奄美大島の土を踏むのは、かれこれ二十年ぶり、ということになる。もちろん二十年前は船旅だった。神戸港中突堤(なかとってい)から〈波の上丸〉と小さな定期船で、十数時間かけて名瀬に着き、こんどは七曲りの山道を一時間ほどバスに揺られて、あやまる岬にたどりついたものだ。目の前にひろがる亜熱帯の海を見て、ここはパラダイスか、と、しばし陶然(とうぜん)とした昔を、思いだした。まるで陽炎(かげろう)の立つ砂洲かと錯覚するほど透明な海でトルコ石のように神秘的な青色をかがやかせる熱帯魚、コバルトスズメを一心に追いまわしたのが、二十年前。しかし、今回は便利な飛行機の旅である。あやまる岬のすぐ近くに降りたち、車でサトウキビ畑のあいだを抜けると、なつかしい南風の匂いのする眺望(ちょうぼう)がひらけた。あたりのたたずまいはそれほど変わっていない。聖地を俗地に一変させる若い女性観光客の姿も、海辺には見あたらなかった。亜熱帯のパラダイスは健在だったのである。奄美大島のシャ‐マンと出会う旅を約束されたとき、まず何よりも先に見ておきたかったのが、本島北部の霊的な眺めだった。あやまる岬には、有名な〈聖なる泉〉がある。年に三回、ショ‐ジ(精進の訛りという)の儀式をおこなう巫女(みこ)たちが神がかりになり、海岸まで走っていって波の穂を掬(すく)いあげ、泉にある岩の祭壇にささげる。波の穂とは海の塩のことで、水神を迎える儀礼だという。あやまる岬から海岸へ向けて坂を下ると、道路ぞいのアダンとソテツの林の中に、めざす泉があった。水が崖から流れおちて、岩のくぼみに溜りをつくる場所だ。あいにく今年は空梅雨で、泉が涸れてしまっている。ここから、すばらしいアダン林を抜けて海岸へ出るまで300メートルほどの道のりがあるたろうか。老いた巫女も神がかり状態でこの距離を走り通すという。それも、壮年の男たちに追いつけぬような速度で。奄美のシャ‐マンは、まさに海のシャ‐マンだ。本島で最も多くシャ‐マンを出す霊地のひとつ、今井大権現下の安木屋場では、住民はかつて漁業をなりわいにしていた・聖なる泉からさらに 北へ30分ほど車を走らせると、亜熱帯色の海をよぎるように、切りたった緑の山がそびえたち、そこからさらに沖へむかって、〈立神〉が突きでてたいる。久遠(くおん)の眺めの前では、時間もとまる。思わず車を停めさせ、遥かな岬に見とれた。「あの山頂が今井大権現です。安木屋場はその裏側になりますね」。と神戸からのUタ‐ン組と称するタクシー運転手が説明してくれた。今井大権現とは、奇怪な伝説に満ちた神のやしろである。そのみなもととは、壇ノ浦合戦に破れて喜界島へ落ちのびた平家の遺臣と安徳帝にさかのぼる。三位中将平資盛を征夷大将軍とする一族党三百余人が、まず喜界島に上陸。つづいてあとを追ってきた有盛、行盛の二将が合流し、すぐ目の前にある奄美大島を平定した。健仁二年(1202)、壇ノ浦合戦から十五年あまり後のことである。島の北部、現在の笠利町あたりは、源氏の追手が九州からやって来るというので〈魔西〉と呼ばれるようになった。そのため、ここの守備をまかされた平有盛は、現在の今井大権現のあたりに船見の砦(とりで)を築き、源氏の来襲にそなえたという。ところで、安徳帝の件だが、通常の伝説によれば、三種の神器とともに壇ノ浦の海底に身を投じたことになっている。だが、安木屋場のシャ‐マンが語る伝説は、まったく異なる。安徳帝は平家の落人とともに奄美にたどりつき、竜郷の貴人〈龍家〉の姫とされる安久里加那(あくりかな)を妃(きさき)とした。二人が住むことになった竜郷の一角は、〈安ら木屋の場所〉という意味から、安木屋場と呼ばれるようになった。安徳帝が姫とのあいだにもうけた一子は、今井権現夫と名のり、若大将として逞(たくま)しく育てあげられてのち、今井大権現のある山頂に館を築き、島の守備に一生を捧げた。父の安徳帝は平家再興の旗頭として硫黄島へ上陸した直後に永眠、三種の神器のうち、八たの鏡が、権現夫に継承されたしかし権現夫は父の死を悲しみ、八たの鏡を今井崎に埋めたという。奇妙な伝説である。安徳帝の落胤(らくいん)でもある今井権太夫は死して〈大権現〉と崇(あが)められ、平家が信仰した厳島弁財天もまた、奄美各地に根づくことになった。しかしさらに奇妙なのは、平家伝説の占領地である今井崎が、同時に、奄美における天孫君臨の地て信じられた点だろう。アマミコの名が、君臨した神アマミコ(天照大神にあたるともいう)に由来するように、今井大権現のあたりは古く降嶽神境(おたきみきよ)と呼ばれた。奄美のシャ‐マンのあいだでは、卜占(ぼくせん)の神として〈思金松〉なる神が信仰されているが、今井という名もこの〈思〉おもいの転化したものに思える。ついでにいうと、平家の哀れを主題とした巫女の祈願舞に、アマミコを指して〈重句阿麻みこ(おそらく思金松と同義)〉とあることから、今井とは天孫君臨したアマミコ自体を指す名だったのだろう。ついでに、思金松は方位や吉凶を占う呪術師であり、これがシャ‐マンたちの祖となった。今井崎は、まさしく、奄美シャ‐マンの故知ということになる。そしてわれわれがここで出会うのは、今井大権現の宮司でもある竜郷安木屋場出身の阿世知照信さんであった。当地では、シャ‐マンのことを、沖縄と同じく〈ユタ〉と呼ぶ。この語はユンタ〈歌うの意〉に由来するらしい。通常は女性がユタになるが、若干は男性の巫げきも存在する。今井崎の神がかった眺望に圧倒され、夕闇に包まれていく天孫君臨の峰を恍惚としながらみつめていると、運転手がまた声をかけた。「名瀬へ帰りましょう。暗くなるとケンムンが出るから」。ケンムン?聞き慣れぬ名だった。奄美にはテンゴの神と称する神がいて、内地の天狗に相当するそうだが、このケンムンは河童にあたるかもしれない。ケンムンとは「木につくもの」あるいは「毛のあるもの」の意味で、怪しい猿に似た怪物である。山中にいて、山神につきしたがい、山で勝手に野宿する猟師を襲う。その襲い方がおもしろく、相撲を挑んでくるというのだ。力競べをしかけてくるあたりが、内地の河童を連想させる。しかもケンムンは大集団をなして山中に住む。奄美には九万九千九百九十九の神がおわすがそのうちの三分の一、つまり三万三千三百三十三はケンムンの仲間である。ケンムンは夜になると、人間だけがもっている澄火をほしがって、里近くに出没する。夜道で人を待ち伏せし、口から垂らす毒のよだれで目を抜いてから、火を盗みとる。近年は自転車が走りまわるようになったので、ヘッドライトを狙って襲いかかる。だから、この怪物に狙われたら、呪文をとなえながら窓をあけ、マッチを点して投げだしてやると、ケンムンはその火を持って消え去るという。ケンムンがなぜ火を必要とするのか?夜中の漁のためである。ケンムンの大好物は貝で、かれらは夜になると火を点して磯に出る。ところが磯には、ケンムンの天敵とされる〈八手魔体〉やって‐まるがいる。タコのことだ。タコに吸いつかれると、ケンムンは力が出せなくなる。その際、火は漁火の役割も果たすが、タコ除けの大切な武具となる。しかしケンムンは、本来山の神の眷属(けんぞく)であるにもかかわらず、火だけは点せない。それで人間の火を狙い、火を盗みとると、口から垂らすよだれに移す。このよだれは青い火を発するという。これを次々に仲間に口うつしするのだろう。昔、ある人がケンムンに火を譲ったら、あっという間に山じゅうに青い火が燃えあがったというから、すごい。「ケンムンに出会ったことがあるのですか?」。そう尋ねてみると運転手が答えた。「子どもの頃に一度ね。高い木の上から、友だちの声がするんで、よじ登っていたら、だれもいないんですよ。急にこわくなって、手がこわばり、上からまっさかさまに落ちました。下が藁屋根(わらやね)だったんで助かりましたが、あれはケンムンに呼ばれたんです」。かれは蒼ざめた 顔でささやいた。奄美には、まだ神や魔物がいきている。夜道は満月が美しかった。ケンムンにも出会うことなく名瀬に着いたときも、月は煌々と南の空を輝かせていた。それでふと気づいたのは、ユタの祭がこの満月にかかわっているという事実だった。かれらは自然を神として崇め、とりわけ太陽と月を天孫降臨時の二神になぞらえる。ユタは同時に陰陽道をベースとした占術をも使う。祭の吉日を占う。かれらは日知り=聖でもあって、吉凶のポイントが大陰と太陽の運行工合なのだ。夕食後、われわれはあすの祭の事前取材を兼ねて、名瀬の漁港わきにある阿世知家を訪ねた。玄関の上にある切妻屋根に、丸い鏡が飾ってあった。鬼瓦か、あるいは沖縄のシ‐サ‐と同じ魔除けだろう。中国南部の風水では、八卦を周囲に描きこんだ鏡を、障りのある方位へ掲げて、魔を撃退させる。その鏡をの下をくぐって、二階に通された。六畳間の正面に手づくりの祭壇があり、その前に 親神の阿世知さんが座っていた。よく日焼けした、いかにも奄美人らしい容貌の方である。昭和三年生まれというから、もう60を越えておられるわけだが、とてもそう見えない。若わかしい方であった。奄美神道今井大権現宮司であり、その神法を体現するシャ‐マンが、この人である。親神とは、神障りがあり巫病にかかった患者をユタにさせる導師、の意味である。祭壇の装飾は、すべて親神の手づくりである。目につくのは、火の鳥に似た二体の鳥の像。中央に古めかしい銅鏡があり、馬の置きものも見える。長押(なげ)しの上にある注連縄(しめなわ)の上には、神の姿をあらわす切り紙の人形がある。「神は馬に乗るのが大好きだからね。あの鳥も人形も、すべて神に命じられるとおりにつくった物ばかりですよ。それから、まんなかの古鏡は八し鏡。わたしが十九歳のとき四一度の高熱を出し、どうしても今井大権現に登りたくなったんですよ。そのとき夢中で掘りだしたのが、この鏡と、もうひとつの古い壷でした。そのときは、もう助からないということで、親が棺桶まで用意したんですよ」。阿世知さんの祖父は、九萬法防過(くまんほうぼうか)‐九萬法と称する方術を使う人‐とうたわれた強力なシャ‐マンだった。さらにその祖先で、江戸時代の人という牧清は、ケンムンの襲撃から身を守る法を発見した術師だった。かれはケンムンの弱点である左耳をつかんでなげとばす法を発見し、ケンムンとの相撲に勝った。また、明治から大正にかけて大島郡の在郷軍人会会長だった大叔父も、今井大権現の宮司で九萬法をよくした人ともいう。強力な巫力を継承したのが、 親神 の照信さんであった。親神は小学校四年生のとき、体の調子がわるくなり、最初の巫病にかかった。この病気は、神がその人に「神拝み」を命じ、ユタとなる定めにあることを知らせる信号なのである。食欲がなくなり熱に受かされた親神は、急に今井大権現に登りたくなり、その山頂で七人の神の姿を幻想した。そのときに病が治り、元気をかい復したという。神拝みの願をたてたのはこのときで、七山、七尾筋、深山に水を汲みあげ、最初の儀式をおこなっている。十九歳のときにふたたび高熱を発し、このときは山で、今井権現夫が埋めたとして考えられる八たの鏡を掘りだし、祖父をあっと言わせた。親神が21歳になると、年齢をさとった80歳の祖父が、カミグチすなわち九萬法の呪文を伝授している。祖父は、酒を注いだ盃になにごとか言葉を吹きこみ、それを孫に飲ませたという。〈神うつし〉である。その直後から祖父は一切の言葉を発さなくなった。声を出せなくなったのだ。だからコミュニケーションの方法は、目をパチパチさせることだけ。しかし孫にはそれが読みとれたという。代わって孫は、自分ではまったく聞きおぼえのないカミグチを三回となえるのを見ると、祖父は満足して死んでいったという。こうして 一人のユタが誕生した。
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