しずくのひとりごと
毎週日曜日の午前中だけが、母ではなく私が私に戻れる貴重な時間だ。帰ったらすぐにお昼ができるように簡単に下ごしらえをし、裸足になれるようにストッキングではなく靴下を履いた。毎週日曜日朝早く妻がどこに行こうと夫は何も言わない。多分どこに行くか解っているのだろう。おおよその見当はつくというように玄関で靴をはく私を一瞥し、また新聞を開きなおした。


息子を失ったこと、私は未だに認めていない。だって姿をみていない。釣りが好きで、サーフィンが好きなたった一人の私の息子は台風が近づくとじっとしていられず海に入った。警報がなり、アナウンスが流れ、大半の若者が陸に上がっても息子は未だ波を待ち焦がれていたという。まるで陸にあがると呼吸ができなくなる魚のように、たった一人波に向かっていった。幼馴染の友達がうなだれながら呟いた。


息子を失った私を、周りは未だに腫れ物でも触るように扱う。ことごとく息子の話題を避け、息子の部屋のドアをきつく閉めた。そうでもしないと、私は息子のコートを着てかばんを持ち、学校へも行きかねないらしい。その通り、できることなら息子の振りをして学校に通いたい。長い手足を伸ばして窮屈な椅子で級友と他愛のない話で大笑いし、教師の目を盗んでお弁当を食べたり、釣りの本を読んだりしたい。彼の学校での生活を想像すればするほど生き生きと息子が動き回り、私の周りを騒がしくさせた。息子の死を認めたら発狂しそうだった。いつか「ただいま」と帰ってくる。浦島太郎のように何もわからなくてもいい、私がまた一から育ててあげる。暖かい服を着させ、好きだった酢豚や餃子を大量に作り、うっとりと話を聞きたい。でもそれが叶わないということは、誰の目にも明らかだった。


目当ての海は少し風が強かったが心地いい砂の音が歩くたびに私のこころを優しくさせた。毎週日曜日、私はいつもてぶらでここにくる。靴下を脱いで、素足になり、スカートがぬれるのを厭わずに波に触れた。

海に入るにはまだ早いが構う人は他にいない。ふくらはぎが浸かり、足のしたの砂がどんどん深くなる。ここでこうやって波と戯れること、それは息子に触れているのと同じだ。


優しい波が私の息子となり、時に力強く触れていく。うっとりと目を閉じると水平線の彼方に彼の姿が見える。手を伸ばせば届きそうなくらいの距離なのに、私の手はいつまでも宙を彷徨い、そして足元を指した。


私はいつまでこうしているのだろう。優しい夫は何も言わないが、何も言わないその優しさが返って私を辛くさせた。あなたは辛くないの?帰ってこない現実を、あなたはいつ、どうやって認めてきたの?


胸がぬれるほど深く海に入ったのかと思ったら、それは私の頬をぬらす薄い涙だった。枯れるほど泣いたのに、まだ枯れない涙。顎を伝って落ちていくしずくを、私はそのままにしている。

私が耐えられないのは、彼がこの世界から消え、さらにどんどんその息遣いを忘れられていくという事実だった。私はこんなに身近に感じるのに。物体が消えただけで、どうしてすぐに忘れていけるというのだろう?


ふと背中越しに、誰かが立っている気配がした。そっと振り返るとそれは眩しいくらいの逆光の中、大きな白い犬を散歩させている少年だった。

犬はありあまる好奇心を押さえきれず、鎖がぴんと張るまで少年をせかしている。短く切りそろえた髪、長い睫毛は自分の犬を追うのに必死だ。


少年の横顔を無遠慮に眺めているうちに、どうしようもなく心がきしんで、思わず嗚咽を漏らしてしまった。


犬に引っ張られながら、少年は今まっすぐに私をみている。早く泣き止まなくては、と思う心とは裏腹に、口を着いて出た言葉は自分でもびっくりするほと切羽詰まったものだった。


「通りすがりの方にこんなことお願いするのはばかげたことだと重々わかっているんです、一度だけでいい、あなたを息子として呼んでもいいですか?」


スカートを波でぐちゃぐちゃにぬらした中年の女に、少年は明らかに動揺を隠せなかったがまっすぐに女を見つめた。どうしようか考えあぐねているようだった。

どうかしている、まったくどうかしている。私は一つ深呼吸をして、もう一度少年に向き合い、深くお辞儀をし背をむけた。今日はここに、いつもよりも長く留まりすぎた。こういう兆候は危険だ。自分を見失ってしまう。

靴下をポケットにいれたまま、逃げるように靴だけ履いて少年に背を向けて歩き出した途端、少年が叫んだ。



「おかあさん!」



背中越しに、彼の暖かく力強く、生命力にあふれた声がぶつかって、私はおもわず足を止めた。


これが生きた人間の声だ。私の息子は、いつも怒ったように私を呼んだ。

上手く歩けない砂浜で蟹をみつけたとき。広くい校庭のすみで鉄棒をまわれたとき。ランドセルを投げ、ただいまもよりも先に、いつもそうやって私を呼び止めた。


「おかあさん!!」


さっきよりももっと力強く、少年が私を呼ぶ。その声は、一瞬にして私を母親に戻した。そして私の息子はもう二度と、私をあんなふうに呼ぶことはない。あんなふうに力強く、あんなふうに全身で私を求めてこない。


背中をむけたまま、私は息子の名前を呟いた。


代わりに大きな犬が吠えて、びっくりして悲鳴をあげた。


「おかあさん」

「はい」


「おかあさん!」

「なあに!」


少年は何度も私を呼び、私はその場で泣き崩れそうになる。

空はどこまでも高く青く、降水確率ゼロに反して私はいつまでも静かに涙を流し続け、暖かい風が強く吹き頬をなぶっていく。


大丈夫、生きていけるだろう。

生きている限り何度でも、彼の名を叫ぼう。彼は損なわれたのでもなく、失われてもいない。ただそこにいる。

今夜は久しぶりに夫の好きなものをこしらえよう。わたしはやっと地平線にうかぶ朝焼けをまっすぐに見据えた。それはとても美しく光っていて、まるで世界の果てと繋がっているようで、私はいつまでも目が離せずにいた。