海の話をしようと思う。

怠惰で美しい学生生活を、私たちはいつも一緒に過ごした。驚くべきことに彼の音楽や本や、映画の趣味が私にもぴったりと合っていて、私は海の部屋に遊びに行くたびに彼の本棚から本を借りCDを聴いて過ごした。「こんなのも好きかも」というジェリーフィッシュは一時期毎日聴いていたし、孤独なオバケをつかまえるテレビゲームには深夜まで夢中になった。そんなふうに毎日毎日、私たちはまるで兄弟のように仲がよく、私は博識な彼を尊敬していたし、海はいつも対等に愛情を返してくれた。彼を知っている誰もが海を褒めたし、誰もが彼を慕った。


海に出会った当時、私はひどい失恋をしていて夜も眠れず、家を出てお店で寝泊りをした。(幸運なことに家は自営だったのだ)私は家中の本を読み漁り、眠れなくなるとバイトをしていたコンビニまで歩いた。海は一人で深夜を任されており、丁寧に陳列し正確にレジをうち、品物を大事にに袋にいれて必ず顔をみてありがとうございました、と言った。その丁寧な仕事ぶりは私を呆気にさせた。


「いつもそんなに丁寧に仕事しているの?」

私が言うと海はびっくりしながら「自分がやっている以上、手は抜きたくないんだ」と言った。「君はバイトの子?」

「そう、時間が合わなかったから会うのは初めてだよね。」私が名前を言うと「ネームプレートで知ってはいたから初めて会う気がしないな」と笑い、私たちは握手をした。

「こんな遅くまでおきているの?」

「なんだか眠れなくて」私が漫画をぱらぱらとめくると「またおいでよ。この時間はいつもいるから」とレジに戻った。


それから私は眠れなくなると決まって海に会いに行った。アイスやお菓子を買いスタッフルームで話をして、眠くなると自分の家に帰った。海は私が出ている全ての芝居を見に来てくれたし、私は海の大学の文化祭には彼のギターを聴きにいった。ありふれたカップルだったと思う。海はいつも私の隣にいてくれたし、それがずっと長く続くだろうととても自然なことのように思えたくらい、私たちは幼かったのだ。


私が結婚を決めたとき、誰もが言った。海君でしょう、と。私が違う人に出会ってしまい恋をして子供を産み落とすなど誰が想像しただろう?自分ですら思っても見なかったのに。海は私のおなかをみた。「その子はオレの子じゃない。その子をおろして一緒になってくれ」と。私は首を振った。どうしようもなく一人の人に惹かれていて、自分の力ではどうしようもないくらいそのひとしか見えなくなっていた。そんなことってちょっとひどいと思う。海がどれだけ私をみているか手に取るようにわかるのに。ああ、私は今、海を失おうとしているんだな。そうつぶやくと、海はぞっとするような目をして私を見た。

「違う。俺が今、カオリを失おうとしているんだ」


それ以来、海には会っていない。きっと会うこともない私の最後のボーイフレンドは私に幸せな学生時代の記憶を残してくれた。あんなにひどかった失恋は海の優しさでとっくに癒されていた、なぜなら私たちは青空の下であんなに笑い転げていられたのだから。

最後に海に電話しようとダイヤルをしかけて呆然とした。あんなに毎日かけていた番号が、どうしても思い出せなかったのだ。

そんなばかな。何度も試したけれどどうしても繋がらず、繋がらなくてほっとしている自分に気づいた。これでいい。このまま思い出せなくていい。海はきっとどこかで誰かを愛し、みんなに好かれていることだろう。かつて自分を愛し大事にしてくれた記憶はいつも私を励ましてくれる。たとえ二度と会えなくても、友達に戻れなくても、幸せな毎日を送れたことは海がいなかったら記憶にすら残らないことだろう。

カオリはいいよね、海くんがいるもん。

そういったふみちゃんがちょっと本気だったこと、今になってふと思い出した。


神様、海がどうか幸せでありますように。

自分の力ではどうしようもないくらいにぎゅうぎゅう引きつける魅力をもつ誰かと出逢って恋をして、その人から愛されて毎日幸せに眠れていますように。


今では眠れなくて外に出なくても、ひでさんが必ず目を覚まして一緒にいてくれる私のように、あなたがそういう人にどうか巡り合えていますように。