3月2日 亡くなる前日 | forget-me-not

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大腸癌末期の父→腹部大動脈周辺・肺転移→脳転移 残された時間は・・・
日々の症状や家族の思い、病院の対応等々綴りたいと思います。

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夫には頻呼吸になった時点と担当医が4時半に来た直後にメールと電話もしました。


その後父の様子をじっと見つめながら一睡もせずに朝を迎えました。


出来れば9時の回診の時に家族のかたにも来て頂いたほうがいいと思います、


と看護士より言われたことを再度夫にメールで伝えました。(7:06)


そして今夜は母が泊まった方がいいとも。


母が父のそばにいるのが一番いいと思ったのです。


それは無意識に、もしかしたら・・という思いからだったかもしれません。


呼吸数は25位まで下がったものの依然苦しそうな表情は変わらず。


3時半からだからもう4時間近くも同じ状態。


おそらくもたない・・どこかでそう思っている自分がいました。


夫と母は8時前に来ましたが、先日とは打って変わって急変してしまった父を見て二人ともびっくり。


ただただずっと3人で父を見守ることしかできませんでした。


苦しいのをどうにかしてくれ、痛みもどうにかしてくれと訴える父


母は回診で来た際担当医に


「どうしますか?」 と聞かれ 「楽にしてあげてください、痛みをとってあげてください」 と言い、


私は母に 「本当にいいの?」 と聞き返すも


父もそうして欲しいとはっきり言葉で言えないまでもうなづいていました。


その後、11時近くになって別の看護士2人が来たので薬の名前を聞くと「塩酸モルヒネ」 でした。


私は驚いて、もう父と話せなくなってしまうのでしょうか?と聞くと


「徐々に徐々に話すことは難しくなってしまうと思います。そして寝てることが多くなると思います。」 


と、淡々と話す若い看護士。


母に再度本当にいいのかと念を押したところ、苦しいのは可哀相だからいい、と。


このとき母がどこまでモルヒネの意味をわかっていたか不明ですが。。。


モルヒネが入り、母が席を外した時にもう父と話すのは最後かもと思い、


父に言えなかったこと、話しておきたかったこと全て話しました。


「お父さん、今入れた薬はとても強い薬だから、


もしかしたら話をすることが難しくなってしまうかもしれないから」 と切り出しました。


子供の頃にイギリスに留学させてくれたことへのお礼、


厳しかったけどとても尊敬していたこと、


そして何でも出来る自慢の父親であったこと、


そんな父が大好きだったこと、 


これから夫と共に幸せに生きること、


英語をもっともっと勉強すること、


小さな頃に習わせてくれたピアノもこれからもずっと弾き続けること、


そして今まで育ててくれて本当に感謝していること


「お父さん、本当にありがとう」 


何度も言おうと思って言えなった一言がやっとの思いで言えました。


父は何度も何度も 「ありがとう」 と、そして 「頑張って」 と言って私の手を強く握ってくれました。


その後母と二人にして私が病室を出ました。(11:05)


その後父はほとんど呼びかけにも反応しないまま、


12時を過ぎても痛みが取れないようなので母がナースコールすると


スピードをちょっと速めますとのことで、その30分後にようやく眠りについたのでした。


私は夫にメールで知らせ、あとどのくらい大丈夫なのかと聞きました(12:21)


その後先生がいらして


「今回はとても厳しい山だと思います」 とひとことだけ言われました。


私はあまり時間はないと思うと夫にメール(12:56)


その後不思議と冷静に母と葬儀をどこに頼むかなどの話をしていたのをメールを見て思い出しました。


その後も父は何度も苦しそうで薬が効いていないのではと思ったほどと夫にメール(14:12)


15時過ぎにようやく落ち着いて来て眠りに着きました。


叔母からメールが来て、明日お見舞いに行きたいとのことで病室など教えました。(20:09)


私がもう1週間近くほとんど寝ていないことを母が心配して、看護士からも先生からも何も言われていないから


今夜はまだ大丈夫だろうからと自宅へ戻って休んでと言われ戻ることにしました。


私は帰宅後すぐさまネットで気になっていた痰の吸引について調べました。


長時間の痰の吸引による頻呼吸という事故が出ていたのです。


この場合モルヒネを少量だけ投与して呼吸を改善させることが可能なことも書かれていました。


急いでシャワーを浴び病院へ駆けつけて見るとモルヒネは24時間でゆっくり48mgも入る計算に


設定されており、慌てて看護士にモルヒネを止められないかと言いました。


もう夜も10を回っていました。


先生に聞いてくれたのか、スピードを2倍の遅さに変えてもらいました。


頻呼吸で弱った心臓にモルヒネを投与することで急死の可能性があると思ったのです。


結局のところ意味があったかわかりませんが。。。


その夜は帰らずに急遽夫も含め3人で泊まることにしました。


今思うとなぜそうしたのかわからないのですが、帰ってはいけないような気がしたのでした。


朝まで母と昔話やら何やら話して、もうダメかもしれないと思いつつも


まだ数日は大丈夫と、矛盾しているのですが心のどこかで思ってもいました。


隣の病室からも夜中だというのに話し声が聞こえていて、大勢のかたがいらしてたようでした。


危篤だったようです。


父の呼吸数は20前後を行ったり来たりで、頻呼吸になってからは無呼吸にはならずとも


やはり定期的に荒く深い呼吸になったりで私達には苦しそうに見えましたが、


既に意識はなく後に知ったのですが本人はもう痛みや辛さは感じていなかったと思われます。


徐々に父は肩だけでゆっくり呼吸しているように見えました。


その直後、脈拍が測定不能になったり戻ったりし始めました。 


見れば血圧も酸素量も少しずつですが低下してきました。


私はナースコールを押しました。