あけましておめでとうございます!!



昨年は大変お世話になりました。



今後とも拙稿をお読みいただければ、またご指導いただければ大変うれしく存じます。




今回は年明けに相応しく!?、昨年を振り返りつつ、今年の抱負として「現代音楽の問題点」について考えてみたいと思います。



さて、このブログを読まれている方は、筆者が「現代音楽、前衛」を全面的に肯定していると思われているかもしれませんが実はそうではありません。



筆者が執拗に「前衛」を肯定するには実は特別な理由があります。


それは過去の様式感や和声感、メロディーラインに囚われない「前衛」の試みに対する偏見や反発が現在尚あまりにも支配的だからであり、これを拒否してしまったところに音楽の「未来」はないと信じるからです。(もっとも、この反発は演奏家や愛好家に限った話かもしれませんが。)


逆を言えば、現在の価値観や現状をそのまま肯定しているわけでは決してないということです。


たとえば、ブーレーズとプッチーニの音楽を比べるとするならば、(もっともブーレーズはもはや古典ですが)、「どちらが好きか」と個人的な好みを問われるならば、筆者は偽りなく率直に「プッチーニ」と答えるでしょう。


しかし、それはあくまで個人的な問題にすぎず、ブーレーズの音楽に圧倒的な美しさ、センスの輝きがあることは否定できません。


要するに、筆者が否定するのは、すべての演奏家や愛好家が個人的な趣味の世界に閉じこもり、新たな音楽体験を拒否してしまう精神的な態度についてなのであって、これ以外ではありません。


同時代人として現代音楽に関心を持つということは義務であると同時に最大の喜びなのであって、これこそが無条件的なものだと信じているのです。


そして、このことには経験的な裏打ちもあります。



1)この潮流を最初から拒否した作曲家に優れた作品が圧倒的に少ないこと。(これは現代だけでなく、歴史的にも間違いなくそうである。)



2)ブーレーズらのとりわけ戦後世代の革新的な取り組みに対する未だに繰り返される紋切り型の批判は、要するに音楽についての新しい視点、感性に対する完全な無理解に由来するという具体的な洞察。



3)そして、音楽の最大の喜びは「(新たな、そして無限に新鮮な)音楽に共に関わる」という具体的な営みにあるのであって、これを生み出さないような如何なる過去についての美的判断も無意味で空しいということ。




こうした背景があるために、筆者にとっては吉松隆らが言うような安易な「現代音楽批判」は到底受け入れられません。これは、彼らが持っている「現代感覚」なるものが、単なるビジネススキームよって人為的に作り出された受動的で不自然なものにすぎないということが自覚できないからではないでしょうか。


ブーレーズの音楽は簡単に大衆に受け入れられたりはしないでしょうが、しかし確実に「残る」ものではあるでしょう。しかし、吉松の音楽は残念ながら歴史の淘汰に耐えうるものであるとは到底筆者には信じられません。



要するに、「ブーレーズ」の音楽が感覚的に「美しい」と思えない、その意義を見いだせない、という前提で行われる批判は、必ず敗北する運命にある、というのが筆者の確信、時代認識の根本にあります。(このような平凡な批判は驚くべきことに、サロネンでさえやっている!! さすがに政治的な背景もあるかもしれないと疑いたくなります。)




では、筆者が「ブーレーズ」という言葉に象徴する現代音楽の潮流が本当に現代音楽の「あるべき姿」なのでしょうか。私たちはそれをただそのまま肯定していればよいのでしょうか?



これについては筆者は「否」と答えたいと思います。



たとえば、現代音楽の現在最も影響力ある「先進国」としてフランスはもちろん挙げることができるでしょうが、この「学風」は、私たち日本人にとっては相変わらず他者の相貌をまとい続けるのではないでしょうか?


たとえば、コンセルヴァトワールでフーガや和声の訓練を積み、さらに一部のエリートが現代的な趣向を凝らす、という「システム」自体に、その素晴らしい面は否定できないとしても、閉鎖的で不十分なところがないでしょうか?


いくら優秀な才能が必死に「現代音楽のさまざまな技法」を学んだところで、それだけで「日本の文化」が築けるでしょうか?




明らかにこのような現状では明治以来の我が国の課題、「西洋文化とどう向き合うか」「日本の新しい文化をどのように築き上げるか」という問題に答えるには絶望的です。




「西洋と東洋の狭間で何を為すか」「新たな地球規模の文化、文明をどのように創設するのか」


このことこそ、時代の喫緊の課題ではないでしょうか。



これを考えたとき、とりわけ戦後の我が国の邦楽の歴史は目を覆うばかりのものがあります。



1)「現代音楽」の特殊な技法で、和楽器をまるで「エックス線にかける」ような無礼で不自然なアプローチ。



2)和楽器でまるでブラバンのような音楽をやる無神経さ。



3)「なんとか三味線」「侍バンド」のような仕方でしか、現代日本人に魅力をアピールできない悲惨な社会の現実。



4)和楽器と西洋楽器のコラボが、非常に安易に、単なる「和楽器フュージョンジャスないしロック」のような取ってつけたコマーシャル的な意味しか持ち得ないような安易さでしばしば試みられること。



具体例は敢えて差し控えますが、我が国固有の音楽的な発展はまったく止まったままだという印象が拭い切れません。



そういう現状を痛感した部分もあり、また邦楽の美しさに触れる機会が昨年は多くあったことも手伝って、本年はこうした関心が中心になるかもしれません。



文化について語る言葉、感性。



それを巡って今年も精進してまいりたいと思います。


本年もよろしくお願いします。