清い心はずたずたに切り裂かれた心とは違うのであり、和徳のある人が魔物に負けてしまった後の人生に見る災難は人類の中でうまくゆかなかった大きい意味での失敗ではあっても、若い頃からそのような苦労をしておくと社会的に見て嫉妬(しっと)や悪口などの人の心に負けたこと、いわば魔物の攻撃に対する恨みを晴らすために力をつけ、ぐんぐんと正しい理性を身につけていよいよその魔物に対する恨みを晴らせるのではないかと思えるところまでゆくが、やはり勝てるはずはなくただ人間としてまじめに生きてゆくこととなるけれども、この強い心と清い心は実はつながっているのであり、この連なりによってようやく自分自身に救いをもたらすことができる。
この正道を貫こうとする時、何者かとの訣別(*わかれをつげること)があっても不思議ではないほど壮絶(この上なく)な精神状態となることは必至であり、大変であることはいうまでもない。
それは高尚(こうしょう)に上品に考えてみれば人間としてのレベルでもある。
私心なくそうして思いを凝らすと冷静になることもできるし、正しい見解も出てくる。
この明白な感情は正義でもある。
公平な立場を保てば何等かの結果を見ることになる。
強い力を張って善の趣を絶やさないことは独善の威力で他者と衝突する性質があってもあくまで内面的であって、一つの型を得ようとするような目途がある限りはその人はまだ悪人ではないし、調子の悪い言葉や不快感だけで有害な何かの原因となる人と思われることはないであろうし、勇気を出してその時には自分自身を貫くのがキリスト教的盛んな思い切った態度であるといえる。
キリスト教に通じるこの概念は高等な修行法にも属し、一般人のみならず人生の貴重な経験から得られる最上の境地であることは悪魔に試されたイエスの試練とも合致する魂の道であると推察するべきことでもある。
土に埋(うも*うずまる)れる根こそは茎・葉・実・花の元であり、醜き泥ともなる土こそは植物に力の基礎を与える大きな恵みであることを考えると自然は偉大である半面、試練を全て受け止めている現実の美醜善悪の苦境を人間にも相通(あいつう)じるものととらえることで見識を広める努力とその控え目な生き方を道とできる正しい人としての姿に自信を持ち、更なる希望が湧いてくることが何より素晴らしき感情ではないかと天国の合格ラインをかいまみるすがすがしい時となる。
この強力な精神範囲の観察は知恵が伴っていて、怒りという風に吹き飛ばされてしまわないようにさえすれば試練の覇者という霊魂の称号はつくような気がする。
一つ一つを正さなければ先のない人間達。
人間は生の中にあるのだから当然だ。
死後の天界や神霊をいくら求めたとしてもやはりこれだけは仕方ない。
だから人生という言葉をもっと大事にして歪(ゆが)んだ心や欲望に絡んでしまった悪心を捨ててこの真相を直覚に肯定すると非常に素朴な善心が見えてくる。
しかし、その前に私が語った神聖なる道標(みちしるべ)はこの上もない重要な悟りのような気がする。

聖書の一節 エレミヤ書 33.10~11 「主はこう言われる、あなたがたが、『それは荒れて、人もおらず獣もいない』というこの所、すなわち、荒れて、人もおらず住む者もなく、獣もいないユダの町とエルサレムのちまたに、再び喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、および『万軍の主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみは、いつまでも絶えることがない』といって、感謝の供え物を主の宮に携えてくる者の声が聞える。それは、わたしがこの地を再び栄えさせて初めのようにするからであると主は言われる」。

誠に旧約聖書もイエスの教えも神の雛形(ひながた)である。
導かれたとおりに思い考えを凝らすならば他の宗派の中に在ってすら正しい道標(みちしるべ)となる。
各宗派の信者が自分達の本尊を唯一であるとするのは信者の熱意であるから仕方ない。
あなたは心の病にかかっていると言われたとしてそれが本当ならばある意味で樹立できず立脚できない自分に気づくことでもあるのだからそのようにならない分においては信仰の自由を堅持することに問題はない。
それにしてもキリスト教は素晴らしい宗教である。
捨てられない考えや思いは決心したことと同様に奮励して生きる自分自身の存在理由と良く連なっていて、わずかなことにも気を配る度量の広さを貴び、誇りそのものとなっている譲れない魂のことなのであり、捨てない考えや思いは存在自身のことなのだろうと思う。
魂であるからには改めることもないのだ。
もし、改めるならばすっかり人間が変わってしまうに違いない。
自分自身の存在性を更新してしまうのはあまり良いことではない。
何故なら根から伸びて成長したのが人間でもあるから養いつなげて継続する個性の培いが長い生涯を通して必要であることを知らなければならないからである。
人物は中立の立場で見る限りは人相や態度などから人柄が窺(うかが)われ、レッテルが付くなどという言い方は人間の見え方が基本的に察知する自然な現れ方を中庸として見るからされてしまったというような感覚になる、そのことのように見たところこの人はこんな人だとおおよそのことが解かったりする。
欲が深いことを貪求(とんぐ)というが、実を言えばそれは人生を無駄にすることの極みであり、その自分で自分にかけた魔術のような束縛を解く必要があるのであって、少なくともいつか気づかなければならない心の豊かさと関わっている大切なこととむしろいえる。
災難に遭わないと安心してはっきり確証する善心の直感はインスピレーションは所詮インスピレーションだなどとは言いきれず、明らかに福運に連なるであろう人の不思議な力であり、この力は二つとない命を救う唯一の確信となる時もある。
考えや思いは一度その色に染まった自分を意味する。
人は普通は染まった色の服をこの色で良いのだと決めて廃れるか破れるまでずっと着ている。
考えや思いを変えるのは改心に属する。
間違った考えや悪い思いに気づくことは修正をなすことであって、切り捨てることではなく維持しなければならないことが修正の要点となる。
そうでないならば悪をなくするためにこの世から考えという言葉と思いという言葉をなくそうではないかということになる。
憤慨(フンガイ)して怒り、心の狂った王様ならば言い出しかねない。
まぁ、この例えはともかく、ここで解かることは自尊もほどほどにすべきことではないか。
過ぎたる自尊は貪求して正しい心が見えなくなっている。
善心の直感のように正しい心が見えている人徳こそが本当に好ましい威厳であろうと思う。
良く考えてみると両者とも普通の人である。
だからこそ人の低劣は害となることにまで高まり、人間本来の要点を欠き、自失の原因となるものである。
このような自分を見捨てずにむしろ肯定して改めさせ、価値ある観念を植えてやれば逆に否定され得ない優位の者となすことができる。

聖書の一節 エレミヤ書 33.14~16 「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。その日、ユダは救(すくい)を得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」。

誓文(*誓いのことば)は人の本意と性行(*性質と行為)を決定付けている。
心が豊かになるならば人はどのような誓いも立てられるようになる。
立場をわきまえ善良な心で物知り顔にならず心の豊かさを育めば福運に恵まれ、自ら招いた確かな結果を得られる。
これは否定され得ない生命の本質である。
誠に基(もとい)とすべきことである。

大勢の人が並んで順番を待っているような心境で怪談を聞いていると正しい心で訴えるようなものは後味が良いけれど、基本的に考えてみると未知の世界を見ようとすることに過ぎない真相の見解が生じ、ああ暇な時間を使って自分を誑(たぶら)かしていたんだなぁとはっと気づくことができない訳ではない。
確かに誠意で人は話しをするのだろうけれど自己処理する権利は誰にでもある。
まじめな人が嫌われることの理由はイメージが灰色となって未来性豊かな人ではないと感じさせてしまうことが第一にあり、実際には合う合わないの個性的違いが生命自身に大きな負担をかけているだけという隠れた事実が根底にあるエモーションカテゴリーだったともし気づけるならばその人は多大な成長をしたことになる。
しかし、このような純粋な人は怪談話の餌食(えじき)になりやすい。
御徳のある人の作り話(うそ怪談)は聞きたくても中々聞けないのだし、おおよそは本当にあった心に危険な威圧をもたらす刃物と化す。
実に人々においては気をつけて頂きたいと思われます。
死をまねくような言葉や話は自由自在な心の力を奪って、精神陥落させられ、ちょっとしたことから神経衰弱の原因になり、不運の重なりから死に至ることは世間に多々あったことのように思われます。
人の清らかな心を濁すことは極力避けるべきことではあるが俗世間ということ自体が許容する怪談話などのものは避けられない切磋琢磨の壁として突き当たるのが不運ながらの忍耐養成の機会となり、元々は昔の日本にあった怪奇現象が言い伝える他はなかった珍事であったため、今の人々が奇を好む傾向に持っていってしまった経緯(いきさつ)を考えると自分の存在性は大きく心も魂も強いんだと肝試しをする社会人としてのボーダーライン(区別のつきにくい境い目)を認めなければならないと無関係ではいられない同じ人間としての立場がある。
それは他人を思いやる善人としての心でもある。
僕は異心なくそう思える。
社会にとって必要なことだったのだろうと思う。
現代においては自分の力を試したいと思う人が非常に多いため、怪談話は世間で比較的もてはやされ、こういうこともあるととらえた知性化によって人生のバイタリティーになる人間としての強さに基調が据(す)えられている。
生存している自分はまず第一に力の元であることを考えると次には在り方を考えるのが上品な態度なのであって、自己本位はやはり下品となってしまう。
日々常に安んじていたいならば自己本位の方ではなく在り方の方をよくよくとらえるように努力をすることこそ大切な心構えと思い知るようにすることで普通の人になることができる。
この普通の人になることは簡単なようで中々なることはできない。
考えてもみれば普通の人とは善良な市民のことであり、善良な市民とは心にわだかまりのない優良な精神を持つ人のことである。
実質的にはそれはそれは難しいことではないだろうか。
立派な人となりたければまずこの条件を満たさなければならない。
普通の人にならなければならないなどとは随分と低劣なことだなと思うかも知れないが真理はおおよそこういったところに隠れている。

聖書の一節 イザヤ書 3.24 「芳香はかわって、悪臭となり、帯はかわってなわとなり、よく編んだ髪はかわって、かぶろとなり、はなやかな衣(ころも)はかわって、荒布の衣となり、美しい顔はかわって、焼き印された顔となる」。

実は普通の人になれていないと減退などから思い知ることは世間に多々あることである。
不幸も又同じことなのであるから注意しなければならない。
幸福は普通の暮らしから展開してゆくことは我々のよく知るところである。
その幸福が何であったかをよく知るには普通の自分、いつもと変わらぬ普通の暮らしが基(もとい)となることは大事なことではないだろうか。
減退・陥落・過失は普通を基準とすれば全て改まることである。
迷信でさえをも打ち破る大きな力となる。
だからこそ平凡な日々を有意義にしてゆくべきではないか。