思いたくなります。



 通しで聴けないのが大変残念ですが、とても良い曲だと思います。



 少し時間を置いて考えてみましたが、この曲がソチで高橋の演技と共に演奏されて世界の観衆の賞賛と注目を集めい可能性はとても高いと思います。おそらく、まず間違いなく大喝采でしょう。「これを書いたのは日本人なのか」と驚かれるかもしれません。



 「ヒロシマ」のようないかにも取ってつけたようなごった煮ではなくて、一つのストーリーで作られているから余計に騙されてしまう。



 ところで、こういう曲をたくさん書くことがなぜいけないのか、という疑問は当然音楽ファンに根強く存在するのではないでしょうか?



 わからない曲なんか書かないで、もっと分かる良い曲をたくさん書いてほしい、と。



 あるいは専門家にも。



 どう考えても、やってはいけないなんて法はまったくないはずですね。



 こういう「サービス」もっとやってほしいし、ここまでできるなら「モツレクの補筆完成もやってほしい」などといろいろな「期待感」を持つのが人情ではないでしょうか。



 今回のことで傷つかれた方には言葉もありません。また、作曲者の新垣隆さんも社会的な責任を免れるものでは決してないでしょう。



 しかし、そういった問題を少し離れて、純粋に作品そのものを見つめるとき、そこに見えてくるものは何でしょうか。



 「やはり、ソナチネ、聴きたいよなあ」ということではないでしょうか。



 現代音楽の新作として評価を受けるものでは全くないとしても、それが偽らざる音楽ファンの声であるような気がします。



そして、たとえこのような作品が、識者の言葉にあるように「現代音楽の勉強を真面目にした人ならば誰でも書ける」ものだとしても、本当に作品そのものを好きになった人にとってはそんなことはどうでもいいことではないでしょうか。



それは何より、この曲を選んだ高橋大輔選手にとっても同じであると思います。



 したがって、作品そのものを本当に愛した人にとっては、今回の騒動で「衝撃」を受けることはあっても「被害」は少ないという気がします。(もちろん、これは純粋に愛好家の目線に限った話で人権侵害や経済的な実害は別です。)




それでは、いったいどうして新垣さんは世間に十分に認められる「実力」を持ちながらこれまで表舞台に出ようとはされてこなかったのでしょうか。また、このような社会に甚大な影響を与えるような形になってしまったのでしょうか。



そこは愛好家のみならず、一般の方々も少なからず疑問に思われているはずです。



筆者もその心中をすべて推し量ることは到底できませんが、(佐村河内氏との個人的な関係を除けば)それはやはり新垣さんが現代作曲家としての本分があることに求められるでしょう。



それは大変誤解されているように「現代音楽界では調性曲を書いただけで干される」などといった事情ではないはずです。確かに現代音楽界では過去のスタイルの作品は新作として評価を受けることはないと思われますが、その理由は必ずしも一般に想像されているようなことではないと思います。



それは作曲家にも評価に関わりなく自ら自身のやりたい音楽、豊かな世界を追求する権利というものがある、ということではないでしょうか。



それは、普通の意味で言う無条件に保証される権利ではないかもしれませんが、卓越した才能、技能、知識、感性を持つ人にとりわけ与えられる権利、許される自由があると思います。


たとえば、ワーグナーが「楽劇」を創造した瞬間はすべてのそれまでの音楽は色褪せたと思ったに違いありません。べリオがヴァイオリンのためのセクエンツァを書き上げたとき、彼はもしかすると内心「バッハを超えた」とさえ思ったかもしれません。実際どうかということはともなくとして、そういうエクスタシー、創造への意志や渇望が止まないからこそ、作曲家は新たな作品を書き続けるに違いありません。


そういうエキサイティングな瞬間は、過去のスタイルの枠内で表現されるよりも、その表現の枠組みを根本的に見直し、徹底して追及された自ら自身の美学として世に送り出されるとき、作曲家は本来それを自らの最大の栄誉と感じるのではないでしょうか。



 そんな過激な瞬間のために、すべてを投げ打って作曲家は創作に打ち込む。



 そして、その歴史の積み重ねの上に、私たちが今日「クラシック音楽」と呼ばれているものが存在するのではないでしょうか。これは指揮者の大野和士さんが今回の騒動に寄せられている通りだと筆者も思います。


バッハなども生前はほとんど世間には愛されず、長い間埋もれていたことは良く知られています。そのような歴史的な反省に立って、「歴史と向き合いながら自己自身の真実を世に問う作曲家が自由に自分の思うとおりに曲を書く」という権利と自由とが保証されるべきなのではないでしょうか。だから、一般の感覚で「なぜわからない曲を書くのか?」という問いには差し当たり私たちの文化そのものが成り立つ土台に思いを凝らせばある程度の理解が得られるものと考えます。正確には「わからない」というよりも「新しい」「慣れていない」ということが相応しく、内容は限りなく豊かで未来永劫人に理解されないようなものでは決してないということでしょう。



しかし、この道は言うまでもなく極めて孤独な道であるはずです。本当に自分自身の心の真実、真理を極めようという人にしか許されていない、奥深い世界だと思われます。



そのような道をただまっすぐに歩もうとされた新垣さんにおいても、色々な隙があったかもしれませんし、整理しきれない複雑な心境というものもあるに違いありません。



そして、今回の結末は結局、そのような孤独な道を歩む一人の現代作曲家にとって、「佐村河内」作品のようなもので自分の名前が評価されることなど当初は思いもよらなかったことも大きく影響していると考えられます。



とはいえ、そのような新垣さんだからこそ、これだけ多くの人の心を捉える美しい作品を書くことが出来たというのも一方の真実なのではないでしょうか。



大野さんをはじめ識者の方々は「あれくらいは書ける」と口を揃えて仰られていますが、それは安易に流れる世の風潮、音楽界の無理解に対しての重い批判であり、私たちが成熟してより深い感受性を養うために必要な第一人者からのお叱りであると筆者は理解しています。けれども、全体として作品を評価したときに、誰でもできる仕事だとは筆者は必ずしも思いません。


音楽史的に価値があるかは別として、それを美しいと感じた多くの人の心がすべて踊らされていただけだとは信じられませんし、(そのような一面に対する反省は深刻にしつつも)偽りなく美しいと思う気持ちは裏切られるような筋合いのものではないと考えるからです。



何より、注意深く耳を澄ませば、この作品には現代作品にも共通する新垣さんの人々への暖かい心、同時代人としての熱い共感が聴こえてくるはずだと信じます。(先入見もあって新しいものはいつの時代も受け入れられない傾向はどうしても付きまといますが、新垣さんの現代作品も「佐村河内」作品とは全く違う作風ながらユーモアと人間的な暖かさに溢れた親しみ易い素晴らしい作品です。)



(演奏者とお客様が一緒になって楽しんでいるのがわかります。冒頭、「現代音楽」の一般の反応を見越したように硬質なパッセージが繰り出され、それに対する一連の身振り(フリージャズ、日本の唱歌、ジャンベ?など)がユーモラスに展開されます。アイロニーたっぷりでありながら、全体としてもとても美しく纏まっています。)現代作品は、背広を着てコンサートホールに出かけるクラシックのイメージを大きく覆すジャンルを超えたさまざまな試みがあることがわかります。)





(これも日本人的庶民感覚と現代感覚、高度な音楽センス、ユーモア、アイロニーが結合した傑作。通常の合唱曲の枠組みを超えたパフォーマンスのでありながら、日本語合唱曲において歴史的に共有されてきた喜びを損ねることなくむしろ増大させることに成功しています。ハーモニーも美しい。日本人であること、現代に生まれたことを誇りに感じます。)



それは新垣隆という卓越した才能、技術、知識、純粋な人格にしてはじめて為し得た「仕事」ではなかったでしょうか?







(罪深いとはいえ)現代を生きる一人の作曲家と、(どのような装いであれ)その作品を自分の耳で選び取られ、五輪という最高の舞台で演技される高橋選手の掛け替えのない前途を筆者もまた誤りやすく、弱い一人の同時代人、同じ祖国の同胞として思わずにはいられません。



ソチでの高橋選手の演技を一人の人間として大変楽しみにしています。