テレビは壮大な社会実験であると言われて久しい。

 

多大な数の人間が一つの事柄を視聴するというのは、歴史上のコロッセオの剣闘やルーブル美術館の芸術作品であっても物理的に難しい。

 

しかしテレビの発明によりそれが可能になった。人類の歴史の中であってもこれほど大多数の人間が同じものを見るということはなかっただろう。

 

その結果、人類の思考性、嗜好性、つまり好奇心の指向性がある程度把握できるようになった。

 

例えば、アポロの月面着陸は映像は日本時間で早朝であったにもかかわらず68.3%あったそうだ。地球上の人類が誰しも知っているあの『月』の到達である。老若男女問わず興味があって当然だ。人類の好奇心スタンピードと言って良いだろう。

 

とは言え、やはり人類には個人差がある。興味の指向性も人それぞれだ。

 

スポーツだったりお笑いだったりニュースだったりドラマだったりアニメだったり。

 

テレビが一方通行で情報を流していた時代がとうに終わり、視聴者が自分の興味のある情報を能動的に獲得するこの時代、あの月面着陸を超える好奇心スタンピードはもう起きないのかも知れない。

 

それでもテレビは視聴者の興味を獲得すべく日夜頭を悩ませているのだろう。ひょっとするとまだ知られていない人類の好奇心のバグ、人類の70%が興味を抱くような何かを探して。

 

 

ところでこんな話を聞いた。テレビ業界の謎。違う意味での好奇心のバグ。

 

正月が過ぎて日常生活が戻るころ、朝の情報番組では結構な確率でこのような特集が組まれる。

 

 

お正月食べきれなかったおモチのアレンジレシピ!余ったおモチの美味しい活用法!

 

 

誰もが一度は聞いたことがあるだろう。それぐらい放送される。

 

なぜ放送されるかと言えば視聴率が高いからだ。

 

だがここに不思議な落とし穴がある。

 

拾い物だがこういうデータがある。

 

 

正月にモチが余る群     約40%

モチが余らない食べない群  約60%

 

そもそも何故モチが余るのか。

 

杵と臼の昔ならいざ知らず、現代の個包装となり、保存料たっぷりで、冷凍することができ、スーパーで一年中買える現代である。

 

これが他の食品だったとして、例えば「袋うどんを買い過ぎた。困った」となるだろうか。購入する前にどの程度食すか見積もることぐらいするだろう。

 

はっきり言うと、「モチが余る」は幻想である。

 

テレビを作る側も情報の変化には敏感だ。この令和の時代「モチは余っていない」ということは重々承知のはずである。

 

なのに何故か、「余ったモチのアレンジレシピ」はずっと放送されている。

 

思うに、視聴者が

 

「余ったモチのアレンジレシピ特集してる。うちはモチは余ってないけど誰かにはこの情報必要なんでしょ」

 

とながら視聴でもしているのだろう。

 

だが「だが余ったモチで困っている視聴者」というのは決して多くないのだ。

 

極論言えば

 

存在するだろうけどごく少数の人たちのことを慮った多くの視聴者が自分には関係ないにもかかわらず視聴することで発生する高い視聴率

 

という不思議な現象なのだ。

 

繰り返すが、モチは保存できるし、いつでも買える。

 

だから特集名は「モチのアレンジレシピ」でいいのだ。

 

しかしこの手の特集には絶対に「余った」が枕詞につく。

 

「余ったモチ」など存在しない。

 

存在しない「余ったモチ」のための特集。

 

存在しない「余ったモチに困らされた人々」。

 

「存在しない余ったモチに困らされた人々」を助ける番組を見る視聴者

 

「存在しない余ったモチに困らされた人々を助ける番組を見る視聴者」によって生み出される視聴率。

 

 

虚無である。余ったモチビジネスは虚業である。

 

何か現代の童話ような話だった。