女って奴は本当に訳が分からず怖い生き物だ。
朝会社のロビーを通り、習慣であるあの若い受付嬢の朝の挨拶を受けようかとはにかみながら目を向けると、二人居るはずの受付嬢が今日は一人しか居なかった。一人は電話の対応に追われ、業者らしい営業の外回りの男が辛抱強くそれを待っている。寝坊でもしたのか、とエレベーターの前まで来たら、うちの課の顔だけで仕事が取れるような背の高い部下が「工藤さんちょっと、」と俺を会議室に連れ込んだ。人目を気にして二人きりになると、そいつはいきなり俺の女房の居場所がわかったかもしれない、一刻も早く迎えに行ったほうがいい、と言った。口をあけて呆気に取られていると、その情報はあの若い受付嬢の、山根さんから聞いたという。
「でもなんで直接俺に言わないんだ」少し威厳を持たせて言うと、「山根、あいつやめたほうがいいですよ。かなりしつこいですから」と吐き捨てるように言う。
「なんだ、お前、山根さんとヤッたのか」思わず激昂すると「そんなわけ、ないでしょう?」と大きなため息と共に、哀れみとしか言いようのない目をむけた。
だったらなんだ。山根さんはこいつが好きだったのか。きちんとアイロンがひかれたシャツに、量販店ではみかけない色と模様のネクタイがきちんと結ばれている。俺が、いや、会社ではまず見ない色のネクタイがすんなりと着こなしていて、こいつ本当にいい男なんだと思わず見とれてしまった。
「工藤さんが奥さんを迎えに行くとして、今日明日のプレゼンは自分に任せてはくれませんか。」
てきぱきと言う部下からは清潔な歯磨き粉の匂いがする。俺が最後に歯を磨いたのはいつだったか。いまさっき出来上がったばかりというような白い歯を見上げるような形になりながら、山根さんもこいつとキスしたり抱きあったりだとかしたのだろうかと想像し、全く勝ち目がない自分に唸った。部下はそれを仕事を任せる躊躇と取ったらしく、「大丈夫です、先日先方とは軽く食事を済ませましたし、大事なオプションや質問などはここにまとめておきました」と書類を見せた。
俺が受け取ろうとすると、さっと身をかわし「ささ、工藤さん、こちらが奥様のかけてきた電話番号です」と小さなメモを握らせた。
電話番号は、半日でいける距離の範囲だった。今からいけば、昼にはつく。もう三ヶ月ほど女房にあってないんだなと気づき、汗染みができた自分のシャツが溢れた部屋を思い、一人では到底入る気がしなかったカビの生えた風呂場の湯船を思い、なによりも牛丼や惣菜しか口にしていないことを思い出し、思わず腹が鳴った。
「奥様に戻ってきてもらって、まずは手料理、ですね」しんとした会議室で盛大に腹が鳴った俺をいたわるように部下が言う。
俺はすっかりその気になり、でもそうする前に、やはりまずは制裁を加えなければならず、左手で髪をつかみ右手で頬を撃とうと想像し血が漲るのを感じた。俺から逃げやがって。俺をこんな目にあわせやがって。
思わず閉じたり開いたりしている手のひらを、部下は気味が悪そうにみつめたあと、「後の事は、自分が全てうまくやりますから」と美世子へと通じる会議室のドアを開けた。
思わず走り出しそうな自分を抑えながら、「じゃあ、悪いがよろしく頼む」と囁くと口臭で部下が思わず顔をゆがめ、その瞬間に最後に歯を磨いたのは、あいつが出て行った日だ、と気づいた。