さて、今年の筆者の目標としてもうひとつ掲げたいことは、「今年こそは政治について語る言葉を少しでも見つける」ということです。



私たちの世代は政治ついて情熱を失ってしまった世代に属していますが、それをいつまでも言い訳にしてはいけない、と感じています。これは個人個人が社会に関わる以上、何らか態度を迫られる問題だからです。



しかし、政治について語る言葉。これを見つけることは、芸術について語るよりもはるかに難しいと筆者には感じられます。



人間の行為は全体的に眺めてみると矛盾だらけで、筋が通るということは決してないので、それをどのように評価するのか、正義についてどのような決断を取るのかは軽々には争えません。



その「矛盾だらけ」の人間から生まれ出た最も美しい果実の部分が芸術や哲学であることは間違いなありませんが、しかし、それらが生まれ出る共通の根があるのであって、それはとても泥臭い極めてみもふたもない現実であったりするのではないでしょうか。



たとえば、モーツァルトは当時世界的に見て豊かなオーストリアに生まれたからこそ、彼の才能を生かし得たのではないでしょうか。アフリカの難民の子どもに生まれて、あのような業績を残し得たでしょうか?


また、ヴォルテールやディドロ等の啓蒙思想はフランス革命に大きな影響を与えましたが、彼らを庇護したのは誰だったでしょうか。それはポンパドール夫人というブルジョワの代表格であったことを忘れてはならないでしょう。



このような現実を考えると政治が「汚い」ものである理由は極めて明瞭と思われます。まさに政治家が「汚く」栄耀栄華を誇り、彼らの庇護を勝ち得るからこそ、そこから蓮の花のように咲き出すのが文化文明であるとうう実に身も蓋もない真実が見えてくるように思えなりません。



このように芸術と政治は、実はその「陰部」において極めて密接に関わっています。要するに、これは理想論や奇麗ごとでは語れるものでは到底ありません。




恐ろしいのはこのような人間の矛盾した現実を多面的に理解し得ず、一面的な理想論で持っていこうとする論陣です。人間社会は実に多様な考え方、生き方の人間から成り立っているので、すべての人々の心の在り方を変える方向で、事を成し遂げようとする一種の革命思想です。人の心とはそんなに簡単に変わるものではない、ということを知らなければ政治は悲惨な結果を招くのではないでしょうか。これは右であろうと左であろうと同じ危険が存すると思われます。



もっとも、北朝鮮と韓国を比べればわかるように、政治体制の違いはとてつもない結果の違いを生むことも事実です。だから、革命思想は決してなくならないし、なくなるべきでもないでしょう。しかし、これらは人々の心を動かすということとはまた別の問題です。



人間の創造性の秘密は、「何が正しいか、正しくないか」「何が善いか、悪いか」「何が美しいか、美しくないか」について自分たちで決定を下しつつ、共に生きるように定められているという点にあると筆者は考えます。


そして、政治はまさにその「共に生きるかたち」を私たち自身が自ら創るその現場にほかなりません。


したがって、政治とは一種の創設なのであって、人間の創造性の奥義ともいえましょう。


芸術はある意味では、この創設の結果、果実にあたる部分であり、これについて語ることは比較的たやすい。



しかし、政治について語ることはまさに「創設」の言葉を語り出すことなのであって、最も重大であると同時に最も過激となることは必定です。



特に、現代は人類がそれまで直面したことのない複雑な現実と向き合わされている時代。



とはいえ、いつまでもこの課題から逃げていてよいわけでもないでしょう。



今年は政治についても何らか語る言葉を見つけられたら、と思います。