私たちはいつ死ぬかわからない生物です。
なんかのマンガで言っていました。
運があれば毒を盛られても生き延びる
運が悪ければ瓦が降ってきても人は死ぬ。
そんなものだと。

医者という職業をやっている以上、健康と死というものは常に付きまとう存在であり、死を考えるのであれば生をこそ考え、逆もしかりで考えなければ、死の意味さえも見えては来ません。 

私も明日死ぬかもしれません。
確かに自殺することはないでしょうが、こけて死ぬかもしれません。

心筋梗塞になるかもしれません。
脳出血になるかもしれません。
くも膜下出血になるかもしれません。
それが怖くてみな健診とやらを受けるのでしょう。
しかしその健診をやってもこれらを防げていないのが、西洋医学とやらの現実です。 

医学は人を助けはしない、という大前提から医学の正体が見えてくるのです。
救急に意味があるのは修理と同じだからであり、だから西洋医学の花形なのです。

私が携わる分野とはいわゆる慢性病であって、癌、膠原病、難病、アレルギー、アトピー、精神病、遺伝病、生活習慣病など、現代人の日常にかかわり死を感じさせるものと感じさせないものが同居しています。 

しかしこれらがよくなる時は皆同じです。

本質的にいう死を見つめきって、真の意味で自分に正直になれるかどうかが、これらの病気の改善に最も寄与しているといって過言ではありません。
この場合の死は自殺の脅しとかそんなんとは無関係であり、真の意味で自分にとっての死がなんであるかを見つめるということです。

私が今日死んだらどうなるかを見つめるのです。 

それなくしてどうして高い目的が設定され、人生が豊かになることがありうるでしょうか。
私は私が今日仮に死んでも、それでも伝えたいことをすべて家族に伝える気持ちで生きていくのです。

そりゃ、本当は今日死ぬなんて誰だって本心では思っていないでしょう。
でも瓦は落ちてくるかもしれません。
だから毎日を可能なかぎり燃やし尽くして生きるのです。