夫からの何度目かの暴力の後、義父が淹れてくれたお茶を啜りながら今度こそ別れてやる、と静かな怒りを噛み砕いていた。義父の淹れてくれるお茶はいつも不思議な香りがする。もっとも、夫と喧嘩でもしない限り年老いた義父が一人で住む古いこの家には寄り付かないので、毎回このお茶は殴られた頬の痛みとか、激しく蹴られた腹などを庇いながら味わうので普通の状態で飲んだら、もしかしたら美味しいのかもしれない。
「ゆかりさん、やっぱり病院いく?」
何かないかと台所を物色した義父が、何故かかつおぶしと桐の箱を持ってきたので思わず笑ってしまった。今日は笑うと頬が痛い。壁にかけてあった写真たてで思い切りぶん殴られたのだ。
「お父さん、かつおぶしってネコじゃないんだからさ」
指摘した私に、ほっとしたように照れて笑った。「いやごめんこれしかなくて。でもとってもおいしいんだよ。」
いつも息子と喧嘩をし、そして毎回大きな痣や瘤を作ってはたずねてくる出来の悪い嫁にも慣れたのだろう。義父は真剣な顔をして大きな鰹を削りだした。香ばしい香りが狭い居間に広がり、私は思わず目を閉じて大きく息を吸った。
「おなかすいちゃった」
「いいよいいよ、いっぱい食べて。お吸い物でも作るかい」
この家に昆布などあるのだろうか。私は小さなガスコンロと古びた戸棚を眺めた。「お吸い物かあ、いいね。蛤とかいい出汁でるよね」
白くて柔らかい湯気を想像し、自分がとても空腹だったのを思い出した。今日は、料理を食べる前に殴られてしまいありつけなかったのだ。居間に広がる無残な残飯。
夫は一度激情するとなかなか収まらない。今日はなんで殴られたんだっけ。ああ、帰ってきてソファに寝転んだままおかえりと言ってしまったんだった。昨日はずっと夫の会社の愚痴に付き合い鼾がすごくて寝られなかったのだった。夫が帰ってきてソファで熟睡している妻を見て激昂しいきなり胸倉をつかまれたのだった。寝耳に水はよく聞くが寝耳に怒鳴り声も心臓が縮む。結婚してから、夫と二人で行く恒例の人間ドックのたびに自分の心臓が小さくなっていないか医師に聞くのがくせになった。
本当に人間ドックが必要なのは年老いたこの義父なのに。義母が風邪をこじらせてぽっくりと亡くなってしまって何年も経つ。溺愛してくれた母を突然なくした夫は未だに悲しみに暮れていて、そして感情をもてあまし私に八つ当たりしてくる。
暴力を受け入れるかどうかで、愛情を計っているに違いない。私は夫を愛していた。どんなに殴られても次の日はとても優しかったし、関係ない話題で笑わせようとする、その思考はおかしいくらい子供じみていた。
「できたできたよ」
義父がお盆を使わず二つのお椀を持ってきた。「ごめんね豆腐しかなくて、でもねぎいっぱい入れたから、風邪にはいいと思うよ」
風邪など引いていなかったが義父ならではの優しさが嬉しくて、しばらく二人で黙ったままお椀を啜った。削りたての鰹ぶしが香るシンプルなおつゆ。それは本当に涙がでるくらい美味しかった。
「ゆかりさんそろそろさあ、もう別れてもいいんじゃない。あんたはなれない土地にきて本当によくしてくれたし、ばあちゃんが死んでからあいつも変わっちゃってさ、まるで子供に返っちゃって、どうしようも出来ないしさ」暖かい湯気は二人の間にゆっくりと流れる。「なんかさみてらんなくってさ。もう自由になりなさんな」
鼻をすすりながら聞いていた私がふざけたように「でも別れちゃったら、お義父さんのお吸い物、もう飲めないじゃん」というと義父はぽかんとくちを開けて、はじけたように笑った。
「じゃあ、あれだ、一緒に住むか、なあ」
笑わそうと滅多に言わない冗談を口にした義父は「今夜は遅いから、泊まっていきなさい。ぼくはむこうで寝るから」とさっさと布団をひいてくれた。
お義父さんと二人きりで住むのも、悪くないかもしれない。私は心に柔らかく湧いた気持ちに静かに心を馳せようとした。暴力がいつ始まるかびくびくしながら過ごす日々。そういえばこの人はいつもゆっくりと動く。大きな音に私が驚かないように、いつきてもゆったりと居心地がいいようにしてくれる。それは年のせいではなく明らかに私にむけた陽だまりのような暖かさだった。
パジャマなど持ってきてこなかったので、箪笥から義母が残した浴衣に着替え、敷いてくれた布団にもぐった。その瞬間義父が死んだ義母を思い出したことを私はその呼吸で知った。
ああ、私は亡くなった人に嫉妬している。子供のように駄々をこねる夫も、暗闇で静かに面影を探す義父も、亡くなったからこそ湧く強き愛情に翻弄されているのだろう。私は手を伸ばし、義父の皺だらけの手を探した。
「どうしたあ、どこか痛くなっただか」ふいに泣き出した私のそばにきて、義父は困ったように言った。「こんなとき、ばあさんがいたらなあ」
私では一生敵わないかもしれない。でももう戻りたくない。夫はすぐに私を見つけ出して再び暴力を振るうだろう。「おとうさん、わたしここでおかあさんの代わりになる」
ふいに言った私に、義父は明らかに困ったように笑った。「うんそうだなあ、美味しい蛤の吸い物飲んでみたいしなあ」
蛤だって松茸だって、なんだって作ってあげるよ。ひゃっくりあげながら言う私にまるで母のように寄り添いながら優しく布団をたたいてくれた。
「オレの人生で吸い物目当てで若い女の子が泊まってくれたのは、初めてだなあ」
義父の優しい声にうとうとしながら、私は結婚してから初めての幸福と安らぎがおなか一杯に広がる感触を感じていた。