歴史のお勉強(日露戦争編) | ローライダー

 こんにちは~。

 今回は、待望の歴史のお勉強シリーズ

 「日露戦争編」

をお送り致します。


 実は先日、N村氏から

 「二百三高地のことを知りたいんっすよ」

とのリクエストをいただきまして、今回はそのリクエストにお応えして、日露戦争についてお話ししてみたいと思います。


 日露戦争とは…


 明治37(1904)年に、その頃不凍港を求めて満洲地方や朝鮮半島への南下政策を摂っていた、帝政ロシアの脅威に晒されていた日本が、これに対抗するため両国が激突した戦争です。

 そして二百三高地とは、日清戦争の結果日本に割譲されるはずだった青島や遼東半島などを、ドイツ、フランス、ロシアの三国干渉により放棄させられたことで、これを恩着せがましく、ロシアが清国から遼東半島の旅順港の租借権を得て、同港にロシア太平洋艦隊を駐留させ、日本に脅威を与えていた。

 そして、この旅順港を守るために、後方に築いた旅順要塞の一部です。


 戦争の推移を俯瞰してみます。

 開戦に当たり、日本はまずこのロシア太平洋艦隊の殲滅を企図したのだが、ロシア太平洋艦隊をおびき出すための聯合艦隊の陽動作戦などには、全く乗ってこず、旅順港から出てこない。

 ロシア太平洋艦隊は、ひたすら戦力の温存に努めていた。

 それというのも、遠くバルト海から日本にやって来るバルチック艦隊との合流を狙っていたからなのでした。


 日本海軍は焦っていた。

 もしも、ロシア太平洋艦隊とバルチック艦隊の合流を許せば、その戦力は聯合艦隊の2倍となり、勝ち目はなくなる。

 そうなれば、朝鮮半島周辺海域及び日本海の制海権を失ってしまい、もしそうなれぼ、大陸への補給路は閉ざされてしまい、戦争継続は不可能となる。

 また、日本本土への艦砲射撃も可能となってしまうのだ。

 そこで考え出されたのが、旅順港閉塞作戦である。

 ロシア太平洋艦隊が、港から出られないようにするため、外海に出るための狭い水路に船を沈めてしまおうというのだ。

 しかし、陸上からの砲撃や悪天候によって、三度に渡り、合計16隻の船を沈めるのだが、全て失敗におわった。

 そこで困り果てた海軍からの要請で、旅順要塞の攻略作戦が行なわれることになったのです。

 この要塞を落とし、陸上からの砲撃によってロシア太平洋艦隊の撃滅を企図したのである。

 そして大本営は、乃木大将が指揮する第三軍に旅順要塞の攻略作戦実施を命じた。

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 と、ここまでは皆さんも、司馬遼太郎原作の

 「坂の上の雲」

という小説や同名のNHK大河ドラマなどで、知っている方も多いと思います。

 私も原作の「坂の上の雲」は読みましたが、第三軍の司令官である乃木希典大将は、兵を無駄に突撃させて損害を拡大し続けているだけの、無能な司令官として描かれています。

 とはいえ、小説やドラマで描かれている「坂の上の雲」は、あくまでも史実を基にした物語である。

 では、実際にはどうだったのでしょうか?


 古来、要塞の攻城戦というのは、特に攻め寄せる側に夥しい損害を出すものなのです。

 例えば

 安政元(1854)年の

 「セヴァストポリ要塞の激戦」

というのがあります。

 これは、クリミヤ戦争の際、英仏オスマントルコ帝国の連合軍が、ロシア黒海艦隊の根拠地である、セヴァストポリ要塞を攻撃した戦いだ。

 攻城側連合軍が17万5千人。

 これに対して、ロシア守備隊は8万5千人。

 守備隊側は、海からの補給が可能で、しかも黒海艦隊からの支援砲撃も可能であった。

 ほぼ1年かけて戦われた結果、連合軍の勝利に終わったが、戦死者だけで

 連合軍  12万8千人

 ロシア守備隊  10万2千人

双方合わせて23万人もの若者が、命を落とした。


 また、第一次世界大戦の際、大正5(1916)年2月に行われた

 「ベルダン要塞攻防戦」(仏)

では、ドイツ帝国とフランスの間で戦われた結果

 フランス軍 36万2千人

 ドイツ帝国軍 33万6千人

合わせて約70万人もの若者が死んでいる。


 さらに、第二次世界大戦でも、当時ソ連軍が守備していた

 「セヴァストポリ要塞」

において、ナチスドイツとの間で攻防戦が行われている。

 これも、ドイツ陸軍精鋭第11軍(マンシュタイン元帥指揮)33万人が、機甲師団を擁し、大量の戦車や大砲、急降下爆撃機、さらに大口径列車砲グスタフまで動員し、昭和16(1941)年9月から翌17年6月まで、約9ヶ月をかけ、攻略部隊の3分の1に当たる10万人もの大損害を出して、やっとのことで陥落させたのである。


 かくも要塞の攻略というものは難しく、大損害を覚悟しなければならない戦いであることは、ここまで読んで下さった皆さんならお判りになると思います。

 おそらく史実では、海軍から旅順要塞攻略を要請された参謀総長 山県有朋は、とんでもない損害を被ることを覚悟したのかも知れません。

 本来ならば、大損害を覚悟しなければならないような要塞の攻城戦など、やらないに越したことはない。

 海軍が旅順港閉塞作戦に成功するか、ロシア太平洋艦隊を撃滅出来ていれば、必要のない作戦なのです。

 だが、この旅順要塞攻略作戦が図らずも日本の運命を決する戦いとなってしまった。


 かくして、旅順要塞の攻略を命じられた乃木希典大将は、第三軍を率いて戦地に赴いた。

 ちなみに、その旅順要塞とはどのようなものだったかというと、当然クリミヤ戦争当時よりも築城技術も上がっており、コンクリートやベトンで固められた堅牢な要塞本体は、通常の砲撃では全く歯が立たない。

 そして、それを守るように数千のトーチカが配置されており、さらに迷路のような堀がめぐらされ、そこに迷い込んだ敵は、銃眼から狙い撃ちにされる。

 また落とし穴もあり、そこには鋭い槍の穂先が上を向いている。

 陣地は、相互に援護できるように配置され、死角が巧みに消されており、近づくことさえできないようになっている。

 また、忘れてならないのが、当時の最新兵器である、機関銃の存在である。

 この新兵器を各トーチカに、大量に配置したのだ。

 これだけの機関銃が実戦に使われたのは、初めてであろう。

 そして、この要塞を守る守備隊は

 ロシア陸軍精鋭6万3千人

である。

 後に、ソ連の独裁者スターリンが、旅順要塞を視察した際

 「旅順要塞は、規模も火力もセヴァストポリ要塞の6倍だ」

と語ったという逸話も残っている。

 難攻不落の要塞とは、まさにこのことであろう。

 この難攻不落の要塞攻略を、海軍から要請を受けたのは、明治37年7月である。

 そして、早ければ翌38年2月には、世界最強と謳われたバルチック艦隊が日本周辺海域に到着すると予想されていた。

 猶予は、およそ半年しかない。

 常識的にいえば無理難題である。

 しかし、結果的に日本軍は、明治37年8月19日から翌38年1月2日のおよそ4ヶ月間で、たった1万5千人の損害で旅順要塞を落としてしまいます。

 また何故か、坂の上の雲では描かれなかったが、日本軍はトンネルを掘って、要塞内部にまで進出している。

 1万5千という数字だけを見れば、とんでもない損害なのだが、クリミヤ戦争のセヴァストポリ要塞攻防戦に比べて、3分の一の期間で、9分の一の人的損害で、同要塞の6倍ともいわれる規模、火力を擁する要塞の攻略に成功したのである。
 過去の戦史をみれぼ、これは物凄い快挙である。
 いや、奇跡に近いことであろう。
 事実、世界中の軍事関係者に少なからずショックを与えたことは間違いない。
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 この戦いを切っ掛けにして、陸戦の様相も一変した。
 機関銃対策で生まれたのが戦車である。
 厚い装甲で機銃弾を跳ね返し、砲撃でトーチカを潰していく。
 という戦術ができたのは、この旅順要塞攻防戦の研究から生まれたといいます。
 その後の戦況は、皆さんもご承知の通り、旅順港を後方の「二百三高地」からの砲撃により、ロシア太平洋艦隊を撃滅し
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聯合艦隊が、バルチック艦隊来襲までに、軍艦の整備や訓練をする貴重な時間を稼いだのである。

 そして、乃木大将率いる第三軍は、満洲の荒野において戦われた、奉天会戦へと転戦します。
 ちなみに、この奉天会戦は、歩兵同士の陸戦としては、世界最大の会戦である。
 歩兵同士の会戦で世界でも有名なのは…
 まずは、ナポレオン最後の戦いといわれる
 「ワーテルローの戦い」
がある。
 フランス軍 12万人
 英、蘭、プロイセン連合軍 14万
が激突して、その結果フランス軍は破れ、ナポレオンは島流しになったという。
 他にも、普仏戦争での大会戦
 「セダンの戦い」
 フランス軍 12万
 プロイセン軍20万
があるが、奉天会戦はそれらを上回る
 大山 巌率いる大日本帝国軍 25万
 帝政ロシア軍31万
が満洲の荒野で激突したのだ。
 しかも日本は、この世界最大の大会戦で勝利している。
 その後の日本海海戦でも、長旅で疲弊したバルチック艦隊と聯合艦隊司令長官 東郷平八郎元帥率いる聯合艦隊との決戦で、一方的な勝利を得ることになったのです。
 この結果を受け、アメリカ合衆国大統領 セオドア・ルーズベルトが仲介に入り、樺太の南半分と全千島を日本の領土とすることでポーツマス条約が成立し、日露戦争の講和が実現したのだった。

 後日談になるが、この日露戦争の世界に与えた影響について、皆さんにも知っておいていただきたい。
 特に、白人に支配され、抑圧されてきた有色人種や帝政ロシアに圧迫されてきた国々に与えた影響は大きかった。

 大正10(1921)年3月には、アラビア、エジプト、トルコのイスラム教徒は、メッカで開いたイスラム代表者会議で、日本の帝(ミカド)をイスラムの盟主と仰ぐことを決議し、明治天皇に代表団を送っている。

 日本の勝利に感動した、トルコ青年ケマル・アタルチュクは、仲間を集めてトルコに革命を起こし
「トルコ建国の父」
といわれ、国民に自由を与えた。

 また、ロシア兵として戦い、戦後日本国内の捕虜収容所に収容されていたユダヤ人青年 トランベルトールは、ある日収容所の警備をしていた日本兵に
 「何故小国である日本が大国ロシアに勝てたのか」
と尋ねたそうです。
 すると、その日本兵青年は
 「国の為に死ぬことほど名誉なことはない」
と答えた。
 そして、その言葉がそのままイスラエル建国の言葉となったそうです。

 昔の日本人って凄いと思います。


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