長らくご愛読いただきましたがこの心の牧場は実の所きちんとした主体性を持った創作物ですのでここまで書いてきてとうとう完結となりました。
これからは作家としての視点からウェブ上のフリー画像を参考に普通のブログを投稿しようと思っています。
また何か機会がありましたら作品としての格式のある執筆をするかも知れませんのでその時はよろしくお願いします。
心の牧場を削除すべきかどうかについてはしばらく様子を見てから判断します。
この書物は大変役に立っていると思っている方がいらっしゃることを考慮して可能性がある限り削除しません。
これが最後の作品となります。
ごゆっくりお楽しみください。
真理の人
心残りがある聖人の思いは人知れず優れた考えを余力にしている。
切り捨てられない主観が何かを求めているからこそ活性の作用があり、元気というものも出てくる。
聖人とはいうもののやはりその本質は人間なのだ。
立派な人と見るのが第一の所見となるし、必ずしも教えを施して下さるとは限らないので何やら優れた特質を持つ御方と人々に思われる、それが聖人の世に現れ出た姿ではなかろうかと思われ、それが聖人を理解する上での一つの基準にはなる。
聖人であるならば必ずこれはするだろうなどのとらえ方は非常に難しい見方であり、元々は人々から悩みを除き悪を打つことを心身の行いとしている聖人であるから受容の姿勢でしか人物像を把握することはできないし、対等に優劣を判別するならば自分自身の悩みとなって苦しむのが結末ではないだろうかと思う。
有りのままを最上に把握することの難しい聖人なのだが一番求められる重要な点は言葉の力以前のもの、心に投影される印と象徴が何かを伝えようとしている意志の伝達を予見(*前もって見通すこと)しなければならないとの心構えをしっかりさせることであり、泰然(タイゼン*落ちついて物事にびくともしない様子)な意識と素養があれば自分がどのような立場に在るかを客観的に知ることができるようにもなる。
聖人崇拝の初心者としてはこれ以上の姿勢はない。
ある意味において強者ではあるが迫り来る不運を取り除いて下さる。
頼みとなる力は何と言っても理性的概念に存在し、学生が学業を修めてゆくことのように真心を込めて心を尽くし、悩みを除き、悪を打つこと以上のもの、いわば導きを求めるに値する教えが施されていること、そのことを認識できる体系がそろっていることこそがすがれる対象としての聖人と言える。
聖人が頭角を現すとまもなく有名となり評判が広まる。
そして人々に名教(*聖人の教え)が待望されるのだ。
冷評(*同情心がない評)を浴(あ)びせる人が出てきて異見が自説や持論のために正義を尽くすかのような態度で正しさは我(われ)にありとする、横付(よこづ)きする人が現れるのは聖人の言葉が公(おおやけ)の人々を魅了したからであり、その聖人を正しに出てきた人は世間の平安のために出てきたのか、自分の力試(ちからだめ)しのために出てきたのかのいずれかによっておおよその筋道が決定してしまう。
前者の場合は偽(にせ)聖人を打つために出た人であり、後者は弟子になりたいという感情が行き過ぎたもの、情熱の人であったと考えることができる。
何故なら他者を攻撃して打たなくても独自にしようと思えばできるからだ。
僕ならばそのようなことはしないであなた自身を立脚してあなたも聖人になりなさいと勧(すす)めます。
人々に広く知られた聖人の教えは後に古訓(*古人の教え)となる。
基本的に聖人は必ず志士である。
キリストは聖なる存在であり、人を超えた御方であるからイエス様と言われている。
もはや人の姿をしていながらも人ではないのでしょう。
パウロやヨハネはこのイエスに憧れ、心奪われた。
イエスは人を超えた御方であるから一生涯に渡って忠実に従うと心に決めて崇拝することは善性を魂に宿した正義なのであるから信じることに十分な意義があると言い切ることができる。
聖書の一節 イザヤ書 5.29~30 「そのほえることは、ししのように、若いししのようにほえ、うなって獲物を捕え、かすめ去っても救う者がない。その日、その鳴りどよめくことは、海の鳴りどよめくようだ。もし地をのぞむならば、見よ、暗きと悩みとがあり、光りは雲によって暗くなる」。
イエスは受容や肯定を意味し、当然ながら悪には逆らわず、癒しという行為に変化させる徳行者であったことが解かる。
悪に逆らうのは実は心の負けに他ならない。
己の心を正すのは正す行いの未熟矯正なのだから全身全霊の力や気魄(きはく)が一段下がっている自分自身の姿なのであって、悪を正すと言うも同じである。
それならばイエスは一段高い生き方をしていたと判明する。
無抵抗の真義である。
イエスは神とはいうけれども善悪にとらわれない真理の人であったのだ。
これからは作家としての視点からウェブ上のフリー画像を参考に普通のブログを投稿しようと思っています。
また何か機会がありましたら作品としての格式のある執筆をするかも知れませんのでその時はよろしくお願いします。
心の牧場を削除すべきかどうかについてはしばらく様子を見てから判断します。
この書物は大変役に立っていると思っている方がいらっしゃることを考慮して可能性がある限り削除しません。
これが最後の作品となります。
ごゆっくりお楽しみください。
真理の人
心残りがある聖人の思いは人知れず優れた考えを余力にしている。
切り捨てられない主観が何かを求めているからこそ活性の作用があり、元気というものも出てくる。
聖人とはいうもののやはりその本質は人間なのだ。
立派な人と見るのが第一の所見となるし、必ずしも教えを施して下さるとは限らないので何やら優れた特質を持つ御方と人々に思われる、それが聖人の世に現れ出た姿ではなかろうかと思われ、それが聖人を理解する上での一つの基準にはなる。
聖人であるならば必ずこれはするだろうなどのとらえ方は非常に難しい見方であり、元々は人々から悩みを除き悪を打つことを心身の行いとしている聖人であるから受容の姿勢でしか人物像を把握することはできないし、対等に優劣を判別するならば自分自身の悩みとなって苦しむのが結末ではないだろうかと思う。
有りのままを最上に把握することの難しい聖人なのだが一番求められる重要な点は言葉の力以前のもの、心に投影される印と象徴が何かを伝えようとしている意志の伝達を予見(*前もって見通すこと)しなければならないとの心構えをしっかりさせることであり、泰然(タイゼン*落ちついて物事にびくともしない様子)な意識と素養があれば自分がどのような立場に在るかを客観的に知ることができるようにもなる。
聖人崇拝の初心者としてはこれ以上の姿勢はない。
ある意味において強者ではあるが迫り来る不運を取り除いて下さる。
頼みとなる力は何と言っても理性的概念に存在し、学生が学業を修めてゆくことのように真心を込めて心を尽くし、悩みを除き、悪を打つこと以上のもの、いわば導きを求めるに値する教えが施されていること、そのことを認識できる体系がそろっていることこそがすがれる対象としての聖人と言える。
聖人が頭角を現すとまもなく有名となり評判が広まる。
そして人々に名教(*聖人の教え)が待望されるのだ。
冷評(*同情心がない評)を浴(あ)びせる人が出てきて異見が自説や持論のために正義を尽くすかのような態度で正しさは我(われ)にありとする、横付(よこづ)きする人が現れるのは聖人の言葉が公(おおやけ)の人々を魅了したからであり、その聖人を正しに出てきた人は世間の平安のために出てきたのか、自分の力試(ちからだめ)しのために出てきたのかのいずれかによっておおよその筋道が決定してしまう。
前者の場合は偽(にせ)聖人を打つために出た人であり、後者は弟子になりたいという感情が行き過ぎたもの、情熱の人であったと考えることができる。
何故なら他者を攻撃して打たなくても独自にしようと思えばできるからだ。
僕ならばそのようなことはしないであなた自身を立脚してあなたも聖人になりなさいと勧(すす)めます。
人々に広く知られた聖人の教えは後に古訓(*古人の教え)となる。
基本的に聖人は必ず志士である。
キリストは聖なる存在であり、人を超えた御方であるからイエス様と言われている。
もはや人の姿をしていながらも人ではないのでしょう。
パウロやヨハネはこのイエスに憧れ、心奪われた。
イエスは人を超えた御方であるから一生涯に渡って忠実に従うと心に決めて崇拝することは善性を魂に宿した正義なのであるから信じることに十分な意義があると言い切ることができる。
聖書の一節 イザヤ書 5.29~30 「そのほえることは、ししのように、若いししのようにほえ、うなって獲物を捕え、かすめ去っても救う者がない。その日、その鳴りどよめくことは、海の鳴りどよめくようだ。もし地をのぞむならば、見よ、暗きと悩みとがあり、光りは雲によって暗くなる」。
イエスは受容や肯定を意味し、当然ながら悪には逆らわず、癒しという行為に変化させる徳行者であったことが解かる。
悪に逆らうのは実は心の負けに他ならない。
己の心を正すのは正す行いの未熟矯正なのだから全身全霊の力や気魄(きはく)が一段下がっている自分自身の姿なのであって、悪を正すと言うも同じである。
それならばイエスは一段高い生き方をしていたと判明する。
無抵抗の真義である。
イエスは神とはいうけれども善悪にとらわれない真理の人であったのだ。